わたしがティエリアと出会ったのは、四年ほど前だ。当時学生だったわたしは、不摂生が祟って買い物中で気分が悪くなり、その場で蹲っていた。いつもの貧血だと思っていたのだけれど、なかなか気分が良くならない。そこへ声をかけてくれたのがティエリアだった。路地の隅っこで小さくなっていたわたしに唯一気付いてくれた人。今思えばその瞬間既に、わたしは彼が好きだったのだと思う。

 それから連絡先を聞いて、何度か会う内にどんどん彼に惹かれて行ってわたしから告白した。けれどティエリアは宇宙で何か大きな仕事をしているらしくて、なかなかこちらには戻って来ないのだそうだ。守秘義務があるらしく、仕事についてはわたしには一切話してくれることはなかった。それでも良かった。ティエリアがわたしにくれる言葉は全て嘘なんてないし、地上に来る時は必ずどれだけ忙しくても会いに来てくれた。宇宙にいる時もまめに連絡をしてくれた。

 けれど二年前、あたしの就職が決まった年から、まるでティエリアと過ごした日々が夢だったように彼からの連絡が途絶えた。































 ――お元気ですか?少し時間が空いてしまいましたが、またメールを送っています。




 昼休み、わたしは替えたばかりでまだ少し使い慣れない携帯を持って、画面と睨めっこしていた。本当は前の携帯の方が気に入っていたのだけれど、携帯にも寿命が来てしまったらしく、うんともすんとも言わなくなってしまったのだ。わたしは携帯を二台も持つ必要がない部類の人間なので、予備携帯など持っておらず、一台が壊れると誰とも連絡が取れなくなってしまう。しかも一人暮らしをしているため、固定電話はない。

 そういう訳で、傷一つないぴかぴかの携帯を握り締め、次に続く文章を考える。いつも「どこにいるの?」「会いたいです」なんて答えを求めるような、何かを催促するような言葉は決して入れない。今日どこそこへ行ったとか、こういうことがあったとか、髪を切ってみただとか、当たり障りない日常生活上の話ばかりだ。完全に自己満足のメールとなっている。

 一度だけ、本当に本当に寂しくなって「会いたい」とただ一言だけ打ったメールを送ったことがあったけれど、そのメールにも返事は来なかった。だから、返事は期待しないことにしたのだ。




(昨日、とうとう携帯が壊れました、…と)




 昼休みということもあって、職員食堂は人でいっぱいだ。混雑しているけれど、早めに切り上げられたわたしは隅っこの窓際、日当たりのよい場所を見事確保できた。しかも二人席ということで、一人で座っているわたしの前に「相席してもいいですか」などと声をかけて来る人もいない。

 ああ快適、と思いながらまた文字を打ち込む。世界の誰よりもメールを打つのに時間をかける相手なわけだから、当然、全て打ち終わっても何度も読み返す。スペルミスはないか、変な文章になっていないか、おかしな内容じゃないか、何度も読み返す。そう、何度も。




「あーあー、またメール?」
「え?ああ、かぁ…」
「私で悪かったわね、私で」




 トレイを同じテーブルの向こう半分に置いて、「あー疲れた!」とぐったりしながら椅子に座る。

 同じ学校からここへ就職したのは、同僚の中では彼女、だけだ。ただし学生時代は特に接点はなかった。彼女は優秀で名前は知っていたし、何度か先生に頼まれた業務連絡で話した程度だったのだ。

 けれど、初めて飛び込む社会、同じ学校の出身だと言うだけで親近感がわき、心強くなる。話してみればは良い子だったのですぐに打ち解けた。そして働いているフロアは違うけれど仲良くしている。互いに自分の階の環境の情報交換をしたり、愚痴を言ったり、彼女の恋愛話を聞いたり、わたしの話を聞いてもらったり、だ。彼女はティエリアのことを知っている唯一の人物でもある。




「アンタも懲りないわねぇ。また男をふったんだって?今度は誰よ」
「軍人さん。階級は何だっけか、大尉とかなんかそんな感じ」
「本当に興味ないのね」
「ええ」




 間髪入れずにさらっと返事をする。興味がないものはないのだから仕方がない。ドライと言われようと何だろうと、他に想っている相手がいながら、好きでもない男と付き合えるほど器用じゃないのだ、わたしは。そういうわたしの性格も十二分に理解している彼女は、「いっそ清々しいわ」と大袈裟に溜め息をついた。

 わたしに言い寄って来る男たちは、全てバッサリと切り捨てた。一部しつこい人もいたけれど、わたしも諦めずに拒み続けたら、「君の一途さには私も完敗した、幸せを祈っているよ」などとまるで映画のワンシーンのような台詞を吐いて去って行った。いや、それからも度々わたしの前に現れるが、以前のようにわたしを本気で口説こうとはしなくなったのだ。

 いろんな男がいた。税理士もいた。弁護士もいた。医者もいた。科学者もいた。教師もいた。教授もいた気がする。わたしのどこがそんなにいいのか分からないが(そして彼らの身分も本当かどうかは分からないが)、とにかくティエリアと連絡のとれなくなった四年前くらいから私は男運に恵まれるようになった。ただしその運には乗っかっていないが。




「あーあ、羨ましいわ」
「あげたいくらいよ。わたしは要らないもの」
「じゃあ今度ふる時はこう言うことね。“一階下にっていうとっても優秀で美人な女の子がいるのよ”ってね」
「そうね、断り方よりもとっておきの誉め言葉を考えておくわ」




 時計を見てみれば、もうそろそろわたしは休憩の終わる時間だ。食事よりもメールに時間をかけてしまっていたらしく、流し込んだ紅茶は冷たくなっていた。冷たい紅茶が食道を通り過ぎる不快感に一瞬眉根を寄せ、トレイを持ってわたしは立ち上がった。せっかくが来てくれた所なのだが、今わたしが配属されているのは七階なので少々時間がかかる。もうそろそろ食堂を出なければ遅れてしまう。

 ごめんね、と断ってを通り過ぎようとすると、トレイを持ったわたしの手をが掴む。その強い力に、危うくトレイの上に乗っているものを床にぶちまけてしまう所だった。ひやりと、背中を嫌な汗が伝う。「何なのよ!」と非難すれば、は珍しく真剣な表情をしてわたしを見上げていた。




「ねえ、そろそろ真面目に考えた方がいいわ」
「何のことよ」
「とぼけないで。いい加減夢なんか見てないで現実を見ないと、いつまでも今みたいな状況が続く訳じゃないのよ」
「…そうね」




 そんな夢物語みたいなこと、と、には最初にも言われた。彼女は真面目で、しっかりしていて、将来を見据えていて、人生に目的を持って生きている。現実的じゃない夢なんて見ないし、いつだって自分の力を分かった上で動いている。

 わたしとはまるで正反対。ふらふらしていて、大して頭も悪くないし、よく叱られるし、将来どころか明日のことも考えていない。考えているのはティエリアのことだけだ。わたしが考えるわたしの未来の中には、ティエリアがいるということしか決定事項がない。

 生きているかどうかも、定かじゃないのに。




「それも、考えておくわ」




 彼女は正しい。彼女が正しいのだ。けれど、わたしがどれだけ間違っていようと、笑われようと、忘れられないものは忘れられない。どれだけ苦しくても、間違っても、泣きたくなっても、やめてしまいたくなっても、いつだってわたしを支えてくれたのはティエリアだった。辛いとか苦しいとか零したことはないけれど、わたしが笑っていてもティエリアはわたしが苦しいとすぐにそれに気付いてくれた。何でもないよ、て首を振っても、何かあっただろう、て、わたしが全部話すまで譲らなかった。そうやってわたしは乗り越えて来た。ティエリアがいたからやって来られた。

 連絡がとれなくなってからも同じで、辛いと過去にもらったわたしを励ますメールを何度も読み返した。心が複雑骨折を起こす度、ティエリアのメールに助けられた。

 でなくても、誰だっておかしいと思うだろう。もう二十代にもなった(法律上では一応)大人がいつまで経っても現れない人を待つなんて。の言うとおり、いつまでもわたしに「付き合って下さい」と言ってくれる男の人が出て来る訳がない。賢い女性ならきっと、その中でも一番いい人を選ぶのだろう。重ねてしまわないために、記憶や思い出を埋め立てるように他の誰かを愛するのだろう。




(でも、わたしには無理なんだよ…)




 どう考えても彼を超えるような人はいないと、いつも恋の最中は誰が相手でもそう思う。だけど結局はけろっと新しい恋をして来た。

 でも今回ほど長期間揺るがないのは初めてだ。それも年単位だから、これまでの恋とは桁が違う。それほどまでにまだわたしの頭にも体にもティエリアが残っている。あの男性にしては少し高めの心地よい声も、さらりと流れる髪も、わたしのことを全て見透かす宝石のような瞳も、細いくせに意外と力の強い腕も、キスの前にわたしの両頬を包むてのひらの温度や感覚も、こんなにも鮮明に覚えている。わたしの中の殆ど全てをティエリアが占めたまま、決して消えてくれることがない。

 どれだけ馬鹿だと言われようと、いざとなれば仕事よりも優先できてしまう。何もかもを投げ捨てたっていい。もうずっとわたしはそう思っているのに、やっぱりティエリアにとってわたしはそこまで思うほどの相手じゃなかったってこと?




(…だめだめ)




 待つって決めたんだから。たとえ、四年ぶりにわたしの前に現れたのはサヨナラを言うためだったとしても。

 その時、ふと一つの影が階段の最後の踊り場を塞いだ。顔を上げてみれば、よく見覚えの金色の髪が目に飛び込んで来る。




「随分浮かない顔をしているね、お嬢さん」
「エーカー、さん?」
「こんないい男が私以外にいるとでも?…ああ、君にとってはいるんだったな、これは失礼」




 いつもの調子でそんなことを言う彼に、思わず笑ってしまった。すると、「ミス・、今日はこれを君に」と言って真っ赤なバラの花束をわたしに差し出す。暫くその花束に呆気にとられていたが、「さあ受け取ってくれたまえ!」という強い押しに負けてその花束を受け取った。

 花に罪はないのだが、まだあと数時間仕事が残っていると言うのに、その間に萎れてしまう気がしてならない。それでは少し薔薇が可哀想だ。どうしようかと困っていると、エーカーさんはわたしの手をとって階段を下り始めた。




「え、ちょっと!わたしまだ仕事が!」
「君の上司や同僚には許可を得てある!今日はこれから私に付き合ってもらうぞミス・!」
「そんな無茶な!」
「私は元々無茶な男だ!できないことなどないのだよ!」
「はぁ!?」




 どれだけ腕をぶんぶん振っても解けることはない。軍人と一般人では力の差なんて比べるまでもないから当然だろう。しかしせめて歩幅くらいは考えて欲しい。彼は階段を一段飛ばしで下っているので、わたしはついて行くのに精一杯だ。




「わ、わわわっ!」
「おっと済まない。君がスカートだと言うことを忘れていた。…ならば少し失礼する」
「え、あ、ちょっとぉ!?」




 なんと踊り場でわたしを横抱き(いわゆるお姫様だっこ)して階段を降り始めた。流石に一段ずつ降りてくれるが、何をそんなに急いでいるのかこのスピードは怖い。けれどそんなわたしの恐怖心など見て見ぬふり、楽しそうに笑いながらエーカーさんはスピードを落とすことなく地下のロッカールーム前までわたしを抱えて行った。いや、しかしなぜわたしの使っているロッカールームを知っているのか、さっきの階段よりも怖い。

 結局なされるがままわたしは着替え、本来の仕事の終わるより数時間早く職場を出た。そしてこれで何度目だろうか、彼の車に乗り込み、その気まぐれに付き合うことになってしまった。




「さてミス・、君はどこへ行きたいかな?」
「どこへ、って急に言われても…」
「どこでもいいさ。本が見たいなら本屋へ、何か食べたいならカフェでも、服が見たいなら君の行きつけの店に寄ろう。下着が欲しいならそれでも、」
「エーカーさんっ!!」




  最初の三つはまともだったというのに、四つ目でびっくりしたわたしは叫んで遮った。すると彼は面白そうに声を上がって笑った。失礼な人だと運転席の方を睨むが、まだ彼は笑っている。もう好きにしてくれと私はまたフロントガラスの方へ視線を戻し、どこというわけでもなく前を見る。そこで訳もなく、ああそういえばまだメールを作っている途中だったな、なんて思い出し、鞄の上から携帯を押さえた。




「君は存外、今時珍しく随分純粋な女性だったのだな」
「…誉め言葉として受け取っておきます」
「紛うことなき誉め言葉のつもりだったのだがね。その様子じゃ、君が待ち続けていると言う彼にも染められていないようだ」
「どういう意味ですか」
「男慣れしていない」




 流石、当たりだ。そのティエリアとだって抱き合った回数なんて片手で足りてしまうほど。だから、男に対して免疫がないと言えば免疫がない方に入る。当然だ、誰かと付き合ったことはあれど、キスを含めそこから先はティエリアが初めてだったのだから。

 エーカーさんの向かっている場所も会話も、先が見えないが、考えることすら面倒で全部任せることにした。わたしは運転手の次の言葉を静かに待つ。




「君は以前言った、“わたしに魅力なんてない”と」
「よく覚えてますね。それで?」
「男慣れしていないということは即ち、これから好きに育てられるということだ。けれど君くらいの年でそんな女性は稀少種」
「私は動物ですか。しかもそれってわたしじゃなくても男慣れしていない女の人だったら誰でも良いってことじゃないですか」
「しかし君でなくてはいけない男もいる。そう、私のように」




 また出たか、と思いながら運転席をちらりと見る。当然彼は前を見ているわけだが、わたしの視線に気付いて目だけでこっちを見、またすぐに前を向いた。そして小さなカフェの駐車場に入って車を停めると、改めてわたしを見た。いや、わたしの顔を覗き込むようにずいっと顔を近付けた。びっくりして身を引くが、肘を勢いよくドアにぶつけてしまった。じんじんと痛み、非時から先の感覚がおかしくなる。




「君は男を分かっていない。こんな狭い車内に私と二人、何があっても文句は言えないことが分かっているのかな」




 あなたが強引に連れて来たのでしょう。そう言ってやりたい気分になったが、きっとそれは言い訳に過ぎないのだろう。断りたいのなら他に方法だってあったはずだ。ロッカールームに鍵をかけて閉じこもる、など。けれどそう、わたしはこの人が以前言った言葉を覚えている。




「その心配はありません」
「大した自信だがそれはどこから?」
「エーカーさんはわたしを傷付けたり泣かせるようなことはしません。これまでだってそうでしたから。それに律儀なあなたが“君の幸せを祈っている”と言った言葉を違えるはずがない」




 鼻と鼻がぶつかりそうな位置にありながら、わたしは動揺することなくそう伝えた。目をそらすことなく、思った通りのことを言った。するとエーカーさんは目を丸くし、そして身を引いてまた大きく笑い出した。君には敵わない、などと言いながら。

 わたしはまた訳が分からず彼の笑いがおさまるまでじっとその様子を見ていた。最初に会った時から変わった人だとは思っていたけれど、笑いのツボも随分変わっているようだ。悪い人ではないのだろうが最早ついてはいけない。




「君のそういう所に私は惚れたのだよ」
「会って二、三日しか経っていないのに職場のド真ん中で告白して来た人がよく言いますね」
「おや手厳しい。だが本当だ。こんなにも素敵な女性が待っているというのになかなか現れないとは、本当に罰当たりな男だな」
「本当ですよ、もっと言ってやって下さい」
「なんなら乗り替えるかね、私に」
「それはご遠慮します」




 こんなやり取りを一体何度しただろうか。この人はいつだって私を励ますために、元気付けるために、笑わせてくれた。それは本当にありがたいことで、こんなにもわたしなんかのことを考えてくれているのは嬉しいことで、そして、申し訳なかった。やっぱり何を言われてもわたしの心は傾かなかったから。決してこの人の方を向くことはなかったから。

 そして何より、そう言ってくれるのがティエリアだったらどんなに幸せだろう、なんて一瞬でも考えてしまったわたしは、きっとティエリアよりも罰当たりな女なのだろう。


















(2010/1/4)