未完の二人

 変わって行くことが怖いと思った瞬間から、この人を手放すことが怖くなった。けれど、この人を束縛するだけの覚悟も力も何も持ち合わせていない私は、どんどんと階段を駆け上がって行く彼の背中を見つめる以外できないことに、果てしない無力感を抱いていた。



「いつの間に車なんて買ったの」
「この間賞与でちゃちゃっとね」
「この東京に住んでて車なんて要る?」
「それ慶ちゃんの前で言える?」
「慶ちゃんは仕事が仕事でしょ」
「出た、亜貴ちゃんの慶ちゃん贔屓」

 ぴかぴかの新車を眺めて、けれど「悪くないんじゃない」と言う。あって困らない、ないよりは良い。運転するのも嫌いじゃない。軽自動車で遠出は不安があるけれど、下道でゆっくりドライブするならこれくらいで上等だと思っていた。別に、たくさん人を乗せる訳でもない。

「亜貴ちゃんの送り迎えくらいならできると思うよ」
「不安しかないんだけど」
「失礼な、これでも無事故無違反です」
の癖に生意気」

 こつん、と私の頭を小突いた。言葉の割に、その表情はきつくない。私ががんばって貯金をして買ったこの車も、亜貴ちゃんや慶ちゃんから見たら“それなりの車”なのだと思う。けれど決して馬鹿にしない亜貴ちゃんが私は好きだ。驚きこそすれ、非難することなんてない。出会った当初こそ優しさの欠片もない人だったけれど、もう長年付き合いがあればどこからが優しさでどこからが冷たさなのか、簡単に分かるようになった。懐に入れた人間には、驚くほど情が深い。顔を合わせれば言い合いをしている大谷さんだって然り。言えば顔を歪ませるから言わないけれど。

「で、もう誰か乗せたわけ」
「慶ちゃんが今度迎えに来てくれって」
「慶ちゃんいつでもに甘過ぎでしょ…」
「この間も日帰り旅行ついて来てくれたよ。亜貴ちゃんに断られたから」
「はぁ!?慶ちゃんと二人で行ったわけ?有り得ないんだけど…」

 どういう類の「有り得ない」なのか、そこは正直、何年経っても真意を図りかねる。私が慶ちゃんを誘ったことか、亜貴ちゃんを仲間外れにして慶ちゃんと二人で行ったことか、恋人同士でもない男女が二人きりで旅行したことだろうか。恐らく頭二つの内どちらかだとは思うけれど。
 亜貴ちゃんは大きな溜め息をついた。これは呆れの溜め息だ。

、海行きたいって行ってなかったっけ」
「海も行きたいし温泉も行きたい。なに、一緒に行ってくれるの?」
の運転はごめんだけど」
「熱海くらいなら下道で行こうよ」
「誰が熱海って決めたわけ」
「えっもしかして箱根連れて行ってくれるの?」

 一緒に行く、から連れて行く、にすり替わっていることに当然気付いた亜貴ちゃんの顔が引き攣る。が、仕方ないなあ、と言う風に笑った。何か、雑誌に載ってもおかしくないような綺麗な表情で。
 亜貴ちゃんと進む道が分かれて行ったのは、大学生の頃だった。私のモデルとしての仕事が軌道に乗って来た頃、私は交通事故に遭った。その後遺症で、日常生活に支障はないものの、モデルをするには歩行に支障が出てしまうようになったのだ。そこから私は第一線を引き、今ではただの一般人をしている。モデルを辞めると言った時、亜貴ちゃんには見限られるとさえ思った。関係もそこで途切れるかと。けれど、意外にもその線は途切れず、今でも交流がある。私に気を遣ってかあまり仕事の話はしないけれど、友人としてはいい関係だと思う。

「いいよ」
「え?」
「もうちょっとしたら休み取れるから、行きたいとこ考えときなよ」
「…それは」
の運転で良いよ、僕を助手席に乗せたいんでしょ」
「う、うん」

 亜貴ちゃんは優しい。私はそれをよく知っている。だから思った、あの時だって私を見限らないのではなく、見限ることができないんじゃないかって。一度この距離を許してしまったから、私との関係を絶とうとしてもできなかったんじゃないかって。頑張ると言ったのに頑張れなかった私を、見捨てるなんてできなかったんじゃないかって。どうしたってそれを聞くことはできなかった。この数年、聞く機会ならいくらでもあったのに、できなかった。訊いてしまえば終わりだと思ったから。辛うじて友人としての立ち位置をキープしている私が、もう友人ですらなくなってしまうことが、私は怖かった。私は、ずっと亜貴ちゃんが好きだったのだ。



***



 大きな仕事が片付いたと、亜貴ちゃんからLIMEで連絡があった。思ったよりもその連絡が早く、私は行き先を何も考えていなかった。きっとどこへだって最終的にはついて来てくれるけど、どうせなら楽しいドライブが良い。一応亜貴ちゃんにもリクエストを聞いたけれど、案の定「の行きたい所でいいよ」と来た。じゃあやっぱり海が良いな、と返事を送ると、わかった、という簡素な返事。海沿いの道をずっと走ろう。

 ―――くれぐれも安全運転で。

 追加で送られて来たその一文に、やたら念を押すなあ、と私は苦笑いをした。



***



 海へ行こうと言ったことに、亜貴ちゃんは何の疑いも持っていなかった。いつもどおりの様子で私の車の助手席に乗り込む。狭い、と一言最初に文句が出ただけで、それ以外、私の運転にも文句の一つもつけなかった。
 海への道は、慣れていた。もう何度も一人で来ていたから。けれど、道に迷わないことも、カーナビを見ていないことも亜貴ちゃんは不思議に思っていないようだった。亜貴ちゃんは、私が話を振れば仕事の話をするけれど、振らなければ関係ない話しかしなかった。
 途中、コンビニに寄って一度車から下りると、「案外上手いんじゃない、運転」なんて言う。そうでしょ、調子乗らないでよ、もう乗った、軽口を繰り返して、もう一度車へ。何度も来た海へ向かう。何度も一人で来た海へ。

「亜貴ちゃんはさあ、すごいね」
「何、いきなり」
「慶ちゃんも」
「気持ち悪い、やめてよ」
「私は諦めちゃった人間だからさあ」

 すっかり車通りも少なくなった道で、車を加速させる。すると、何かに勘付いたのか「ちょっと」と私の腕を掴む亜貴ちゃん。…その方が、危ない。私はブレーキをかけて、路肩に車を停めた。

「危ないよ、亜貴ちゃん」
「危ないのはそっちでしょ、何してんの」
「何もしてないよ、まだ」
「まだって……まさか、」

 カーナビに表示された日付を見て、亜貴ちゃんははっとした。私の腕をぐっと掴んだまま離さない。痣ができそうなほど強い力だった。その細い腕のどこにそんな力があると言うのか、やっぱり亜貴ちゃんも男なのだと思い知る。
 だから、だから多分、きっとずっと一緒にはいられない。仕事のパートナーでいられたなら良かった。いつまでも亜貴ちゃんと仕事ができたなら、それが何より良かった。モデルと言う肩書きをなくした私は、亜貴ちゃんには必要とされないから。私は亜貴ちゃんに必要とされたかったのだ。どんな形であれ。

「六年は、早いね」

「でも、長かった」
、」
「これからの方が長いなんて、私、耐えられないよ」

 、と、三度目の名前を呼ぶと、亜貴ちゃんは私を抱き寄せた。助手席側の窓ガラスの向こうには、水平線が見えている。太陽の光がきらきらと海面に反射していた。眩しくて、涙が出る。六年前の今日は、私がモデルを辞めた日だ。

「何、一人で耐えようとしてんの」
「だって、」
「僕も慶ちゃんもを一人にしたことなんてないでしょ」
「だって、それは」

 それは、二人が優しいからだ。あの日から一歩も動けない私を、置いてきぼりになんてしなかった。けれどいつか、重くなる。動いたふりをしながら少しも歩き出せない私に呆れる日が、きっといつか来る。亜貴ちゃんも、慶ちゃんだって。
 更に強く私を引き寄せて、「馬鹿なの」と呟く。馬鹿は亜貴ちゃんだ。こんな私をいつまでも気にかけて。捨ててくれれば、こんな所まで来なかったのに。私は今日、亜貴ちゃんと死ぬつもりだったのに。

「死にたいなら先に言いなよ」
「…………」
「全力で止めてあげるから」
「亜貴ちゃん、」
「バカな

 あやすように言うと、そっと体を離して私の髪を撫でる。頬を流れる涙を拭って、亜貴ちゃんは眉根を寄せた。

と一緒に死ぬことはできないけど、大体の我儘は聞いてあげる」
「亜貴ちゃん…私……」
「うん」
「ずっと一緒にいたい、亜貴ちゃんと」

 分かった、と言って亜貴ちゃんが私の額にキスをする。いつものように困ったように笑って、そうして体が離れた。
 車のエンジンをもう一度かける。Uターンして、元来た道を行く。窓を開ければ潮風が入って来て、海に行った気分になった。ごめんね、と呟いたけれど、風が強くてきっと亜貴ちゃんには届かなかっただろう。
 帰り道、亜貴ちゃんは何も言わなかった。私を責めなかったし、怒らなかった。私の腕を掴むこともしなかったし、こちらを見ることもなかった。そうして長い道のりを帰って来るとすっかり暗くなっていて、亜貴ちゃんのアトリエの駐車場には慶ちゃんがいた。かなり怒った様子で立っていたけれど、私と亜貴ちゃんが手を繋いでいるを見て溜め息をつくと、亜貴ちゃんと同じように、困ったように笑うのだった。