君の待つ部屋

「約束するの、やめよっか」

 にそう切り出されたのは、待ち合わせに時間単位で遅れたり、当日ドタキャンした回数が大台に乗る頃だった。
 職種も生活リズムも違うには、常々寂しい思いをさせていることは自覚していた。休日のデートも、いつも彼女の方がシフトを合わせてくれていて、にも拘らず度重なるドタキャンをする俺は、甲斐性のない男だと思う。いつも文句ひとつ言わず、職場に送り出してくれる彼女に、俺はすっかり甘えていた。

「やめよっか、て」
「言葉のまんまだよ。だって多分、これからも無理でしょ、お互い」

 は、多分今日俺が遅刻したらこう言うことを決めて来たのだと思う。悲しそうな顔も、不満そうな顔もすることなく、いつものトーンで言った。ただ、浮かべている笑みが寂しげなのは気のせいだろうか。
 今日は、の昇格祝いをする予定だった。普段恋人らしいことをできず、年間のイベントも彼女が夢見るようには叶えてあげられない。あまつさえ、記念日と呼ばれるものすら。最近は大きな案件も抱えていて、余計彼女との時間を取れなかった。だから、彼女の昇格にかこつけて、今夜は一緒に過ごそうと思ったのだ。一度連れて来て以来、もお気に入りになったレストランを予約して、プレゼントも用意していた。それなのに、だ。

「私、あなたの仕事も立場も、あなたの性格も理解しているつもりよ。突発的な事件が起これば休みの日でも駆けつけなければならないことも」
「すまない」
「何があっても私を優先しろなんて、そんな幼稚なこと言うつもりはないの」
に甘え過ぎていることは分かっている」
「違う、そうじゃない」

 テーブルに置かれたワイングラスは空のまま、カトラリーも使われた形跡はない。水が半分ほどに減ってしまっているグラスに、店員が水を注ぎに来る。
 どんな言葉で罵られるか、これまでの不満をぶつけられるか、それくらいの覚悟はしていた。けれどは怒りなんて見せることなく、淡々と話を続ける。守れない約束は辛いでしょ、と。その言葉にはっとする。彼女はいつも堪えてばかりだ。俺に言いたいことなど山ほどあるだろうに、自分のことを後回しで人のことを気に掛ける。グラスの水に口を付けると、彼女は席を立った。帰りましょう、そう言いながら笑って。
 何度こんな顔にさせたかもう分からない。聞き分けが良いなんてもんじゃない、いつ愛想を尽かされたっておかしくないのに、はいつだって俺を責めない。もういっそ責めて欲しい気持ちでいっぱいになる。

「家に帰って飲みましょう、その方がきっと気も休まるわ」
「…君がそういうなら」

 結局、を散々待たせた挙句、食事をせずに店を出る。ここのデザートを、メインディッシュよりも楽しみにしていたのに、どんな気持ちで店を出たのだろう。こんなつもりじゃなかった、と言い出せば言い訳しか出て来ない。ただ、の喜ぶ顔が見たかったし、二人だけでゆっくり時間を過ごしたかっただけなのに。
 店の前の大通りでタクシーを捕まえる。思いの外簡単に捕まったそれに二人で乗り込む。けれど、運転手に行先を告げて以降、との会話が始まらない。気まずい空気だけが車内に流れる。彼女の方を向いてみても、彼女は彼女で窓の外の景色を眺めている。いや、流れて行く窓ガラスの向こうを見ているだけで、何が何だと捉えてなどいないのかも知れない。
 手を伸ばせば簡単に届く位置にいるのに、いつもだったら掴める手がやけに遠い。

「ねえ」
「あ、ああ、なんだ?」

 こちらを向かないまま、声をかけられる。思わず、声が上ずりそうになる。けれど、彼女から切り出されたことに内心ほっとしていた。

「明日は休み?」
「休みだよ。君は?」
「私も休み」
「そうか」
「うん」

 それきり、また会話は途絶えてしまう。もどかしい気持ちになりながら、俺もとは反対側の窓の外へ目をやる。段々と、よく見慣れた景色が飛び込んで来るようになる。
 本当だったら今頃、あの料理が美味しかった、あのお酒が美味しかったなどという話をしながら、俺の部屋に向かっているはずだったのだ。全部台無しにした俺にもう何も言わないのは、諦めの表れなのだろうか。
 その時、くいっと袖口を引っ張られる。驚いて隣を見ると、顔はこっちを向かないまま、が俺の服の袖を摘まんでいた。

「私、待つのは得意な方よ」
「…ああ」
「二十歳そこそこの若い子じゃないし、遊びたい盛りでもないから」
「ああ」
「でも、でもね」

 彼女の声が次第に掠れて、鼻声になる。ぎゅっと、指先に力が入った。

「あなたの部屋以外で待つのは、寂しい」

 そう言って、自身の空いてる方の手で目元を拭う。頑なにこちらを向かないけれど、が泣いているのは明白だった。まだ袖を掴んで離さないの手を掴み返した。掴むように握った。冷え切った指先が、彼女の緊張を物語っているようだ。次第にしゃくりあげる声が聞こえ始める。その時ちょうど、マンションの前にタクシーは到着した。精算して降りると、また彼女の手を掴んだ。そして無言のまま部屋に向かった。
 は何も言わないし、俺も何も言わない。とりあえず落ち着いた場所で、彼女の顔を見て彼女の話を聞かなければ。きっともっと言いたいことはあるはずなのだ。店を出て二人になった途端、ぽつりぽつりと零れ始めた本音。約束するのをやめようと言った彼女の真意も知りたい。きっと、店では必死に表情を作っていたに違いない。
 部屋のドアを開けて先に入るよう促す。後ろ手に鍵を閉めて、剥がれ始めた仮面の下の表情に手を伸ばすした。

「ごめん」
「謝らせたい訳じゃ、」
「うん、でもごめん」
「私が首を振らないって、分かってるでしょ」
「甘えてるんだ、もうずっと君の優しさに」

 指先と同じくひんやりとした頬に触れると、ゆっくりと赤く色づいて行く。こんな顔をさせる俺に、もうこんなことを言う資格なんてないのかも知れない。悲しませたくない、いつも笑っていて欲しいと思いながら、いつも暗い顔ばかりさせているのは俺だ。挙句、こんな風に泣かせた。本当はずっと泣きたかったのだろうと思う。俺が傷付くからと我慢してくれていたのだろうと。の性格を思うと、それは想像に容易かった。
 そっと抱き寄せると、抵抗しない。髪を撫で、頬を撫でると、摺り寄せて目を閉じる。

「お洒落なディナーも、仕事終わりのデートも要らないから、」
「うん」
「この部屋であなたを待たせてよ」

 今日初めて彼女と目が合う。赤くなった丸い目が俺を見上げる。切実さを孕んだ声を目で訴えかけて来る。そんなに、首を横に振るわけがない。たまらない気持ちになって、彼女を強く抱き締めた。背中に回された細い腕を感じて、一層愛しくなる。
 ずっと渡し損ねていたスペアキーを渡そう。約束を破ってばかりの俺がそんなものを渡すのは、にとっては重過ぎるのではないかと躊躇っていた。けれどどうやら、それこそが何よりも彼女を安心させられるものらしい。
 もちろん、と返事をして額にキスをする。擽ったそうにして、はようやく笑った。