最近、何をしていても眠い。仕事中も、休日もだ。駄目だと分かっていても、特にデスク仕事の日は眠くて眠くて仕方ない。ついうとうとしてしまって、重治に怒られたりしている。何かあったのかと聞かれたが、特に体調不良という訳でもなく、以前のように夜更かしして本を読んでいる訳でもない。ただ、考え事というか、悩み事がないと言えば嘘になってしまう。眠りが浅いのだろう、欠伸を何度もしていると、多喜二が外に連れ出してくれた。閉塞的な司書室から、世界は一気に広くなる。ようやく春らしくなってくれたお陰で、上着がなくても外を歩ける。

「だったらその悩みを解決するしかないだろう」
「うーん……」

 それができれば簡単な話なのだが、そう簡単に解決とは行かない。だからと言って誰かに相談できるような内容でもなく、ここ暫くずっと悩んでいる。
 多喜二は「座るか」と言って庭のベンチを指す。座って落ち着くと、また睡魔に襲われるが、大事な話の途中だと必死で瞼を持ち上げる。

「…萩原サンのことか」
「う……よくわかったね……」
「この間も萩原サンが原因だったからな。上手く行ってない訳ではないんだろう」
「それはそうなんだけど……っていうか、原因って言い方やめてよ」

 そう多喜二を咎めるものの、そんなことは知らんとでも言いたげな顔をしている。重治ならともかく、多喜二がこんな様子なのは珍しい。さすがに私もしつこく悩み過ぎただろうか。ちょっとしたことでいちいち、とは思っているのに、恋の仕方がよく分からないせいで自分を上手くコントロールできないみたいだ。
 実は今、少し朔先生とはぎくしゃくしている。というのも、私の気のせいではないと思うのだが、朔先生が以前に比べると最近、自意識過剰と思われることを覚悟で言うと、かなり距離を詰めて来るとでも言えばいいのだろうか。こう、ぐいぐい来ると言えばいいのか。ああもう、思い出すだけで恥ずかしい。やたらストレートな言葉をかけて来るようになったのだ。朔先生とそういう仲になって以来、それでもゆっくり少しずつ距離を縮めて来ていた。急接近なんてなかったのに、なぜ今になって。いや、心当たりがないわけではない。

「有島サンが来てから」
「…………」
「やたら萩原サンは司書サンを皆から遠ざけたがるな」
「…やっぱり?」

 多喜二が見てもそうだったらしい。
 先日、白樺派の有島先生がこの図書館にも転生してくれた。その時、手が空いていた人が誰もいなかったため私が図書館や居住棟の案内をしていたのだが、ちょうどその時朔先生と遭遇したのだ。あの日は確か朔先生や犀星くんは休みで、休みの人たちに案内を頼むのも申し訳ないし、有島先生との関係も分からないためお願いするわけにはいけなかった。
 それが駄目だったらしい。有島先生と歩いていた私を見るや否や、真っ青になって駆け寄って来て私を有島先生から引き剥がしたのだ。以降、朔先生は特に白樺派の三人にやたら威嚇をしているように思える。

「萩原サンの気質はよく知っているから誰も何も言わないさ」
「うーん…寛大さに感謝しないと……」
「けど、こんなことしていたら今度は俺や重治が標的だな」
「ど、どうしよう…」

 所謂、嫉妬なのだと思う。私も嫉妬深い方だから分かる。だからこそ朔先生に言いにくい。私だって、図書館に来た女の子が朔先生に話しかけたりしているとなんだか、もやもやするし腹が立つこともある。朔先生は自分でも言っていたけれどコミュニケーションを取るのが苦手なだけで、怖い人でも冷たい人でもない。でも、本当は優しい人なのだということは私だけが知っていればいい。他の女の人は知らなくてもいい。私も大概独占欲は強い方だと思う。
 だけど、だ。このままでは任務に支障が出る。どこかでは必ず同じ会派で潜書しなければならないし、ここでこれからも生活して行くのだから、先生たち同士も私と先生もぎこちない関係になんてなりたくない。…せっかく朔先生と恋人同士になれたのに。

「どの道、萩原サンには自分で言った方がよさそうだな。俺や重治が口を挟んでも悪い方へしか向かない」
「自信ないなあ……」

 私の言うことがどれだけ影響を与えられるだろう。以前ならともかく、今の朔先生に。なんだかんだ、私も流されている気がする。さすが言葉を操ることが仕事なだけあって、本気を出した朔先生には口では到底勝てない。そういえば、よく思うがまま発言して周りに無自覚のまま喧嘩を売りまくっていた人だったっけか。犀星くんも味方につけられないし、白秋先生には私の悩みをその耳にも入れたくない。
 恋愛ってこんなに考えることがたくさんあるものだったっけ。もっと何も考えて来なかった気がする。それが今は、良くも悪くもずっと朔先生のことばかり考えてしまっている。こういう仲になる前も考えてはいたけれど、あの時とはまた随分違う意味でだ。まさか、朔先生にこんなにも独占欲を剥き出しにされるなんて思ってもいなかったし、私がそれで悩むことになるとも思っていなかった。多喜二に言わせれば予測できた事態らしい。
 とにもかくにも、眠い。早く解決してしまいたい。だけど、嫉妬が引き金で朔先生の態度が変わったのだとしたら。

「…ちょっと、嬉しくもあるんだけど」
「それ、重治の耳に入れない方が良いぞ」
「わ、分かってる……でも嬉しいより、」
「噂をすれば萩原サンだ」

 そう言いながら多喜二の見た方を見ると、朔先生が急いだ様子でこっちへ走って来ていた。走っているというか、小走りというか。見ていて大分危なっかしい。

「わわわ、転びそう……」
「…行ってやれ」
「う、うん」
「それと」
「うん?」
「アンタを気にかけているのは重治や萩原サンだけじゃないからな」
「う、うん?うん…?うん…」

 言いたいことが分かるような、分からないような。毎日酷い顔をしていることがそんなにも噂になっていたのだろうか。確かにあれだけ毎日欠伸をしたりうとうとしたりしていれば不審に思われたかも知れないが。首を傾げていると、多喜二はため息をついて見せた。…どうやら私が分かっていない、と言いたいらしい。多喜二は表情こそあまり変わらないが、意外と分かりやすい。
 もたもたしている内に、とうとう朔先生が転んでしまった。もう一つ多喜二が溜め息をつく。慌てて駆け寄ると、何が起こったのか分からないとでも言いたげに、体を起こした朔先生は目をぱちぱちさせている。髪には草が、顔には土がついた朔先生は、私が近寄ったにも関わらずぽかんとした表情を浮かべていた。大丈夫ですか、と私もその場に膝をついて声をかければ、ようやくはっとして顔を上げる。私と目が合うと、途端に真っ青になって見せた。

「朔先生、大丈夫ですか」
「司書さんが調子悪いって聞いたんだけど…」
「へ…っ」
「ふらふらしながら出て行ったって…」
「あっはい、あ、いえ、大丈夫です、その、ひゃっ!?」

 朔先生が私の顔を覗き込みながら手を重ねて来る。さっきまでの混乱した様子は一体どこへ、もうここ最近の顔になっていた。私の左手をするすると撫でて、手首を緩く掴む。その親指が、脈の打っている辺りを探った。それと共に、私の目をじっと見て脈拍以外も探ろうとしているみたいだ。それが、ここ最近私たちが、というか、私が一方的にぎこちなくなっている原因だった。これまで見せたことのなかった表情や言動に変に緊張してしまう。思い出して眠れなくて、その結果昼間に眠気が襲って来る。
 さっき、嫉妬の気持ちがあるなら嬉しい、とは言ったけれど、それはほんの少しなだけで、残りはかなり困惑している。これまでの恋愛では私ばかりが嫉妬していたから、どうしよう、という気持ちが大きいのだ。朔先生のことは確かに好きなのに、あんな目で見られると逃げたくなる。
 すぐに目を逸らしたくなるのに、朔先生は「司書さん」と私を呼んで視線を逸らす私を咎める。どきどきしながらもう一度朔先生の方を向くと、さっきよりも間近にその顔があった。

「ひ、」
「司書さん、自分は、司書さんを困らせてる?」
「え……?」
「司書さんが最近寝不足なのも、調子がおかしいのも、自分のせいだって」
「だ、誰がそんなこと…」
「な…………、…なんとなく…」

 朔先生のせいといえば朔先生のせいではあるのだけれど。どう上手く言った所で、朔先生の名前を出してしまえば罪悪感を背負ってしまうに違いない。私が上手く立ち回れないだけなのに、朔先生せいだなんて思って欲しくない。きっと私が慣れればいいだけなのに、その朔先生の目に。

「朔先生に、心当たりはないのでしょう?」
「…………」
「…あるんですか」
「最近、すごく司書さんを独り占めしたくて、でも、そう思うほど司書さん、困った顔をするから」
「ひ、ひとりじめ…」
「ほら、困ってる」

 そう言って、空いている左手で私の頬に触れる。一瞬目を瞑ったけれど、すぐに目を開けてみる。…私なんかより、朔先生の方がずっと困った顔をしているではないか。
 独り占めしたい、と言われて、嫌な気分ではない。けれど、私の思った以上の気持ちを注がれていることを知って、頭の中で処理が追い付かないのだ。何もかもが初めて知る気持ちばかりで、私が自分の感情を持て余している。それを、どう伝えればいいのか分からない。そのままの気持ちを伝えて、朔先生が笑うなんてことはないだろうけど、もっと困らせてしまうのではないだろうか。
 まだ、朔先生にどこまで凭れていいのかが分からない。朔先生が私に何を求めているのかも分からない。こうやって手を握られて、頬に触れられて、私はどんな反応をすればいいのだろう。どうやって返すのが正解なのだろう。それだけじゃない、その目にも、言葉にも、ここ最近の朔先生の私への態度にも、どうリアクションするのが正しいのだろう。困っている、そう指摘されれば、そうです、としか言えなくなってしまった。だめだ、泣きそう。

「司書さん、もっと甘えてよ」
「え……?」
「自分では頼りないかも知れないけど、他の誰かから司書さんのことを聞くのは…」
「…………」
「あまり、良い気がしないんだ」

 困った顔をしながら私の頬を撫でた。困っているのはお互い同じらしい。
 朔先生に限らず、ずっと甘えられる側だったから、甘え方が分からなかった。自分は甘えられる側の人間なんだと思っていたし、それでいいと思っていた。それが裏目に出てしまった。朔先生が「なんでも言ってよ」と続ける。

「司書さんのことでも、自分のことでも、それ以外のことでも」
「せんせ……」
「自分は口が上手くないから、上手に聞き出せないし、でも、どれだけ司書さんを見ていても、分からなくて」
「…………」
「他の皆は分かるのに」
「そんなこと、……」

 そんなことない、なんて、朔先生を見れば言うことができなかった。あんなにも毎日迫って来ていた朔先生が、久し振りに弱っている。以前、よく見たような泣きそうな顔をしていた。
 多分、無理をしていたのは朔先生も同じだった。自ら人と距離を詰めようとしたり、理解しようとしたりするのは、朔先生だって得意じゃない。けれど、それを私相手にしてくれていたのだ。それなのに、私が朔先生から逃げていた。好きだと言われた相手に逃げられれば追いかけるのは多分当然で、向き合わなかった私に非があった。朔先生もやり方は上手ではなかったかも知れないけれど、朔先生が一歩近寄ってくれたのに、私は後ずさってはいけなかったんだ。
 まだ私の頬に触れている朔先生の手に、私も自分の手を重ねる。最初に朔先生に触れられた時から、この手の優しさは何も変わっていない。

「私、言葉が足りなかったみたいです」
「……うん」
「朔先生の接し方が急に変わって、動揺しちゃって…」
「それは…その…恋仲らしく見えないとか、もっと恋人らしくしろとか、言われて…」
「……あの、それは誰に…」
「い、いや、それは、誰でもいいよ…」
「…………」

 何となく察しはつくけれど、その変な煽りのせいで拗れかけたということはよく分かった。結局、私がぎこちなくなってしまった原因は、朔先生ではないではないか。けれど、そんなことよりも衝撃的な言葉を朔先生が続ける。

「じ、自分も悪いんだ。真っ赤になって困る司書さん、悪くないって思ってしまって」
「へ、え、えぇ……!?」
「ご、ごめん、ごめん司書さん」
「え、いや、あの……」

 しどろもどろしている内に、朔先生の顔が段々近付いて来る。あ、と思った瞬間には、唇が触れていた。それは一瞬で離れて、何が起こったか分からないまま、次に瞬きをすると今度は朔先生の腕の中にいる。瞬きを繰り返す、何度も何度も。何の前触れもなく、予告もなく初めて唇を落とされた場所。抵抗する間もなかったし、まさか、まさか唇が触れるなんて、キスされるなんて。

「さ、さくせんせ、」
「恋人に見えないなんて、言わせなくないんだ、誰にも」
「せんせ、」
「司書さん、もう一回」

 私の肩を掴んで、私をじっと見つめる二つの目。ほんの数秒で、まるでのぼせたようになる。ただただ顔も体も熱い。自分の顔が真っ赤なのだろうということは、簡単に想像できた。嬉しいとか幸せだとか、そんな私の感情は全部置き去りで、目の前で起こっていることを理解することに必死だ。どきどきして仕方がない。キスされたということも、朔先生の言葉にも。
 私の返事を待ってくれてはいるけれど、当然、その答えなんて一つしか残されていなくて。

「はい……」

 重ねられる唇に今度は目を閉じる。目を開けていたら余計心臓がおかしくなりそうだ。もうこんなにも心拍数が上がっているのに。ここが外だということも忘れているのか、何度も角度を変えては口づけられて、いい加減酸欠になりかけたところで、ようやく気が済んだらしい朔先生が唇を離した。流石にどれだけ促されても朔先生の顔を見ることなんてできない。すると、また私を抱き寄せて左手は私の右手を絡めとる。まだ足りないとでも言うかのように何度も手を撫でて、ようやくぎゅっと握られた。

「司書さん、困ってる…?」
「こ…っ、困ってます…!」

 困らないはずがない、戸惑わないはずがない。今、初めてこんなにも朔先生も男だったんだ、て思った。もうそのまま、喰われてしまうんじゃないかと言うほどに。今日のことを思い出して、まだしばらく眠れない日が続きそうな予感がしている。そう伝えれば、

「慣れればいいんじゃないかな…」

 なんて言うものだから、眠る方法を考えるより、私が朔先生に慣れるしかないのではないかと思った。恋仲らしく見えないというのは、私ももやっとしたから。朔先生にしては荒療治のような気がするけれど。何度も繰り返す内に、動揺ではなくてちゃんと嬉しいと思えるようになるのだろうか、キス一つも。とりあえず、頭の上で朔先生の機嫌が良さそうなので、私も緊張しながらその背中に腕を回した。すると、何度も「司書さん、司書さん」と嬉しそうに呼ばれてたものだから、真っ赤になった顔を朔先生の心臓の辺りに押し付けた。











(2017/05/01)