月の綺麗な夜だった。満開の桜と満月の二つが揃ったから、急に朔先生と過ごしたくなった。夕飯を終えて二時間、寝ているのは賢治くんと南吉くんくらいだろうと、決死の覚悟で朔先生の部屋を訪ねてみた。私から朔先生の部屋を訪問するのは初めてで、私も随分緊張したけれど、先生は大層驚いたようだ。夜桜を見ませんか、と訊けば、「ちょ、ちょっと待って…!」と言って慌ててドアを閉める。直後、何やら立て続けに大きな物音がしたかと思えば、やや疲れた様子の朔先生がもう一度ドアの隙間から顔を覗かせた。

「ほ、本当に……」
「本当です。ほら、あの、これ、お酒もありますし…」
「……よ、夜だよ」
「え、ええ、でもそんな、夜更けじゃないですし…」
「でも……」

 まだ交際を始めて間もない私たちは、距離を上手くはかれずにいる。どこまで近付いていいかなとか、どこまで何を訊いていいかなとか、そんなことを悩んでいるものだから、当然どこまで甘えたら、なんてかなりハードルが高い。けれど、今年の桜ももうすぐ散ってしまう。昼間のお花見ならこの間図書館を挙げて開催したから、別の機会に朔先生と二人で見たかったのだ。そういうわけで、今に至ったのだけれど、朔先生はこんな時間になんて、快く思わなかったらしい。

「あの、無理ならいいんです。ごめんなさい」
「そうじゃないんだ…!ただ、司書さんが風邪引いたら、駄目だと…」

 もごもごと、言葉がどんどん小さくなる。私は数回瞬きをした。つまり、別に不快だったわけではなく、単に私が極度の寒がりであることを慮ってくれていたのだ。
 なんだろう、これ。急に恥ずかしい。朔先生に心配されるなんて、ちょっと新鮮で恥ずかしい。いや、朔先生は優しいから、きっと口では言わないだけでこれまでも心配してくれていることはあったのかも知れないけれど、こうして言われると、なんだか、本当に何と言えばいいのか分からない。恋人になると、こんなにも急に変わるものなのだろうか。この頃、ぼそりと時折発する一言は私を気遣うものばかりで、とても痒い気がする。そわそわする、そんな感じだ。
 ともかく、私がしっかり防寒をすると言えば、ようやく朔先生は首を縦に振ってくれた。コートを着て、ストールを巻いて、膝掛けも持って来た。膝掛けは忘年会でみんながプレゼントしてくれたもので、部屋ではいつも愛用している。それに気付いたのか、朔先生は膝掛けに気付くと小さく笑って見せた。つられて私もへらりと笑う。なにこれ、ちょっと幸せかも知れない。

「ライトアップはないですけど…ここはビルもないし月明りで十分見えますし、綺麗ですよね」
「う、うん」

 居住棟を出て中庭へ向かうと、月に照らされた桜が神秘的だった。けれど、詩人でも俳人でも小説家でもない私は、それを上手く言い表す言葉を持っていなくて、きっと私の持てるだけの言葉を使っても、朔先生には敵わないんだろうな、と思った。朔先生は、青猫以降は詩の執筆は精力的にはされていなかったようだけれど。それでも、今日のこの景色を朔先生ならどう表現するのだろうかと思った。生まれながらの詩人、と呼ばれた朔先生なら。
 特務司書に就任して、勉強はしなければと、いろんな人の本を読んだ。それこそ、朔先生たちの時代の本も、最近の本も。けれど、朔先生の本ほど繰り返し読んでいるものはない。もちろん、その全てを理解できている訳ではないけれど、今でも日本語の表現の素晴らしさを評価される朔先生の本は、何度読んでも飽きることがない。恥ずかしいから、そんなこと本には言えないけれど。
 中庭のベンチに腰掛けると、朔先生は私の持っているお酒に目をやった。何てことない、昼間その辺で買って来たカップ酒だ。詳しくないからどれが美味しいか知らないし、時々冷蔵庫に保管されているのを参考に仕入れて来たものだけれど。袋の中身が二本なのを確認すると、眉根を寄せた。

「…司書さん、お酒飲めたっけ」
「………あんまり…」
「じゃあ、飲んじゃ駄目だよ」
「う……」

 お茶にすればよかったね、と朔先生が苦笑いしながら、私の手から袋ごと取り上げる。まあ確かに、そうすれば先生と同じものを飲めた。同じ月と桜を見て同じように綺麗と思い、同じお茶を飲んで同じようにおいしいと思う。今はただ、どんな小さなことでもいいから共有していたいのに。その反面、朔先生が喜んでくれたら、とも思うのだけれど。
 お花見の日は凄まじかった。普段からお酒を飲んでいる人はいつも以上に、それ以外の人だって、賢ちゃんと南吉くん以外は全員少しは飲んでいたと思う。かくいう私も、太宰先生たちからのお酌を断れずにほんの少し口にしたのだけれど、直後、すっ飛んで来た重治に取り上げられてしまった。…そういや、朔先生もそれこそいい顔をしていなかったっけ。ずっと朔先生が離れてくれなかったのだ。

「ね、先生、やっぱりちょっとだけ」
「だ、駄目だってば」
「…何でですか」
「多分、司書さんにはきついよ」
「一口で酔うほどじゃないですって」
「飲んだことあるの」
「ないです、けど……」

 でも、先生が美味しいと言うなら私も飲んでみたい。ほんの一口だけでも。すると、とうとう根負けしたのか「少しだけなら…」と言ってくれた。その一言にぱっと顔を上げると、目の前には先生の手にしていたカップ酒が差し出されている。

「…………」
「司書さん?」
「あの、これ……」

 待って、まさかこれを飲めというのだろうか。いやいや、そうだ、私も考えなしだった。新しいものを開けてしまえば結局は朔先生なり誰かなりが飲まないといけないわけで、そう思えば既に開封されているものに手を出した方が良い訳だけれど、けれど、これは駄目だ。つまり、朔先生が既に口をつけているもので、それを差し出されたということは、つまり。

「あ、あの、やっぱり、やめときます……」
「そう…?」

 回し飲みに慣れているのだろうか、それとも深く考えていなかったのか、特に意味はないのか、不思議そうに首を傾げて、けれどどこかほっとしている様子の朔先生。
夜でよかった。もし明るかったら顔が赤くなっているのがバレバレだ。こんなことくらいで、と人は笑うだろうか。小学生でもあるまいし、と。けれど、まともに男性とお付き合いもしたことのない私にとっては大問題なのだ。こんな、回し飲み一つが大変な事件なのだ。それが最近恋人になったばかりの相手ともなれば。
 横目で朔先生を見ると、またお酒を口に含み、喉が動いているのが見えた。こうして見ると、男性なんだなあ、と思う。私の前では決して吸わないけれど、時々こっそり喫煙所で煙草を吸っている所とか。本を山ほど抱えていたら手伝ってくれる所とか。付き合う前には意識しなかった所に目が行って、新しい発見をする度にどきどきしてしまう。ここに来た当初は、あんなにあたふたしていたし、私の方が助けることは多かったはずなのに、いつの間にか立場は逆転だ。特に、年間研究で文学史に頭を悩ませていると真っ先に駆けつけてくれる所はとても頼もしい。…だめだ、また心臓が痛くなって来た。

「司書さん」
「は、はい」
「寒くない?」
「大丈夫、です」

 つん、とアルコールのにおいがする。慣れないにおいにくらくらした。多分、これ以上寄ればそのにおいはきっと不快になる。それでも、この私たちの間に微妙に空いた空間がもどかしい。もう少し近付いていいかな。できれば、肩が触れるくらい。まるで、いつだったか読んだ小説に出て来たのと同じようなシチュエーションなのだ。あの小説に出て来た女性みたいに、彼の肩に甘えるくらいできれば可愛げもあるのだろうけど、残念ながらとてもじゃないがそんなことはできない。だから、あともう少し距離を詰めるくらい。できるだけ不自然に思われないように、ほんの少しこの隙間を埋められれば。…ベンチに投げ出された朔先生の左手を見つめた。あの手に触れたい。

「……朔先生」
「なに?」
「もう少し、そっちに行って、いいですか」

 部屋を訪ねた時より何十倍も緊張して、カタカタと膝の上で握り締めた両手と声が震えた。朔先生からの返事はない。脈絡がなさ過ぎて引かれただろうか。緩やかに風が吹いて、木々が掠れる音だけが響いた。数秒沈黙が続いただろうか、私にはもう何十分も続いたように思えたそれは、右隣の影が動いたことによって断ち切られた。なに、と言葉を発することもできなかった。無言のまま、朔先生は私の隣にぴったりとくっついた。肩と肩が触れ合う距離だ。いや、距離なんてものは衣服数枚分しかない。更に、固まっていると握り締めている私の右手を取って自分の膝の上に乗せた。これには私も驚きのあまり声を上げそうになったけれど、ひゅう、と喉が鳴る音しかしなかった。
 思いもよらぬ先生の行動に混乱する。カチカチに固まったまま動けない。それなのに、変な汗が出る。なんで、こういう時だけ朔先生は潔いのだろう。というか、なぜ何も言わずこんなことをするのか。あまりに心臓に悪くてどうすればいいのか分からない。

「司書さん」
「は、はい……っ」
「そうやってすぐ赤くなるから、だから、お酒は駄目だよ」
「へ……!?」
「ここは、その…色んな人の目があるから」

 言われている意味はよく分からないけれど、この満月のせいで私の顔が赤いことは先生に知られてしまった。思わず、空いている左手であまり意味はないと分かりつつ前髪を撫でつける。俯くと、はらりと髪が落ちて来て丁度よく顔を隠してくれた。
 落ち着かない。そんな風に、女性扱いされるとどうも落ち着かない。それが、あの朔先生だとなお。嬉しいけれど、まだなんだかくすぐったいような、恥ずかしいような。とにかく、朔先生が心臓に悪い。これが、単純に嬉しいとだけ思えるようになるのだろうか。自分でもまだまだ時間がかかりそうな気がする。
 動揺で泣きそうにななりながら朔先生を見上げる。また一口お酒を煽る先生の顔も、それのせいかもっと他の理由があるのか、やや紅潮している。ああ、その理由も私と同じだったらいいのにな、と思うと、ますます自分の頬が熱くなるのを感じた。握られた手もどんどん熱くなっているような気がする。少し力を込めると朔先生も握り返してくれて、目が合うと照れたように微笑みかけて来る先生。そうすればもう私は、桜どころでも満月どころでもなくなってしまったのだった。











(2017/04/26)