僕が転生して以来、喫煙所にほぼ現れなかった萩原君が、最近よく喫煙所にいるのを見かける。しかも随分思いつめたような表情でだ。今日もまた、煙と共に非常に重い溜め息をついていた。まあ大方、彼の悩みの種と言えば一つしかないだろう。けれど敢えて聞いてみることにした。

「萩原君、悩みでもあるのかい」
「あ、ああ、いや、ちょっとね……」

 萩原君の悩みと言えば、司書さんのことに他ならない。気まずそうに顔を逸らすと、また煙を吐き出した。
 うちの司書さんは嫌煙家で有名だ。まず特務司書に就任して一番にこの喫煙所であるプレハブ小屋(図書館の敷地の大分隅においやられている)を作り、居住棟では一切吸わせないという厳しさ。まあ、あまりに違反者が出るため居住棟の外にも同じような喫煙所が設けられた訳だけれど、煙草の臭いを落とさず食堂にでも行こうものなら食事抜きも辞さない。そんな司書さんに恋愛的な意味で好意を抱いている萩原君は、以来禁煙していたはずだ。それが一体どういう風の吹き回しだろうか。玉砕したという噂は入って来ていないというのに。

「そういえば司書さんが」
「う、」
「……司書さん、」
「うう…」
「…………司書さんと何かあった?」
「…………」

 分かりやすく反応する萩原君には、とうとうそう訊ねるしかなかった。司書さん、という単語を出す度に青褪めるのは、流石に見ていられない。玉砕するまでは行かなくても、司書さん関係で何かあったには違いないらしい。しかし、彼女に男の影もない。だとすれば、なぜこんな所でまるで自棄にでもなっているかのように連日煙草を吸っているのか。

「司書さんを、泣かしちゃったんだ」
「へえ、君が」
「感心しないでよ…」
「女を泣かせることとは無縁そうだからね」
「でも泣かせたんだ」

 どんよりとしながら肩を落とす。一体何があったのやら、あんなにも仲睦まじかったというのに。喧嘩どころか、些細な言い合いすら見たことがないのだ。見ていてこちらが恥ずかしくなるような、何とも初々しい二人だったはず。二人がそういう仲になるまでは犀星や北原君が大分気を揉んだり節介したりしたようだが、二人が交際を始めたとなればそれはそれで気が気でない所はあの二人にはあるようで、目下その進展に今度は頭を悩ませているようだった。当事者である司書さんと萩原君は露知らずといった具合だったけれど。
 泣かせたとは言っても、どの道取るに足らないことだろう。萩原君が司書さんを抉るほど傷付けるとは思えない。批評は随分、いやかなり辛辣な所があるし、遠回しな言い方というのを知らないから、北原君とは違った意味で周りに喧嘩を大安売りしていたことはよく覚えている。悪気はないそんな彼の気質を理解しているのは親しい人間だけだったと思う。昔も今も生きにくい人間のようだ。
 兎にも角にも、きっとそんな彼のことは司書さんも既に十分理解しているだろうから、恐らくだが双方に非はない。…と、更に一本煙草を取り出した彼の手にふと視線を落とすと、あるものが目に入って来た。

「君、その手どうしたんだい」
「手……?」

 よく見れば両手の甲に、猫にでも引っ掻かれたような痕がある。犀星はよく猫に懐かれているが、萩原君は怖がって近付かないはず。それがどうして、あんなにも赤い引っ掻き傷ができているのか―――が、無粋な質問であった。次に彼の顔を見た時には、やや赤い。ああ成程、と納得したところで、返事はもういいと何か言おうとした萩原君を遮った。

「ああつまり、そういうことか」
「そ、そうじゃなくて、いや、そうなんだけど…」
「どっちだい」
「同意の、上だったんだけど」
「だったらいいじゃないか」
「朝になって、泣かれて」
「…………」

 何と言えばいいのやら。思いの外、事情は複雑であった。聞けば、その件は何とか落ち着き、司書さんとも拗れた訳ではないそうなのだが、以来夜彼女を訪れていないのだそう。それで一人悩んで喫煙に繋がっている、と。普段もこれまでのように司書さんに触れなくなったと嘆く姿は哀れとしか言いようがない。ただ、司書さんは別に嫌ではないらしい、ということを考えれば彼女に触れるくらいどうということない気がするのだが、まあ、そこは彼のこの性格上仕方がないと言えよう。以前はまるで姉のように世話を焼いていた彼女のことだ、彼女の方から萩原君に触れに来るのも時間の問題ではないだろうか。こうして一人でふらりと喫煙所に来ている間にも、あの突然女の顔になった司書さんが萩原君を探し回っているかも知れない。杞憂に終わりそうな問題である。

「さ、朔先生…っ!」

 そら見ろ、司書さんのお出ましだ。随分走り回ったらしく、喫煙所の入り口から顔だけ除かせている彼女は息を切らしており、その頬は紅潮している。それとは逆にまた真っ青なしている萩原君は、慌てて煙草を消し、あろうことか僕の吸っていた煙草まで取り上げて灰皿に押し付けた。ここは喫煙所なのにそこまでしなくても。

「司書さん、駄目じゃないか、喫煙所なんかに…!」
「でも、先生どこにもいないから…ここしかないって犀星くんと白秋先生が…」
「とりあえず出よう、自分も、すぐ出るから」
「でも先生、休憩中でしょう」
「もう終わりだったからいいよ」

 そう言って入り口まで駆け寄ると、司書さんの背中を押して喫煙所から遠ざける。でも、と何か言いたげな司書さんのことなんてそっち退けだ。確かに司書さんは嫌煙家だけれど、そこまで慌てなくてもいいだろう。そんな呑気なことを思いながら新しく一本取り出すと、「駄目だ!」と声が飛んで来る。それがあまりにも鬼気迫る様子だったため、大人しく煙草を仕舞った。そして、司書さんが喫煙所の設置と共に僕たちに使うよう指示した消臭剤なるものを萩原君は必死に自分に振りかける。随分念入りだ。どうも、ここは喫煙者には肩身が狭い。完全禁煙にされることを思えば、喫煙所を設けてくれているだけましではあるが。

「そこまでする必要があるのかい。彼女にも妥協は必要だろう」
「駄目だよ、司書さんは喘息なんだ」
「……ああ」

 心配そうに、喫煙所の外にいる司書さんを見遣る。肺炎にでもなったら、と不安げな声で呟いた。
 萩原くんが神経質になる理由がよく分かった。つまり当時は、若くても肺炎で命を落とすことは多々あった。現在は随分医学も進歩しているというから、そこまで過保護にならずとも彼女ほどの若さで滅多なことはないと思うが、可能性というのはどうなるか分からない。そんなもしものことを考えてなのだろうが、それでも彼に喫煙を選択させたのだから、司書さんは随分萩原君を振り回している。罪な女とでも言うべきか。まあ、振り回されているという自覚がなければそれまでだ。
 喫煙所から彼が出るのを見送ってから、ようやく僕は二本目を手にする。窓ガラスの向こうの会話は当然聞き取れないが、相変わらず二人は仲睦まじい様子である。ぎくしゃくしているようには、とてもじゃないが見えない。やがて、僕と同じように萩原君の手の甲を見た彼女はぎょっとした顔をし、自然にその手に触れて見せた。…ほら、やっぱり杞憂じゃないか。泣かれたからと言って避けていれば、一度触れられた彼女が耐えられなくなるに決まっているのだ。
その内また彼は喫煙所から遠退くだろうし、あの手の甲の引っ掻き傷だってなくなるだろう。きっとまた休館日にはどこぞで二人して転寝している姿を見ることになるに違いない。











(2017/04/11)