本のことは詳しくは分からないけれど、彼らは古い本にほど目を輝かせることがある。それは書かれた年代、という訳ではなく、その本そのものが発行された年代という意味だ。所謂、初版本というやつだ。CDで言えば初回プレスと同じだそうで、時折誤植などがあるとそれはそれでプレミアがつくのだとかつかないのだとか。少し調べてみたが、本当の本当に最初に出版された初版本や、旧版というものは現代にしてみればかなりの価値があり、コレクターなんてのも存在する。ああ、だから古書店があるのか、とそこで初めて思ったのだった。けれど、価格を調べてみればこれもまた目が飛び出すようなものもあった。そりゃあ、記念館や史料館で大事に保管されているわけだ。

「こ、古書店、これから?」
「あ、あの、はい、せっかくのお休みなので、どうですか」
「自分でいいの…その、せっかくのお休みなのに」
「そんな!今回の昇級は朔先生の力が大きいんですから」

 史料館に出かけてみるのも良かったけれど、あそこは何と言えばいいのだろうか、確かに重要な史料ではあるのだけれど、かなり個人的なものも展示されている。例えば手紙だとか日記だとか。流石にそれは自分で見たくないのではないだろうか、私なら絶対に嫌だ。そういうわけで、決死の思いで初めて朔先生を外出にお誘いしたのだけれど、我ながらかなり苦しいし無理があると思う。昇級で臨時賞与が入ったのは事実で、潜書しているのも私ではなく彼ら。だから、然るべき所に還元すべきと考えている。まず朔先生に、というのは他の人たちに知られれば贔屓だなんだと文句を言われるだろうが、潜書回数が群を抜いて多いのは確か。取ってつけたような理由は結局言い訳程度にしかならないのは重々承知している。それでも、朔先生と二人で街に出るなんて、これくらいしか思いつかなかったのだ。

「自分で、よければ…」
「は、はい」

 自分の行きたい所に連れ出すなんてできなくて、でも朔先生が街に興味あるかどうかも分からない。これだけずっと助手もしてもらっているのに、実は知らないことが多いのだ。だからと言っていつまでもこうして足踏みしているなんてこともできない。どうにかして朔先生と近付きたいし、もっと朔先生のことも知りたい。そのためには一度図書館を出なければ。ここはあまりに人目があり過ぎる。ここで二人きりになるなんて無理な話なのだ。とはいえ、断られること覚悟だったのだが、なんとか朔先生は了承してくれた。…そして、一度街へ出たい理由はもう一つあった。

「ご機嫌だね、いいことでもあったのかい」
「いえ別に、そうですかね…」

 白秋先生の目が最近随分厳しい。この間、司書室の前で待ち伏せされていたのは本当に怖かった。寿命が縮まった。あれ以来なんとなく白秋先生を避けているし、北原一門が揃って司書室に居座ることもない。代わりに、何をしていても白秋先生の視線が刺さるようになった。いっそストレートに言ってくれればいいものを、この間もあんな風にぼんやりとしか言ってくれないし、目でプレッシャーをかけられるのは本当に疲れる。そこから逃れて気を休めたい。
 と思った矢先、白秋先生に捕まった訳だが、どうにも上手く誤魔化せない。どう嘘をついてもきっと見透かされる。隠し事をする気かい、とでも言いたげな目で見られて、思わず目を逸らした。白秋先生から見れば、普段とは違う多少余所行きな格好をしていれば、それはそれは浮かれているように映っているのだろう。とりあえず、この人から逃げることができれば何とかなる。それでは、と挨拶もそこそこに去ろうとしたら、「そうそう」と私を引き留める。

「帰り、遅くなっても構わないよ」
「はあ!?」
「君がいないと好きに煙草が吸えるからね」
「あ、そうですか……」
「何のことだと思ったのかね」
「なんでもありません!」

 こういう所が何だか、とても気に喰わないというか、踊らされているというか、手のひらの上で転がされているというか。頭のいい人なのだろうが苦手だ。嫌な意味でどきどきさせられる。冷や汗をかきながら、先程朔先生と待ち合わせの約束をした図書館の裏門へ向かう。急いで来たものの、そこには既に先生の姿があった。

「すみません、お待たせしました…!」
「だ、大丈夫だよ司書さん、そんなに待ってないから」
「ちょっと、捕まってしまって…!急いでは、来たんですが…!」
「大丈夫だから、その、落ち着いて」

 深呼吸を促される。白秋先生を振り切り、走って来たせいで息が切れる。なんだか、いつもと立場が反対だ。背中をさすってくれるけれど、逆にどきどきしてしまう。さっきとは違う、嫌ではないどきどきだけど、これはこれで心臓に悪い。思ったより手大きいんだなあとか、そんなことを思ってしまえば背中がどんどん熱くなるようで、「もう大丈夫です!」と慌てて距離を取ってしまった。誤魔化すように「ほ、ほら行きましょう」と先を促す。駄目だ、今日一日持つ気がしない。遅くなっても大丈夫だ、なんて言われたけれど、午後には帰らないと私が耐えられない気がして来た。おかしい、少し前まではこんなことなかったのに、好きだと自覚した途端、こんなにも変わるものだろうか。何かおかしな病気でも併発しているのではないかとすら思う。以前のように話すこともできなくて、もうどうやって平気で話していたのかも分からない。
街まではバスを使わないといけなかったが、幸か不幸か田舎なお陰で混雑していない。これが都会の電車だったらこの時間の車内は混んでいて、もしかすると朔先生と至近距離になっていたかも知れない。駄目だ駄目だ、そんなの耐えられない。密かに空いた車内に感謝した。ちらりと隣に座る先生を見れば、現代の景色に興味を持ったようでいつになく目を輝かせていた。

(ああもう、駄目だ……)

 楽しそうな朔先生を見ていると嬉しい、なんて、こんな気持ちになるのは一体いつぶりだろう。恋をする余裕すらこの数年間なかったようだ。ご無沙汰な感情に頭がついて行かない。

「すみません、30分ほどかかりますが…」
「う、うん」
「…外に出るの、初めてですよね」
「う、うん」
「…………」

 朔先生は窓の外を向いたままだ。こっちを向かれたら向かれたで緊張するし焦るけれど、これはこれでちょっとだけ残念ではある。この景色を見ながら、朔先生は新しい詩へ思考を走らせているのかも知れない。だとしたら、邪魔しないのが一番だ。生まれながらの詩人、と白秋先生に称された人だ。私には想像の及ばない世界に生きている。それを全て理解しようとは思わないし、できるはずがない。けれど、その世界から生み出したものは理解したいと思う。だから、先生の著書も読んでは、いるのだけれど。

(難しいんだよね…先生自身を理解するよりも…)

 作品は確かに先生の一部であるはずなのに、どれもこれも解釈を教えてもらわなければ正しく理解することができない。犀星くんは嫌な顔ひとつせずに教えてくれるけれど、ちゃんと自分で解釈する努力をした方がいいのだろうか。いや、してはいるのだけれど、朔先生の本なんて、毎日というくらい読んでいるのだけれど。
 そう、あれこれと思いを馳せている内に、いつの間にか街についていた。予定のバス停で降りて、調べておいた古書店まで歩く。古書店通りというものがあるようで、朔先生とそこを目指した。着いてみれば、その名に相応しい古いお店ばかりだ。時代を感じるような、狭く古い書店が並んでおり、店内はこれもまた所狭しと古びた本が並んでいた。けれど、入った瞬間、車内にいた時よりも更に目を輝かせた朔先生。一番近い棚を見れば、朔先生もよく知った本があったようで、これは誰それのいついつの何々だ、とぶつぶつ呟いている。その姿がおもちゃ屋さんに来た子どものようで微笑ましい。呟いている内容が分からないにしても、こんなに楽しそうな朔先生を見るのは初めてで、私も気持ちが弾むようだ。

「こ、これ……!!」

 そう言って急にしゃがみ込んだかと思えば、なぜか床から平積みにされている本の山をかじりついて見ている。決して状態がよいとは言えない本ばかりだけれど、見る人が見ればここは宝の山なのだろう。私も並んでいる本の背表紙をなぞってみた。タイトルすら掠れているが、ふと見下ろした朔先生の周りには花が浮かんでいるように見える。…徐に、その頭に左手を伸ばした。

「おわぁっ」
「あっ、す、すみません!」
「し、司書さん…!」
「なんでも、なんでもないんです、つい…!」

 すぐに手を引っ込めて背中を向けた。まずい、恥ずかしい。なんてことをしてしまったのだろう。これが所謂、考えるより先に体が動いた、というものだろうか。

(……朔先生の髪、さらさらしてた…)

 まださっきの感触が残っている左手を握り締める。そういえば、以前は簡単に朔先生に触れていたのに、今ではもうそう簡単にできることではない。久し振りに朔先生に触れた。どきどきする、さっきよりも。今更緊張が押し寄せて来たのか、手が震えた。どうしよう、今からどんな顔で朔先生と顔を合わせればいいのだろう。朔先生、嫌じゃなかっただろうか。突然私なんかに触られて。私はある程度の距離を許されていると自惚れてしまっているけれど、かといって私から触れていい訳ではない。これまで例えば、朔先生への気持ちを自覚する前には、朔先生に甘えて泣いたこともあったし、看病されたこともあった。けれどあれは私が弱っていたり体調を崩していたからで、そこへ優しくされただけで、悪く言えばつけ込んだようなもので―――

「し、司書さん!」
「はいっ!」

 ぐるぐると悩んでいたら、突然声をかけられる。ぽん、と肩に手を置かれて飛び上がってしまった。しまった、静かにしなければ。数人いるお客さんの注目を浴びてしまった。
 もう朔先生のお気に召す本があったのかと思ったのだが、その手には何も持っていない。

「他にも、こういうお店があるなら、行きたい」
「は、はい、あります」

 もう一軒ご所望のようだ。少し、ほっとした。普通に話しかけられて安心した。もう帰りたいと言われなくてよかったと思った。まだもう少し朔先生と時間を過ごせるらしい。他のお店も、というのは、私と一緒にいるのが嫌ではないと、そう都合よく解釈してもいいだろうか。隣を歩く先生を見ると、古書に興奮しているらしくその顔はやや赤い。
 二軒隣の別のお店へ入ると、まるで倉庫のようだなと思った。本が日焼けしないためだろうか、さっきのお店よりも店内は薄暗い。確かに古書は貴重だ。そもそも古くはあるけれど、その後の保管には気を遣わなければならない。図書館にも、そうした外に出せない貴重な資料は地下に保管されている。
 まずその店内に呆気を取られていると、既に棚を物色していた朔先生に手招きされる。首を傾げながら近寄ると、「これ、」と言って指差した。流石、くたびれてはいるものの、それが年季の入り具合を語っている。それは、朔先生の詩を再編したものだった。直接発行に先生が関わったものではないけれど、これだけ古い本が残っているのはやはり嬉しいものなのだろう。一際目が輝いている。

「昭和……初期に出されたものみたいですね」
「死んだ後だ……」
「……あの、」
「すごい値段がついている……」
「あ、いえ、先生の時代とは単位というか、ちょっと感覚が変わっているので手が出ない値段ではないですよ、まだ」
「そ、そうなんだ……」

 まさか、こんなものを街で見かけるとは思っていなかった。今やネットオークションで高値で取り引きされる時代だ。見付かればいいな、程度に思っていたものが、本当に見付かるなんて。国会国立図書館にでも出向かなければお目にかかれないと思っていた。

「誰か、買う人いるのかな」
「そりゃあ、今でも先生のファンはいますし」
「そっか」
「はい」

 満足したらしい朔先生は、その本をそっと棚に戻した。そしてぐるりと店を一周し、けれど本を買うことはなかった。目ぼしいものがなかったのかと思えばそうではないらしく、むしろ欲しい本が多過ぎて決められないという。手持ちでは足りない、と落ち込む朔先生。聞けば欲しい本を十冊ほど挙げており、さすがにそれは私も手伝うことができない。どれも分厚いなんとか全集、と言った本なのだが、ここからバス停まで少し歩く。きっとその間に腕がもげてしまう。もう一人くらいお手伝いを頼んで出直すべきだろう。
 少しどこかお店に入って休憩でも、と思ったのだが、どうやら既に疲れた様子の朔先生を見ると、もう図書館に帰った方がよさそうだ。バス停に着くと、次のバスが来るまであと10分ほどあるらしい。なんとなく沈黙が気まずくて、停留所のベンチに座ると声をかけた。

「…何か一冊くらい買ってもよかったんじゃないですか?」
「それは…うん、そうだね、うん…でも……」

 何やら歯切れが悪い。今日何度目か、朔先生の方を見る。すると、朔先生も目だけで私を見る。目が合うと、先生はふいっと目を逸らした。気恥ずかしくなって、私も足元に視線を落とした。
 ずっと古書店にいるだけだったのに、なんだかすごく疲れた。ずっと緊張しっぱなしだったからだろうか。朔先生が本に夢中だったお陰で、何か話を振らなければとか、そんな気を遣う必要はなかったのだけれど、二人で外出しているという、それだけで私の心臓はずっとうるさかった。司書会議への付き添いすらお願いしたことなかったのに、いきなりハードルの高いことをしてしまっただろうか。そう一人反省していると、先生が「本当は…」とぽつりと呟いた。

「また、司書さんとあのお店に、行きたくて」
「え?」
「司書さんと、外に出る、口実……」
「そ…そうですか……!」
「う、うん……」

 待って、言われたことがよく分からない。それ、今私が聞いてよかったことなのだろうか。司書さんと、外に出る口実―――また、あのお店に行きたいということが。私と、あのお店に。今日だけじゃなく、また今度も。それは、私と二人で、ということだろうか。他の誰でもなく、誰かを加えてでもなく、私と二人だけで。また、今日と同じようにバスに乗って。どうしよう、浮かれてしまう。座って落ち着いたはずなのに、また心臓が爆発しそうなくらい拍動している。どうしよう。
 そっと見上げると、私と同じように顔を赤くして照れたように笑う先生がいて。今日、楽しかった、なんて言うものだから、今度こそ私は返す言葉すら浮かばなかった。












(2017/03/22)