司書さんが最近きれいになった気がする―――と、友人は言った。そうだろうか、と彼女の方へ目を向けてみるがやはりよく分からない。別段、きれいになったどころか変わった所はないように思えるが。じっと見ていると、あまり見るなと言わんばかりに「もういいよ」と言って僕の背中を押して180度回転させて来た。
 それは贔屓目ではないだろうかと思う。どこからどう見ても彼は司書さんに恋心を抱いているし、美化されて見えているのだろう。恋は盲目とはよく言ったものだ、聞けば最近の彼は気付けば目で司書さんを追っているのだという。これは別の筋の友人からの話だ。

「だからって、僕が司書さんの変化に敏感だったら君、怒るだろう」
「う……良い気分は、しないけど……」
「萩原くんのそれは人に同意を求めない方が良い」
「同意を求めた訳じゃないよ…」

 彼の言う通り、同意を求められた訳ではない。単に大きなひとり言だったらしい。とはいえ、やはり聞いては欲しかっただろうし、あの呟きを拾わなければ拾わなかったで彼のことだから曲解して捉えそうだ。まだもごもごしている彼は、背にしたはずの司書さんの方を振り返る。すると、司書さんもまたこちらを見ていたらしく、目が合った二人は小さく手を振ったりなんかしている。…何を見せられているのだろうか、これは。
 二人が好意を寄せ合っているというのは、誰が見ても一目瞭然だ。けれど未だそこで止まっていて、男女の仲にはなっていないのが何と言えばいいのか。まあ、そこを後押しするのは僕の役割ではないし、既に犀星があれやこれやと世話を焼いているようだけれど、互いに足を出し損ねているらしく、一向に進展しないというのだ。いや、進展してはいるものの、それが数ミリ単位だとかで、二人に近い人間がやたら気を揉んでいる。
人の色恋沙汰に首を突っ込んでもいいことなんてない。そう思い傍観を決め込んでいたのだけれど、確かにこれは少々手を出したくなってしまう。

「…これは言わないでおこうと思ったのだけれど」
「な、なに」
「彼女、この間の会議で手紙をもらったそうだよ」
「え………?」

 途端、顔を真っ青にして持っていた数冊の本をばさばさと床に落としてしまった。彼が何を想像しているのか手に取るように分かるようだった。僕は“手紙をもらった”と言っただけなのにこの慌てよう、きっと恋文でももらったと勘違いしているのだろう。実際は司書会議で友人になった女性にもらった手紙だ。萩原くんが想像しているような事実はこれっぽっちもない。
 すると、本を落とした音があまりに響いたのか、司書さんが小走りでこちらへ駆け寄って来た。大丈夫ですか、と言って膝をついて本を拾おうとする。はっとした萩原くんも慌ててしゃがみ込んで本を拾い始めた。

「どうしたんですか、萩原先生」
「司書さん、その、司書さん、結婚するの?」
「へ?」
「ふはっ」

 まずい、そこまで妄想が膨らんでいるとは流石に思いもしなかった。手紙一通から一体どこまで飛躍しているのか。まずその手紙が恋文であるとも言っていないのに、婚姻届にまで飛んでしまったらしい。全く、彼の想像力たるや。

「残念なことに、そんな予定は全くないのですが…」
「ほ、本当に……」
「…芥川先生、何か吹き込まれました?」
「司書さんがこの間の会議で手紙をもらったって言っただけだよ」

 笑いを堪えていた僕を司書さんがぎろりと睨んで来る。事実ありのままを伝えただけで、いろいろ捻じ曲げて受け取ったのは彼の方だというのに。まだ事態が呑み込めていない彼は、一人でおろおろしている。司書さんと僕とを交互に見て焦っていた。
 なるほど、これはなかなか厄介だ。萩原くんが司書さんに恋心を抱いているのは明白で、自覚もしている。けれど、恐らく司書さんはまだ自覚をしていない。この間、酔って会議から帰って来た時といい、自覚をしていれば先程“残念なことに”などという不用意な言葉は言わないだろうし、こんなにも平然と接することができる人間ではないだろう。今はまだ、萩原くんの面倒を見ているくらいの認識なのではないだろうか。あまりに萩原くんが気の毒だ。自分が投じた一石だが、思いの外彼にダメージを与えてしまったらしい。

「恋文をもらったと勘違いしているんじゃないかな」
「恋文?」
「な、あ、ち、ちがう」
「もらった覚えがありませんが…」
「だから勘違いなんじゃないか」
「う、うん……?」

 首を傾げながら、苦笑いをしている。今度は彼女が状況を呑み込めていない。あろうことか、「まあ一度くらいはもらってみたいですね」なんてことを言う。ここまで鈍いといっそ才能か、流石に眩暈がするようだ。萩原くんはというと、再び真っ青になっていた。そんな彼をよそに、本を全て拾い終えた彼女は呑気にも「どうしたんですか」と言いながら顔を覗き込んでいる。…多分、こういうことをするから萩原くんが余計戸惑うのだろうな、と思った。無自覚というのは恐ろしい。とっとと自覚してくっついてしまえばいいものを、人の心というのはそう簡単にはできていない。どう見ても司書さんは彼を、悪く言えば贔屓しているというのに、その裏に何の感情も伴っていない訳がない。彼女がそこまで博愛な人間ではないことくらい、暫く彼女を見ていれば分かることだ。けれど、犀星が手を焼いているものを僕がどうこうできるはずがない。

「よく知らない相手からもらう恋文より、萩原先生にもらう手紙のほうがずっと価値があると思うんですが…」
「え」
「へぇ」
「あっ、いや、催促したわけじゃないですよ!もし先生にもらえるならって話です」
「……萩原くん、手紙の一通も書いてないのかい」
「………………」
「え?え?」

 手を貸そうとした僕が馬鹿だったようだ。気まずそうにしている彼はなにやらまたもごもご言っている。彼の師がいよいよ二人の行く末を見放しそうになるのも無理はない。粘り強く付き合えるのは犀星くらいのものではないのか。もうこの際、経過はどうでもいいから結果だけ後で教えて欲しいと、小説家にはあるまじき所に着地してしまった。この二人に関しては、中間を読んでいたらとんでもない時間を食われそうではないか。
 そうと決まればここは撤収だ。僕でさえ喫煙所拡大の要望という手紙を書いたことが一応あるというのに、僕よりずっと彼女と時間を過ごしている彼が一通も手紙を書いていないなんて。見放すわけではないけれど、あとは自力でどうにかしてくれ、としか思えなかった。それでもまあ、大事な友人だ。最後に援護射撃くらいはしておこう。

「そうだ司書さん」
「なんですか?」
「萩原くんが、最近君がきれいになったと言っていたよ」
「は!?」

 図書館では静かにね、と言ってその場を去った。きっと僕の後ろでは二人が顔を真っ赤にしていることだろう。早く“結果”を持って来てくれることを願うばかりだ。なんだかんだ見放すことのできない彼の師が痺れを切らす前に。












(2017/03/19)