自分たちの最も重要な仕事は、司書さんがいないと始まらない。潜書は、司書さんのアルケミストとしての力が必要になるからだ。そんな司書さんが、体調不良で仕事を休むという連絡が入った。今日の潜書はなしだな、と犀が何でもないことのように言うけれど、それを聞いた瞬間、自分だけは血の気が引いた。体調を崩したことのない司書さんが初めて体調不良になったのだ。詳しいことはよく分からないけれど、とにかく今日は図書館にも顔を出さないらしい。 何も手につかない。簡単な雑務すら満足にこなせない。さっきから本棚にぶつかったり本の山を崩したりしてばかりだ。いつの間にか額は赤くなってしまっている。ひりひりと痛む額を押さえていると、白秋先生がやれやれと大きな溜め息をついた。 「朔太郎君、今日はもう帰った方がいい」 「ま、まだ就業時刻じゃ」 「司書さんのことばかり考えて上の空じゃ仕事にならないのだよ」 「う……」 「白さんの言うとおりだぞー」 犀まで白秋先生に加勢し始める。確かに、何をしていても司書さんのことばかり考えている。何を見ても、何を聞いても思い出すのは司書さんのことばかりで、今頃司書さんは部屋で一人で魘されているかも知れないと思うと、益々仕事が手につかない。出張や会議に行く日ですら、司書さんが同じ空間にいないだけで寂しくて仕方ないのに、加えて今日は体調不良と来た。これが心配せずにいられる訳がない。体調不良って、何だろうか。お腹が痛いとか、頭が痛いとか、眩暈がするとか、高い熱が出ているとか―――想像を巡らせるだけで自分の方が体調不良になりそうである。 「顔に司書さんに会いたいって書いてある奴が仕事なんてできるか」 「で、でき、……ない」 「じゃ、日頃のお礼も兼ねて司書さんの看病でもして来いよ」 「え、でも、司書さんには森先生がついてるって」 「朔が司書さんに会いたいんだろ」 「う…うん……」 白秋先生と犀に背中を押されて、図書館の出口に向かった。何度も転びそうになりながら、居住棟の方へ走る。いつもは転んで本をばら撒いていたら司書さんが手伝ってくれるし、膝や肘を擦り剥いた時には司書さんが手当てをしてくれる。けれど今日はそんな司書さんがいない。寧ろ、司書さんの方が助けを必要としているかも知れない。 司書さんの部屋への道のりが酷く長く感じる。走っても走っても辿りつかないように想えて、司書さんの部屋の前に着く頃には、もう何百キロも走った気分だった。息切れもするし、汗も止まらないけれど、とにかく司書さんの様子が知りたい。邪魔かも知れない、司書さんが困るかも知れない、帰れと言われるかも知れない、けれど――― 「し、司書さん…!」 部屋のドアをノックする。当然だが応答はない。もう一度、もう少し強くノックしようとすると、ドアの方が先に開いた。司書さん、と言おうとして、中から現れたのは森先生だった。予想していたような、していなかったかのような、けれど期待していた人物ではなくて泣きたくなった。険しい顔をした森先生に帰るよう言われるかと思いきや、彼女は寝ている静かにしろ、とだけ言うと、案外あっさりと中へ通してくれた。 初めて入る司書さんの部屋が、こんな、司書さんの大変な時になるとは思いもしなかった。ベッドで横になる司書さんの顔色は悪い。元々色の白い人だけれど、普段より白い―――というよりも、青白い。眠っているようだが、時々咳をしている。それがとても苦しそうで、自分も青褪めた。 「過労だ」 「え?」 「睡眠不足らしい。休養できていなかったんだ、倒れて当たり前だろう」 「司書さん……」 そういえば、最近司書さんは疲れている様子だった。よく欠伸していたし、昼休みには必ず図書館の隅っこで転寝をしている。話しかけてもぼうっとしていたり、自分の声に気付かない時がある。元気そうに振る舞っていたけれど、よくよく思い返してみるとその前兆は確かにあった。 自分は助手失格だ。毎日たくさん司書さんと接する機会はあったのに、こんな風になるまで司書さんの異変に気付くことができなかった。自分のせいだ、自分のせいで司書さんが苦しんでいる。咳き込む度に苦しそうに顔を歪める司書さんを見て、ここ暫くの自分を呪いたくなった。自分がもっとしっかりしていれば、自分がもっと機転の利く人間だったら、司書さんをもっとちゃんと見ていれば、こんなことにならなかったかも知れない。たらればの話をしても意味なんてないのに、後悔以外湧いて来ない。 「なんて顔をしている。死ぬわけじゃないんだ」 「でも、司書さん苦しそうで……」 「数日休めばちゃんと元気になる。丁度良い、俺は図書館に戻らなければならないから付き添いを交替してくれ」 「自分、看病なんてしたことがない」 「食堂に粥を頼んだ。目が覚めたら食べさせてやれ。そのデスクの上に二回目の薬も用意してある。副作用の眠気が強いからそう起きないだろうが」 「そ、それだけ?」 「それだけだ」 それなら、と答えて森先生と入れ替わった。森先生は司書さんのデスクで何やら書き物をしていたようだが、自分はとりあえず司書さんのベッドの傍にその椅子を移動させた。自分と森先生が喋っている間も、司書さんは目を覚ます気配がなかった。ひゅうひゅうと喉を鳴らして呼吸を繰り返す司書さんの息が今にも止まらないか不安になる。もしその目が二度と開かなかったら、と最悪の事態を考えてしまう。そんなことはないと分かっている。さっき森先生も過労だと言っていた。ちゃんと休めばまた元通り元気になるはず。なのに、部屋に入る前に一瞬司書さんの顔を見た時、その青白い顔に自分の心臓は止まるかと思ったのだ。今も何度も咳き込んでいるけれど、自分にはどうすることもできなくて、ただ無力さだけに襲われる。 見ていられなくて司書さんから目を逸らすと、司書さんの頭元には一冊の本が置いてあった。ブックカバーのかけられているため、何の本なのかは分からない。つい、ほんの一瞬の隙をついて好奇心が顔を出し、その本に手を伸ばしてしまった。最近司書さんがよく本を読んでいることは知っているけれど、枕元に置くほど読み込んでいるなんて、一体誰の本だろう。見たいような、見たくないような、途端にもやもやとした暗雲が胸中に立ち込める。司書さんのお気に入りの一冊だろうか。誰の書いたものだろうか。自分のだったらいいのに、自分以外のでなければいいのに―――薄目でそっと表紙を開く。 「さく、せんせい……?」 「わ、わわ……!」 何の気配もなく、司書さんは目を開けていた。ぼうっとした目でこっちを見ている。驚きのあまり、司書さんの本を落としてしまいそうになって、何とか受け止めた。…本の中身は確認することができなかった。 「せんせ、来てくれたんですか…?」 「その、倒れたって聞いて、それで、今、森先生と替わった所なんだ…!」 「ありがとうございます…………あの、それ、」 「ご、ごめんなさい、見てない、見てないから、」 「い、いえ、別にいいんですが……」 そう言いながら司書さんは身を起こす。その顔は、先程までとは打って変わって、血色が良いどころかやや紅潮している。「それ、その…」と何かを言おうとして言わず、もごもごしている。やがて、俯いて黙ってしまった。けれど、返してくれとは言わない。どうしても気になって、もう一度表紙に手をかけた。 「……司書さん」 「……あの、その…」 「これ、」 「い、言わなくていいですから、馬鹿みたいでしょ、私」 毎晩読んでいて寝不足になったなんて、と殆ど聞き取れないような声で続ける。拍子をめくったその先には、見覚えのあり過ぎる作品名と著者名が並んでいた。他に同じものが二つとあるはずがない。自分の初めて出した詩集だ。しかも、日焼けもしておらずやけに保存状態の良い本だと思えば、司書さんが個人的に購入したものらしく、図書館所蔵の印がない。 以前、司書さんは自分に詩の解説を手紙で求めて来たことがあった。よく分からない部分があると。初めてもらった手紙の内容だから忘れるはずがない。その後、白秋先生の本にも挑戦したそうだが、どうもしっくり来ないらしく挫折したのだと言っていた。だから、もう詩歌の類の本は手を取ってくれないと思っていた。…そう思いつつ、犀の詩集を勧めたのも自分だけれど、とにかく、興味を持ってくれたなんて思いもしなかったのだ。しかも、よりによって自分の本だなんて、何かの間違いではないだろうか。 「朔先生のことが知りたくて……」 「え?」 「でも私、口も上手くないし、多分、先生のことを聞いていたら尋問みたいになっちゃうから…だから、朔先生のことを知ろうと思ったら、先生の本を読むのが一番いいんじゃないかって…そう思ったんです……」 「ま、待って司書さん…!」 突然与えられた情報の量の多さに、頭の中がパンクしそうだ。司書さんの体調が悪いが故の世迷言ではないだろうか。何か、空想を騙っているのではないだろうか。それとも、自分の方が本当は熱でもあって、目の前にいる司書さんも、聞こえて来る司書さんの声も幻ではないだろうか。まだ混乱しているというのに、司書さんは更に身を乗り出して、まだいつも通りではない少しぼんやりとした目で自分の顔を覗き込んで来た。やや熱っぽいその目に、思わずどきりとする。 「朔先生、私、先生のこと知りたいんです」 「し、司書さん、」 「おしえて、せんせ……」 それだけ言うと、自分の方へふらりと倒れ込んで来る。どうやら森先生の言っていた薬の副作用が強いらしく、また眠ってしまったらしい。同時によく効いたようで呼吸は随分楽そうだ。受け止めた司書さんは規則正しい寝息を立てている。上下する背中にそっと手を回すと、いつかの会議帰りの時のようにその体は熱い。熱が上がって来たらしい。もう少し腕に力を入れてみるけれど、司書さんは起きそうにない。 どきどきする。いや、ふわふわする。いや、何て言えばいいのだろう。まるで現実味がない。司書さんに言われた言葉も、今自分の腕の中に司書さんがいることも。だからだろうか、きっといつもの自分だったら取り乱しそうなのに、思いの外頭は冷静だ。 「司書さん、」 夢ではないだろうか、司書さんが個人的に自分の本を手に入れていて、寝不足になるほど読んでいて、自分のことを知りたいだなんて―――この疑り深い性格に、今だけは感謝した。そうでなければ、きっと冷静でいられなかった。まともにこの現実を受け止めていたら、こんな風に司書さんを抱えたまま座ってなんていられない。夢だと、嘘だと思うからこそ、それに甘えられる気がした。都合のいい夢なら、自分が今こうして司書さんを抱き締めていても誰にも咎められないし、誰にも迷惑をかけない。ただ、この夢が覚めた時に自責の念に駆られるくらいで、それは自分だけのものだ。司書さんの部屋に二人きりで、しかも司書さんが自分の腕の中にいる。これが夢じゃなければ何だというのだろう。 「せんせ……」 けれど、鼓膜を震わせる掠れた声が一気に自分を現実に引き戻す。司書さんをベッドに戻さないと、体調が優れないのだからちゃんと寝かせないと―――そう思うのに、なかなか司書さんを手離せない。 司書さんはひどい人だ。あんなことを言っておいて、けれど次に目を覚ましたら覚えていないかも知れないのに。そうなれば、さっきの司書さんの言動は全て自分の記憶の中だけのものになる。いよいよ、現実から離れて行ってしまう。夢であればいい、自分だけのものであればいいと思う裏側で、司書さんの記憶にもちゃんと残っていればいいと思う、ちぐはぐな自分が嫌になる。 司書さんはひどい人だ。もう一度そう喉の奥で反芻して、熱い首元に顔を埋めた。 |