この広い図書館には、午後とても日当たりのよくなる場所がある。疲れるとそこで少し休憩するという、私の中で穴場のスポットになっていた。こんな隅っこにそんな場所があることを知っている人間は少なく、これまで遭遇したことがない。今日も昼休みになり、昼食を終えると束の間の休息にとその場所を選んだ。床に座り込んで壁にもたれると、睡魔が襲って来る。
 大勢の人が行き来する図書館は、正直に言って息が詰まる。この図書館の珍しい蔵書を求めて訪れる人は少なくない。特に今日のような日曜となれば、多少都心から離れていても一足が途絶えなかった。電子書籍よりも紙媒体が良いという人、絶版となっている本を求める人、家に本を置く場所がないから借りに来る人、勉強に来る人、単に休みに来る人―――理由は様々だ。
 本の分類を覚えるため、と最初に課された蔵書の整理にもようやく少しだけ慣れて来たものの、まだ館長のようには行かない。図書館利用者にどれそれの本を探している、と言われても自分用のメモを見なければ正確性に欠ける。そういう訳で、アルケミスト以外の仕事というのはかなり神経をすり減らすのだった。これならまだアルケミストとしてだけ働いていた方が楽ではある。そうは行かないけれど。

「帰りたい……」

 雲一つ浮かんでいない真っ青な空を見上げて、何となく呟いた。特務司書に就任することを決めてから、実家には帰っていない。特殊な仕事だから手続きが面倒なのだ。街へ出る分にはまださほど面倒な手続きはないけれど、一応政府が絡みつつ秘密裏に動いているしごとなため、守秘義務やら大人の事情やら、いろいろある。とはいえ、そう実家に帰りたい気持ちがあるかと言われればそれもない。単に口を突いて出て来た言葉だ。サボタージュしたい、という意味で。もっと言えば、別棟にある自分の部屋に籠りたい、という意味だ。
 私が転生させた文豪たちは、まあ、一部を除き基本的にはいい人だ。少しこちらとテンションや趣味嗜好が合わず頭を悩ませることはあれど、居心地の悪い人たちではない。つかず離れずというか、さすが人とのちょうどいい距離を知っているようだった。私なりに彼らの人生を調べてみたけれど、私なんか比にならないほど波乱万丈な人がいたりして、いかに彼らがここで平和に過ごせるかを考えるのが目下私の目指すべきところだ。
 それは、嫌な仕事ではない。人とある程度距離は置きたいけれど、世話焼きな気質が危なっかしい人を放っておけない。時折それが自分を疲弊させていて、今日みたいなことになる。つまり、疲れた。

「司書さん」
「あ…朔先生……」
「司書さん、辞めるの?」
「え?」

 思いもよらない言葉をかけられて、思わずきょとんとした。本を両手で抱えた声の主である朔先生が、不安げな表情で私を見下ろしている。辞める、なんてこれまで一度でも言っただろうか。意味が分からない私とは真逆に、本をぎゅっと抱き締めて緊張した様子で私の言葉を待っている朔先生。

「今、帰りたいって……司書さんが家に帰れるのはここを辞める時だって……」
「ああ」

 さっきの私のひとり言を聞かれていたらしい。しまった、と思い口元を押さえた。
 朔先生は、過剰に心配するきらいがある。特に、きっと懐に入れた人間に対しては特に。白秋先生だとか、犀星くんだとか、芥川先生だとか。あと、私だとか。だから不用意な言葉は慎んでいたし、不安を煽るようなことはしていなかった。別にそれは苦ではなく、図書館側に現代の人間がおらずどこか寂しさを感じていた私には、少し救いの場所のようなものでもあった。同じ空間にいるのに生まれた時代の違いで隔離されたような気がしていたのを、朔先生に助けられたような、そんな。そう言うと犀星くんは苦笑いをしていたけれど。
 兎にも角にも、一度手元に置いた人間が去ることに人一倍不安を感じる朔先生にとって、私の些細なひとり言は十分な威力があったようだ。

「辞めませんよ、司書は」
「でも、さっき……」
「別に、家に帰りたいわけじゃないんです」
「…………」
「ほら、天気がいいでしょう。仕事なんかしていないで自分の部屋に籠ってごろごろしたいなって、そういう意味です」
「……そっか」
「はい」

 私が笑いかけると、ようやくほっとしたようだった。そして、おずおずと傍まで寄って来て、私の隣に腰を下ろす。大事そうに抱えているのは、先日私が勧めた本だった。純文学には明るくないが、最近の小説ならいくつか読んだことがある。朔先生の好みに合うかどうかは分からないが、とりあえず勧めてみたのだ。あまり大衆受けはしないけれど、独特の不気味な感じが漂う文体は、私が好んで読んだラブコメよりはとっつきやすいだろう。私の好みを押し付ける訳ではないけれど、多少共通の話題が欲しい、というのが本音だ。気に入ってもらえるといいのだけれど、と思いながらその手元を見た。

「司書さんが寂しい時って、どんな時?」
「私?寂しい時……寂しい時……」
「…………」
「…気付いたら寂しいので、よくわかりません」
「気付いたら…」
「元々友人も多い方ではないし、人の集まるような人間でもないから、ずっとこんな感じなのにおかしいですね」

 自嘲気味に笑うと、朔先生は勢いよく私の方を向いて「そんなことない!」と珍しく大きな声を出した。その数秒の後、はっとして「…と、思う」と付け足して俯いた。ああ、そういえば朔先生もいつだったら同じようなことを言っていたな、と思い出す。気付けばそこに孤独がある、なんて言ってぼんやり外を眺めていた。もう、昨年の暮れの話になるだろうか。
案外、私たちは似た者同士なのかも知れない。多分誰とどれだけ時間を共に過ごしたってどこか寂しくて、手元にある人間を繋ぎ止めようとする。けれど、朔先生には自然と必要としてくれる人がいる。友人であるとか、師匠だとか、弟子だとか。ここでは私は一人だ。

「誰だって一人は寂しい…人に囲まれたことがなくても、きっと」
「そうですね」
「だから、司書さんも自分から一人になりに行かないで」
「え?」
「いつも、昼休憩には姿を消すから…こんな所にいるなんて知らなかったんだ…知っていたら、もっと前から、自分も来たのに……」

 尻すぼみになるその言葉を、私は何度も自分の中で噛み砕く。つまり、励ましてくれているのだろうか。いつも、どちらかと言えば私が言葉をかける方だったし、私が寄り添いに行く方だった。今、初めて朔先生の方から励まされた気がする。励ます、というのか何と言えばいいのか分からないけれど、今のは確かに、私を思っての言葉だった。いろんな感情がないまぜになって溢れて来る。

「し、司書さん、どうしたの」
「なにこれ、分からない」

 ただ、ぽたぽたと無意識に涙がこぼれて来た。恥ずかしくて膝に顔を埋める。きっと私以上に朔先生が困惑している。また心配かけてしまう。けれど、今のは朔先生が悪い。さっきの言葉は、朔先生なりの優しさだ。少なくとも私はそう解釈した。そう思うとどうしようもなく泣きたくなった。思った以上に私はここで寂しかったらしい。自分でも言った通り、元々私が大事にしていた人なんてごく僅かだったのに、特務司書に就任してその人たちとも疎遠になった。私はますます一人になったのだ。それに気付いた今、どんな小さな優しさでも私には泣く以外できなかった。
 しゃくりあげる私の背に朔先生の手が添えられる。優しくさする手はぎこちない。けれど確かにあたたかい。長らく触れていなかった人の温度だ。

「司書さん、泣かないで」
「はい……」
「でも、泣く時は、もう一人で泣かないで」
「……はい」

 応えると、ゆっくりと頭を引き寄せられる。差し込む日差しと朔先生の体温があたたかい。甘えていい、と言われているようだった。ここに来てから、いろんなことを一人で背負って来た。抱えきれないこともあったし、やりきれないこともあった。潜書で傷ついて帰って来るのは私ではなく彼らだから、罪悪感に圧し潰されそうな時だってあった。そういう時、誰にも何も言えなくて、一人でやり過ごして来た。ずっと助手をしてくれている朔先生は、そんな私に気付いていたのだろう。甘えようとしなかった私は、酷いことをしていたのかも知れない。救われておきながら。
 朔先生の肩口に額を押し付けると、まるで小さい子をあやすように頭を撫でられる。その手のひらを感じて、もうここで一人になるのはやめようと思った。











(2017/03/05)