「綺麗…!」
「ああ、想像以上だね」

 学会という名目でシンジュクから遠く離れた街へ来た。小高い丘から見たこともないような星空の広がるこの場所へは、約束通り寂雷さんが連れて来てくれた。もちろん、昼間はしっかり学会で勉強もさせてもらった。例年なら、今日の夜だって寂雷さんは知り合いの医師たちと集まるはずだったのに、それら全てを断って、私の為に時間を作ってくれた。たまらない気持ちになりながら、繋がれた手に僅かに力を込める。すると、すかさず「寒いかい?」なんて訊ねて来る寂雷さん。

「思ったより冷えるね」
「寒くはないです、大丈夫。もう少し見ていたい」
「良いよ」

 ここへ来ることを誘われた時、一瞬でも後ろめたいことを考えてしまった自分が恥ずかしい。違う誰かと来たことがあったの、なんて。

「そういえば、さんとは仲直りしたかい」
「仲直り…?喧嘩してましたっけ…」
「更衣室で言い合っていたと噂で聞いたのだが…」

 記憶の糸を辿る。しかし、と喧嘩した覚えなどない。更衣室で言い合いというのも、一体目撃者は誰なのやら。私と彼女の不仲を企む人間なんているはずもない。必死でここ数か月前まで掘り返して思い返す。あ、と一つ心当たりに辿り着いた。私の誕生日前に多少意見の相違があった時のことだろうか。けれど、あれも喧嘩と言うほどのことではなく、私を心配してくれたに私が「これでいいの」と押し切っただけの話だ。現に、あの直後の誕生日、私は彼女と過ごしている。まさか、私たちのあずかり知らぬ所で喧嘩と言うことにまでなっていたとは。

「大丈夫です、喧嘩じゃないです」
「それなら良いのだけれど」

 それにしても、もう三か月ほど前の話なのに、寂雷さんもよく覚えていたと思う。当事者の私でさえ、ここ数か月はあまりに目まぐるしくて、もう随分昔のことのようだ。
 今日は、寂雷さんとちゃんと恋人同士になってから、初めて長い時間を一緒に過ごしていると思う。互いの仕事が仕事なだけにすれ違うことも多いし、寂雷さんに至っては仕事だけではない。けれど不思議と、それに寂しさなんて、ましてストレスを感じることなんてなかった。むしろこれまでとは段違いに寂雷さんが私を気遣ってくれたり、優しかったりと、過剰摂取なのではないかというほど、愛情を感じることが多い。思いが通ずるというのはこういうことなんだなあ、としみじみ噛み締めてしまった。後ろめたさも疚しさもない、正式な恋人関係だ。そんなこの人の愛情に、私は未だどう応えるべきなのか、正解を見つけられずにいる。
 視界いっぱいに広がる夜空から、隣にいる寂雷さんに視線を移す。すると、すぐにそれに気付いて寂雷さんも私の方を向いた。目が合って、何かを誤魔化すみたいに私はへらりと笑った。多分、間抜けな顔をしていたと思う。そんな私とは正反対に、寂雷さんは急に真面目な顔をした。そして、体ごと私の方を向く。私も若干身構えて、彼から発せられる言葉を待った。

さん」
「は…はい」
「近々、さんのご両親にご挨拶に伺いたいと思っているんだけど」
「はい…………、えっ?」
さんには以前、然るべき時にと言われたけれど、今がその然るべき時ではないだろうか」
「それは…その……」

 ご挨拶、ということはつまり、そう言うことだろうか。寂雷さんは明確に、私とのこれからを考えてくれていると、そう思っても良いのだろうか。
 答えあぐねて、えっと、あの、を繰り返す私を不安げに見下ろす寂雷さん。駄目とか、そういうことではない。来て欲しくないわけではない。ただ、あまりにも予想していなかった展開に頭がついて行かないだけだ。思いが通じ合った、恋人になった、それで満足していた私には、まさに寝耳に水状態だったのだ。寂雷さんが、実家に来る。私の両親に、挨拶を詩に来る。考えれば考えるほど、夢ではないかと思うような展開だ。

「あ、あの、」
「困らせてしまったかな」
「違うんです!そうじゃなくて!」

 今が夜で良かったと思う。きっと、私の顔は見せたことがないほど赤くなっているはずだから。熱を持つ頬に冷えた手を当てて、落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせる。まだ別に決定的な一言を言われたわけではない。お付き合いしている、という挨拶に来るだけだ。けれど、この年齢の男女が揃って実家に挨拶に行くなんて、将来を見据えていると期待をしてしまっても当然だろう。寂雷さんは、ちゃんとそのことを分かった上でその提案をしているのだろうか。いや、しているのだろう。なんせ、いつか命を終えるまで、と互いに誓ったのだから。

「あの、うち、本当にごく普通の一般家庭ですけど…」
「ああ」
「父も、そんなに背が高くないし」
「言っていたね」
「母も若いわけじゃないし…」
さんに兄がいるなら、相応だろう」
「でも、喜ぶと思います」
「期待に沿えるように頑張るよ」

 そして、ようやくまた寂雷さんは柔らかく笑う。私を抱き寄せて、「良かった」と息を吐くように呟いた。学会発表より緊張したよ、という彼に、思わず笑う。この人は、患者が慕うような神様なんかではなくただの人間なのだと、こういう時に改めて感じる。おかしくておかしくて、寂雷さんの腕の中で笑っている内に、思わず涙が滲んだ。

 あの頃、私の知らない誰かというフィルターを通して、寂雷さんから全ての言葉が届けられていた。私の為ではない言葉を、私のものにしたくて仕方なかった。私をさも愛おしそうに見下ろす二つの目も、私ではない誰かを見つめているのだと思っていた。
ここに辿り着くまで、随分と時間がかかってしまった。けれど今、まっさらな気持ちでこの人を改めて大切に思える。間違いもたくさんあったけれど、その過ちの上に降り積もっているのは、真っ白な新雪だ。それは、その下に埋まった過ちも罪も、全て包んでしまうような愛情だった。