全てを語られることが良いことだとは限らない。全てを語ることが正しいことだとも限らない。知りたいと思いながらも分からなかったこと、知らなくて良かったのに分かってしまったこと―――この人と過ごせば過ごすほど、二律背反の中で生きて行くことと等しいのだと悟った。それでもいい、それでもいいからこの人の傍にいたい。苦しくても、痛くても、私の感じるそれ以上を知っているこの人の傍に私はいたい。もうこれ以上、何も語られなくてもいいから。

 目を覚ますと、見慣れない天井がまず視界に飛び込んで来た。次いで、腫れぼったい目。上手く開けられなくて擦ろうとすれば、「やめなさい」と穏やかに止める声と手が伸びて来た。

「……あれ…」
「おはよう」
「おはよう、ございます…?」

 寂雷さんが、隣にいた。まだ起きていない頭では目に入る情報を上手く処理できなくて、もう一度目を擦ろうとした。こら、という声が再度届く。昨日まで記憶を巻き戻した。
 と別れて、アパートの前まで一人で帰った。するとそこには寂雷さんがいて、私の部屋の前で言い合いと言えないような言い合いをした。それから場所を移して、それから―――頭の芯から冷えて行く。思わず勢いよく身を起こした。

「仕事っ!?…じゃなくて、えっと…!?」
「今日は休みだよ」
「いえ、あの、そうじゃなくて、あの、ここ、」
「落ち着いてさん。ここは私の家だけれど、昨日は何もない」
「何も……?」
「何も」

 まさかの事態を想像してしまった私だが、寂雷さんはゆっくりと首を横に振っている。
 ほっとしたような、拍子抜けしたような。記憶がないという最悪の展開は免れたようだが、昨日の服のままであるところを見ると、私は恐らく、寝落ちしている。これはこれで最悪だ。穴があったら入りたい。もう隠れて顔を見せたくない。両手で顔を押さえて私は項垂れた。
 とりあえずシャワーでも浴びておいで、と光の差し込むカーテンを背景に、寂雷さんは優しく声をかけてくれる。申し訳なさと恥ずかしさで爆発してしまいそうである。昨日は大切な話をしていたはずで、それをちゃんと最後まで聞くつもりだった。それなのに、途中で泣き疲れてしまうなんてまるで子どもみたいじゃないか。また泣きそうになりながら、私をシャワールームに促す寂雷さんを振り返る。その表情は、どこかすっきりしているようだ。何か、憑き物でも落ちたかのような。

さんの好きな紅茶でも入れておくよ」
「…はい」

 昨日、道中コンビニで買っていたお泊まりセットを手にして、重い足取りで案内された浴室に向かう。
 寂雷さんの部屋に泊まることだって初めてなのに、こんなことってないと思う。私も大概、いい大人のはずなのに。百歩譲って何もなかったことは許されるとして、昨日は絶対に何が何でも寝落ちしてはいけない日だった。ずっと私が知りたかったことを、寂雷さんは話してくれていたのに。

(私も、謝るつもりだった…)

 勝手に恋人のカルテを盗み見ていたことを―――探るような真似をしていたことを。全て白状してしまうつもりだった。私が気にしていたことも、気になっていたことも、何を知りたかったのか、何を見たかったのか。
 けれど、互いに何もかもを話す必要はないのかも知れない。過去を話せば話すほど、寂雷さんの傷を掘り返すことになってしまう。果たしてそれは、互いにとって幸せなことなのだろうか。これからを生きて行くために、必要なことだろうか。一から百まで知っておくなんて、この件以外だって到底無理な話だ。近ければ近いほど、寧ろ必要な秘密も嘘もあるのではないか。寂雷さんは寂雷さんで、一生胸に秘めておきたい感情だってあるはず。私が簡単に踏み入ることのできない場所が。そんな彼だから、私は傍にいたいと思ったのだ。
 ばしゃん、と思い切りお湯をかぶった。何が正解か、結局分からない。

(もしかして、あんまりこれまでと変わらないんじゃ…)

 寂雷さんが話してくれると言うのなら、聞く覚悟はあるつもりだ。昨日の話だって、途中までなら覚えている。最初は寂雷さんも、友人の妹相手に本気になるはずがないと思っていたと。けれど、何も聞かず、代わりにして良いと言った私と過ごせば過ごすほど、ぽっかりと空いた穴を埋めるほどの存在になっていたと、そう言ってくれた。いつの間にか、手離したくなくなっていたと。別に、大きなきっかけがあった訳ではなく、気付いたらだと、寂雷さんは言った。そこから先が、思い出せない。その辺りまでは確かに記憶に残っている。けれど、そこで私の涙が止まらなくなってしまい、今に至る、というわけだ。所謂、盛大なる寝落ちである。
 恥ずかしさでますます浴室を出たくなくなる。けれど、いつまでも籠っている訳には行かないと、重い気持ちでようやくそこを出た。すると、先程言っていた通り、寂雷さんはキッチンで紅茶を入れて待っていてくれた。そろそろだと思っていた、なんて小さく笑いながら。

「少しは落ち着いたかい?」
「…あんまり」
「そうか」

 髪を乾かしておいで、という寂雷さんの言葉に反して、私は彼の傍まで近寄る。何かを言おうとして、けれど言葉が出て来なくて、下唇を噛んだ。ごめんなさいも、ありがとうも、何か違う気がして、けれど、このタイミングを逃すともう二度と来ない気がした。おもむろに彼の服の裾を掴む。互いに言葉のない時間が過ぎる。ゆらゆらと二つのカップから湯気が立ち上り、その揺らぎは私の気持ちにも似ていた。はっきりとしない、伝えたい何か。きっと何を言ったってこの人は「そうかい」とただ微笑んで受け入れてくれる。それが苦しくて、辛くて、けれど何より安心した。拒絶されない優しい残酷さに毒されて行くような気分だった。もう、これなしでは生きて行けないかのような。

「寂雷さん」
「何かな」
「私、寂雷さんがいないと、もう…」
「うん」
「…いないと、多分、生きられない」

 何を言ってもきっと正解じゃない。だけど、何を言っても間違いじゃない気がした。言葉にしがたい何かを、的確に表現するだけの語彙を私は持ち合わせていない。態度で示せるものでもない。愛しいとか、恋しいとか、狂おしいとか、それっぽい言葉はいくらでもあるのだろう。私を傍に置いて欲しいとか、あなたの傍にいたいとか、代わりになる言葉だってあった。けれど、そういう願望などではなくて、きっともっと重いものだった。この人を縛る以外の言葉では、全てが嘘になってしまう気がした。寂雷さんの為にならなくても、それがたとえ間違った依存だったとしても、この場においては、決して過ちではない気がした。
 真実ばかりを言わなくて良いと思う、それも本当だ。隠しておいた方がいい本心だってあるという気持ちは変わらない。だけど、これから先、もう二度と言えないかも知れないと思えば、今だけ許されたい気持ちが膨らんだ。他の何を訊けなくても、話せなくても、今、寂雷さんの顔を見た時に思った、この感情だけは。

「あなたの為に生きて、あなたの為に死にたい」

 嘘なんてない、こんなことを言うのはこれが最初で最後だ。私の言葉を聞いて、けれど寂雷さんは驚くことなどしなかった。私の頬に触れて、いつものように穏やかな笑みを浮かべる。全てを許すその眼差しが、私の胸を締め付けた。

「とんでもない殺し文句だね」

 そう言うと、少し身を屈めて私を抱き締める。私の髪がまだ濡れているのも構わずに、強く、強く。私も背伸びをして、その広い背中に腕を回した。
 いつだって、こうして体の距離が近くても、心だけはずっと遠かった。触れた体温とは裏腹に、気持ちはどんどん凍りついて行くような気がしていた。動けないまま凍って固まった気持ちが、溶けて一つになることなんて考えられなかった。笑みを見せてくれる度、優しく触れる度、死んでいった寂雷さんの恋人への罪悪感ばかりが募って行った。それでも今、まだちくりと胸を刺すそれには、私のエゴが勝ってしまった。私が、この人の為に生きて行きたい。他の誰よりも。

「私も、いつか命を終えるまで君の為に生きたいと思うよ」

 ごめんなさい、と思うのは、これで最後だ。私が謝り続けるのも、勝手に後ろめたく思うのも、きっと誰の為にもならない。誰も幸せにならない謝罪なんて、きっと要らない。
 ゆっくりと私を離すと、今度こそ髪を乾かしておいで、と再び私を脱衣所へ向かわせる。二つのカップからは、まだ当分湯気が消えそうになかった。