単純な人間で良かったと、これほどまでに思ったことはない。優しくしないでと願う一方、優しくされればそれを甘受してしまう。一度毒にも似た愛情に触れれば、二度とそれなしで生きられなくなることくらい分かっていた。与える側も、きっとそうだったのだ。

 あれは、寒い雪の日だった。ああ、どうやって帰ろうかなあ、電車止まってないといいなあ、バスも人がいっぱいだろうなあ、と、病院の正面玄関で立ち尽くしていた。傘もない、病院の前のコンビニまで走るしかない。足元を見れば、頼りないヒール。溜め息をついて一歩踏み出そうとした時、突如後ろから勢いよく腕を掴まれる。その時呼ばれた名前が私のものではなかったことを、私は一生忘れないと思う。あの、焦りのような、恐れのような、切迫した様子の寂雷さんの表情も。あの瞬間、この人の心に棲まう女性に勝てやしないのだと、諦めを悟った。
 あの時のような切迫感はないものの、同じような動揺が寂雷さんの双眸に滲んでいるのが分かった。

「何を言ってもきっと安心させられないだろうと、言わなかった私が悪かった」

 家に上がる訳には行かないと、寂雷さんは私を外に連れ出した。近くに停められていた彼の車に乗り込むと、まず、そんなことをぽつりと言った。

「地獄の淵にいた私を救ってくれたのは君なんだよ、さん」
「え……?」
「君がいなければ、あそこから抜け出すことはできなかった。君だけが救いだった」

 そんなことはない、と挟む隙など無かった。盗み見た寂雷さんの横顔が、あまりにも切実だったから。
 二年前、私の目の前で倒れて初めて、大人だと思ったこの人の弱い部分を垣間見た。あまりにも人間らしいこの人が私の手を離さず眠り続ける様子を見て、付け込むなら今だ、と思った私の浅ましさ。けれどそれすらもきっとこの人は許すのだろう。それどころか私を救いなどと言う。思いもよらぬ告白に、私は呼吸すら浅くなる。あの日、魔が差した私をいっそ責めてくれれば、罪悪感も少しくらいは薄まっただろうに、ちくりちくりと棘が胸を刺して行く。私が、どんどん惨めになって行くではないか。

さんがいなければ、立っていられなかったんだ」

 項垂れたその顔の下に隠されたものが、見える。おもむろに伸ばした手で長い髪を避ければ、確かに人の体温を持つ頬に触れた。ずっと触れたくて触れられなかった所に、手が届く気がした。

「いつか君に本当に愛する人が現れたら手放す気でいた」
「そうだろうと、思ってました」
「けれど、だめだな」

 そういうと、私の手を引いてゆっくりと抱き寄せる。私の両目からは、ただ静かに涙が流れた。大きな手が私の髪の手を撫でる感覚が、どうしようもなく切ない。
 だめだな、という言葉の意味を一瞬で理解した。きっと今、ようやく私と寂雷さんの気持ちが重なったのだ。多分もう、どんな弁解も釈明も意味がない。私の想像を超えた所で寂雷さんは全てを察していて、それでもなお、私を選んだ。私が何を気にして、何を思って、何に後ろめたさを感じていたか、その何もかもを、それでも全て流してしまう。

「君の気にかけていることが些細なことに思えるほど、それ以上に君を離したくないんだ」

 私は、この人に利用されるならそれはそれで良いと思っていた。最初から、こっちなんて見向きもされないと。分かっていながら勝手に傷付いたし、早々に諦めていた。だって当然だ、寂雷さんがあんなになるまで愛した人の代わりなんて務まるはずがないだろう。それでも寂雷さんを好きな気持ちはどうしても変わらなかったから、利用でもなんでもしてくれて良かった。そうして得られる一種の安心感もあったはずだから。それをしない事こそ残酷だと思ったほどに。いつからか、責めるべき相手を間違っていた。最初から私だけが責められるべきだったのに、心のどこかでこの人を責めていた。どうして、と。

「もっと早く、言えばよかった…」

 どうしようもなく好きなんです、私を恋人にして下さい、代わりになどせず私を見て下さい、と。もっと早く、そう言えば良かった。もうとっくに寂雷さんは、私を見てくれていたのに。
 そっと背中に手を回す。いつだって届きそうで届かなかった人。その手に触れていても、決して自分のものにはならなくてもどかしい思いをしていた相手。どうにか私をこの人のものにして欲しくて、でも所詮無理な願いだと諦めていた人。待って、待って、待ち続けて、いつかこっちを振り向いてくれるのではないかと淡い期待を抱いていた相手。ようやく今、全てが叶って行く。触れる形を確かめれば、それはゆっくりと現実となって実感できる。夢などではなく、確かに目の前で起こっている出来事なのだと。全身で感じる体温が、遠ざけていた希望も、期待も、何もかもを溶かして行く。

「君が私に見切りをつけずにいてくれて本当に良かった」
「そんなこと…できるはずありませんでした……」
さんでなければ、二年も待っていてなどくれなかっただろう」
「ただ、往生際が悪かっただけです」
「今はそれに感謝しかないよ」

 嘘、という言葉はもう出て来ない。こんなにも信じられる言葉があるだろうか。自分が単純な人間であることは百も承知だが、今のこの人の言葉ならいくらでも信じられる。だって私は知っているから。寂雷さんのいた地獄の淵というのが、どんなに暗く深いものなのかを。あの日、彼の語った闇の一片に触れれば、今の言葉が嘘だなどと言えるはずがない。ただ愛しい人を失っただけでなく、唯一救えたはずの知識も術も持ちながら救うことのできなかった無力さや、長年傍にいた人が忽然と消えてしまった寂しさ、人ひとりの死ぬ呆気なさに虚しさ―――どれだけの負の感情がこの人を責めたか計り知れない。全ては私の想像の域を出ないのだ。僅かに触れただけでも、痛くて痛くて仕方なかった。その経緯をしればこそ、寂雷さんの愛した人を超えられるはずがないと思ったし、代わりになると言いながら、それが務まるはずがないとも思ったのだから。
 だからこそ、だ。この二年、この人の傍に私がいたから、などと言うつもりは毛頭ないけれど、この人が光の届く場所へまた出て来られるための支えの一つになれていたなら、こんなに幸せなことはない。すぐ喉元まで出て来ていた言葉の全てを呑み込み、ただこの人の隣という場所を維持していた二年間は、決して無駄ではなかったのだ。

「私、これからも往生際悪いですよ」
「ああ」
「これまで我慢した分、我儘いっぱい言うかも知れません」
「いくらでも聞こう」
「もう、離してくれって言っても離しませんよ」
「それは願ってもないことだ」

 ぐっと、両手に力を入れる。何があっても離したくない。すごい人だ、立派な人だと人は言うけれど、医師の仮面を脱げばこんなにも人間らしいこの人を。穏やかで優しい雰囲気を持ちながら、どこか人を寄せ付けない雰囲気のあるこの人も、決して一人で生きて行ける訳ではない。だから、私がこの人の傍にいたい。忘れられない悲しみも、苦しみも、その闇の全てをも、私が受け入れたい。この人の過去ごと全て、受け止めるのは私がいい。この人が人の顔に戻った時、安心していられるように。

「好きです、寂雷さん、好きなんです」

 ずっと言いたかった言葉。ずっと伝えたかった言葉。どんな言葉よりも届けたかった感情だ。口にした瞬間、全ての気持ちが涙となって溢れ出る。愛しい、と心の底から思った。