本当はいつも、何かほんの少しのきっかけで、この関係が変化することを望んでいた。気持ちの中心に手の届かないこの人の、極めて真ん中に近い部分に影響出来たら、どれほど良かっただろうと。私はいつだってこの人に全てを曝け出せる覚悟でいた。どれだけ醜い感情でも、取り繕ってばかりの惰性の関係から抜け出せるなら。けれどいざ、その瞬間になって後悔が襲って来る。果たして、どこが後悔の始まりなのだろう。

 鍵穴に冷たいキーを差し込む。ガチャン、と重い音がして開錠されたドア。どくんどくんと、心臓の音もどんどん重く、大きくなる。寂雷さんとなら何か間違いがあっても良いとすら、いつからか思っていた。けれど彼の方が頑なにそれを避けているように思えたし、そのような雰囲気になったことすらない。もしかしたらどこかでタイミングはあったのかも知れない。今の私たちの方がよほど不健全な関係なのだ。それでも、今日ここでこの人を部屋に上げて、何かが変わってしまうことは、望んでいたことで、けれど望んでいなかったことで―――。

(鍵が、抜けない……)

 これは、正しいことなのだろうか。何度も何度も、自問自答した。その度に答えを先延ばしして来た。今もまた同じ問いにぶつかる。今の私のこの選択は、本当に正しいのだろうか。
 数歩後ろから感じる視線が気まずい。ここまで来てやっぱり、なんて、それこそ間違いだろうか。もういっそ今日、ここで間違いを犯してしまった方がいっそ割り切れるだろうか。

「……さん」

 溜め息交じりに名前を呼ばれる。怒りとも悲しみともとれる、複雑な声音で。振り向こうにも振り向くことができなかった。どんな顔で私を見ているのか、それを知るのが怖かった。彼がその目に宿しているのは呆れだろうか、軽蔑だろうか。はい、とも、なんですか、とも返事ができず、小さなカギを握る手にだけ力が入った。

「私は怒っているんだよ」
「…………」
「今日は、君にとって大切な日だろう」
「……え…?」

 思わぬ一言に、ふっと手の力が抜ける。壊れたおもちゃのようにぎこちなく振り返ると、言葉とは裏腹に悲しそうな表情を浮かべた彼がいた。徐にその右手が伸びたかと思うと、そっと私の頬に触れる。さほど寒いわけでもないのに、ひんやりとしたその指先に、ぴくりと目尻が震える。何も言えないままでいると、寂雷さんの方が口を開いた。

「待っていたばかりの私も質が悪いとは思うけれど、さんもなかなか酷い人だね」
「それ、は……」
「君の大切な日を一緒に過ごすに値しないかな」
「そんなこと…!」

 弾かれたように顔を上げれば、ゆっくりと寂雷さんの手は離れて行く。まるで惜しむかのように。神宮寺先生は神様じゃないんだよ―――今日友人に言われたばかりの言葉が、その瞬間に頭の中心を掠めて行く。
 触れなければ傷付かないと思っていた。本当は知りたいことだって、きっと知ってしまえば互いに傷付く。過去を思い出さなければならない寂雷さんも、他の誰かとも思い出を聞かなければならない私も。だったら、聞かずに、触れずに、いっそ不自然なまでに取り繕った方が互いの為なのかも知れないと。そんな脆い壁、いつかは崩れることなど分かっていたはずなのに。理性と言うのは、時にこんなにも邪魔をする。訊いてしまいたいのに、今あなたの心は誰の所にあるの、と。

「私が、寂雷さんといるのに…値しないから……」
さんは、私に遠ざけられるのを望んでいるのかい?」
「まさか……まさか、そんな……っ」
「じゃあ今、君の心はどこにあるんだい?」
「そんなの…、」

 そんなの、最初からずっとあなたの所にあった。そう言いたいのに、最後の最後で臆病が顔を出す。いつだって、言ってしまって良いのだろうか、という疑問が私を責めていた。だって、私たちの始まりがああだったから。身代わりの身で、何かを望むなんてことはできなかった。伝えてしまえば誰よりも近いこの場所がなくなってしまいそうで、言わないように封じ込めて来ていた。
 どちらが悪かったのだろう。弱っていた彼に声をかけた私が悪かったのか、そんな私に甘言に釣られたこの人が悪かったのか。互いの罪を誰も裁くことができないまま、時間は経過した。
 誘導するかのような巧妙な手口は、私を追い込んで行く。もう喉元まで出かかっている言葉を、何度飲み込んだだろう。今日ばかりは、頭の回るこの人が憎らしい。

「私はずっと、あなたとならどんな間違いだって、起こって良かった…っ」

 言いながら、目の間の景色が滲む。発した言葉は取り消すことなんてできなくて、込み上げて来る嗚咽を押さえるように、口元を押さえる。
 私が何を言おうと、きっとこの人は困惑も動揺もしなかっただろうと思う。何を言ったって予想の範疇だったかも知れないし、思わぬ言葉にだって私のように視線が揺れることはなかっただろう。そうか、すまない、そう言って私を抱き締めて誤魔化すことのできる狡い人だ。そんな優しさが私は好きだったし、嫌いだった。私を傷付けないようにするこの人の言動全てが、どうしても私に刺さる。この人になら何されたって構わないとさえ思ったけれど、優しくされることがこんなに辛いなんて、寂雷さんに出会うまで感じたことがなかった。直接的に辛く当たられるよりも、よほど苦しい。だから。

「もう、優しく、しないで下さい」

 これで良い。これで最後で良いのだ。今日が幕引きになってしまうなら、もうそれで良い。どうせ、遅かれ早かれ終わってしまう関係だ。この人に相応しい女性が、この人が心許せる女性が現れれば、私は不要になってしまう。それが突然だっただけ。それが、今日だっただけ。この人との未来はないと、最初から今日まで、ちゃんと身の程なら弁えていた。
 けれど、私の言葉に反して、寂雷さんはゆっくりと首を振る。

「それは聞けないお願いだよ」

 彼の髪が降って来る。この身長差を気遣ってか、少し身を屈めて私を抱き締めた。目の前の景色全てが見えなくなった私の身体が、ただ動揺しながら強張る。まるで壊れ物でも扱うかのように優しく包む両腕に、切実さを孕んだ声に、私はまた泣きたくなったのだった。