かけられた言葉の全ては、私のためのものではない。注がれた優しさも愛情も、私が受け取るべきものではない。私を見ているようで見ていない双眸には、私のようで私ではない誰かが映っていて、その影こそが彼の求めているものだ。必死に心を押し殺して、この人の隣に居座り続ける。影に飲み込まれてしまわないよう、けれど私の存在がこの人の邪魔をしないように。

 翌週の水曜日、私はとカフェにいた。結局、誕生日は彼女が付き合ってくれることになったのだ。今更、寂雷さんに誕生日を自己申告するのも何かおかしいだろう。今日は勤務だったはずだし、昨日も病院で会ったけれど忙しい様子だった。声もかけられず、邪魔だろうと思い連絡だってできていない。
 いつだって私は、寂雷さんに面倒くさいとか、邪魔だとか、煩わしいとか、そんな風に思われないようにということばかり考えている。世間の恋人たちとは事情も違うのだ。私から寂雷さんに恋愛感情はあっても、向こうは違う。それを聞いたは、「変なの」と言う。そう、最初から私たちは“変なの”だ。

「でも、神宮寺先生って二年間も義理で恋人ごっこなんてする人かなあ?」
「まあ優しい人だから…私の気持ちに気付いてしまってて、切り時が分からないという可能性はあるかも」
「や、そうじゃなくてさ…私、思うほど神宮寺先生って情に厚い人じゃないと思うんだよね」
「そうかしら」
「あーだめだこりゃ」

 先に運ばれて来たアイスティーにシロップもミルクも入れず口をつけた彼女は、やれやれと言った様子で肩をすくめて見せる。私も、ガムシロップを入れてストローで混ぜた。ゆらりゆらりとガムシロップが溶けて行く様は、どこか不安と割り切れなさでいっぱいの私の心を移しているみたいだ。やがてアイスティーの中でその形を失ってしまうみたいには、二年経ってももやもやは消えてはくれない。私が寂雷さんに提案したことであっても、自分に言い聞かせて見ても、恋愛の情と言うものは簡単にコントロールできるものではない。ブレーキを必死にかけているだけで。
 しかし、彼女の寂雷さんに対する印象には少々驚いた。

「冷たい人って言う訳じゃないけど、なんて言うんだろう…とか先生みたいに心を許してる人以外にはテリトリーに入れなさそう」
「どうだろ、私は」
「だって恋人役とか昔の恋人の代わりだっていうのなら、はっきり言って体の関係だけで良いじゃない」
「ごふっ」
「何その反応」

 アイスティーを思い切りむせた。ごめんごめん、と苦笑いするけれど、内心焦りでいっぱいだった。まさにその、体の関係が私と寂雷さんにはないわけなのだが。どう考えても、それを打ち明けてしまえばますます非難を浴びる以外の予想ができない。
 確かに、セフレなんて言葉があるくらいだから、そういう目的で近しい関係でいるというのは恐らく、まだ理解できる。それもなしに二年間もこういった関係が続くというのは、正直どういうことなのだろう。自分でも分からなくなって来た。まさか、寂雷さんが亡くなった恋人とそこまで行かなかったというわけでもあるまい。人に指摘されるまで深く考えなかったけれど、寂雷さんには寂雷さんなりに何か目的があるのだろうか。私の恋愛ごっこにお付き合いしてくれているだけにしては、延長戦が過ぎる。彼女の言う通り、ここで私を切れないような人ではないことも知っている。…どうしよう、考えるとどんどん心臓が痛い。
 ああでもない、こうでもないと思案を巡らせている内に、ケーキが運ばれて来る。誕生日だからと彼女がデコレーション付きで選んでくれたケーキだ。大きなお皿にはチョコレートでHappy Birthdayと書かれている。

「…まさかとは思うけど、神宮寺先生と寝てないなんてことは」
「げっほ!」
「…………信じらんないんだけど……くんも心配するはずでしょ…」
「……は?なんて?」
「信じらんないんだけど」
「じゃなくて、その後」

 ああ、と合点が行ったのかはくるりとフォークを回す。

「交際して半年なんで」
「は?なんて?とお兄ちゃんが?」
「ええ」

 フォークを思わず落とした。その金属音を聞いた店員さんが慌てて駆け寄って来て、回収すると「新しいものをお持ちします」と言って去って行く。そんな店員さんに返事もできず、私は表情筋が機能を失ったまま正面に座った友人かつ同期を見つめる。私のことなど欠片も気にする様子などなく、彼女は平気で自分のケーキを食べ始めた。上に乗っていた苺がまず無くなり、チョコレートケーキの鋭角部分がまずは削られる。やがて新しいフォークが私にも届いたけれど、あまりの衝撃にケーキに手を出すどこではなかった。

「嘘でしょ…妹の友人に手を出すなんて…」
「いやいや、神宮寺先生だって友人の妹に手出してるからね。あっ、物理的にはまだか」
「いやいやいやいやそういうことじゃないでしょ」
「お姉ちゃんって呼んでいいのよ」
「早い」
「しかし年上の弟かあ」
「早い早い早い」

 さっきまで随分シリアスに話を展開していたはずなのに、呑気にも別の次元の話を始める。彼女が姉になるのはともかく、寂雷さんを弟呼ばわりは全く現実的ではない。これまでの話でも分かっているはずだろう。
 とりあえず、動悸が収まらないのでアイスティーを一口含む。甘いのか苦いのか、味さえも最早よく分からない。半年間、匂わせることすらしなかったの隠蔽力たるや。私だったらきっと黙っていられない。だからこそ寂雷さんとの関係もすぐに彼女には告白してしまったのだが、これは彼女の隠す能力が上だったのか、単に私が鈍感だったのかどちらなのだ。
 ようやくケーキにフォークを刺すけれど、上手く力が入らなくて歪な形で切り取ってしまった。

「でもさ、一度でもそれっぽいことを神宮寺先生は言わなかったの?」
「うーん…………なんか、両親に挨拶しなければとかなんとか…」
「ほら、その気あるんじゃない」
「違うと思うけど」
のその自信のなさはどこから来るの?亡くなった恋人の存在が気になるなら聞けばいいじゃない」
「そんなこと…」
くんも言わないから言うけど、神宮寺先生、今でもその恋人のこと好きだと思う?それよりも、辛い時に近くに寄り添ってくれたに心が傾くこと、十分有り得ると思うけど」

 そうあればいい、といつだって思っている。寂雷さんの心が、気持ちが、全て私に向けば良いと。けれどそれを確かめるなんてできない。例え今はようやく傷が癒えていたとしても、それを掘り返すようなことはしたくない。間違いなく辛い思いをしていて、苦しい経験をしていて、当時を思い出させるようなことはしたくない。あの頃の寂雷さんは見ていられなかったのだ。どんな言葉をかけるべきかも、どういう風に傍にいるべきかも分からなかった。分からなかったから、「代わりになります」としか言えなかった。私にかの人の代わりが務まるはずもないのに。

「最後に言っとくけど、神宮寺先生は神様じゃないんだよ」
「…………」
「さ、この話は終わり。誕生日なのに説教臭い話してごめんね」
「ううん…の、言う通りだね…」

 きっとここまで親身に考えてくれる友人はそういない。厳しいことを言われるけれど、耳が痛いのは図星だからだ。きっと彼女のような性格だったら、今頃寂雷さんに言えたのだと思う。あなたのことが好きです、私だけを見て欲しいです、と。臆病になってしまうのは、今のポジションにそれでも味を占めてしまったからだ。代替品とはいえ、“恋人”というポジションに収まれるのはたった一人しかいない。きっとあの時の寂雷さんなら、私じゃない他の女性でも代わりをすると言えば受け入れていた。そんな、誰が最初に手を出すかという競争に、運よく勝てただけだ。タイミングが良かっただけ。
 せっかくのバースデーケーキも、やっぱり味はよく分からなくて、心の中で彼女に謝罪した。


 そういえば、昨年の誕生日は当直明けだった。朝になり、外来が始まる頃に職場を後にするはずだった私は、放射線科のスタッフに頼まれて、更衣室に向かう前に外来に立ち寄った。そこで偶然、外来日だった寂雷さんに遭遇し、一言二言交わしたのを覚えている。誕生日に会えたのだから幸運だ、と。不幸にも、顔色から当直だったことを見抜かれてしまい、顔を真っ赤にして外来を後にしたのだけれど。

(結構軽口言う人だよなあ、寂雷さんって)

 私と寂雷さんのやり取りを見た外来看護師も驚いていた。神宮寺先生も冗談言うんですね、と。優しいけれど冗談なんてとても言えない、と言っていた彼女らの話す寂雷さん像は、の話す寂雷さんの印象とどこか被る。患者に対してもスタッフに対してもいい先生だけど、きっとどこか近寄りがたいのだ。研修医時代からよく知っている私や、大学の同期である兄は、そんな風には思わない数少ない人物なのかも知れない。そう思うと、どこか孤独な人なのだろうか。だから、恋人が亡くなってしまった時、一人で抱え込み、倒れるほど仕事に没頭してしまったのかも知れない。あの時、私が節介を焼きに行かなかったらと思うとぞっとしない。

 (ただ、それと私の問題とはまた別で……)

 現在の自宅であるアパートに着いたのは、二十一時を回った頃だった。が明日は日勤のため、いつもよりは早めに解散したのだ。お互い翌日も休みであれば、もう少しお酒でも飲んでから帰っている所だった。今日はそれもなく、お酒を飲んだ後のような気分が明るくなる感じはない。今日の彼女との話を思い出して、ため息が出た。明日も休みを取ったから、この後眠れなくても支障は来さないけれど、気分が重いままなのはなんだか頂けない。せっかくの誕生日だと言うのに。
 部屋の鍵を探すべく、アパートのエントランスで足を止める。すると、エントランスの大きなガラスに、私以外の人影が映り込む。随分長身の影が映り、びくっと肩を震わせて振り返ると、そこには思いもよらぬ人物がいた。

「じゃ、くらい、さん……」
「おかえり」
「た…ただいま……?」
さん、話がある」

 神妙な、というより、どこか怒ったような雰囲気の彼に、一歩後ずさる。その様子から、ここで話すような内容ではないことを察した。けれど追い返すこともできないし、こんな時間に外に出ることもできない。まるで謀ったかのようなタイミングに、暑くもないのに背中を背が伝う。
 それ以上は寂雷さんも言葉を発さず、私の返答を待つ。私に残された選択肢など、一つしかなかった。

「ここで話すのもあれですし……、上がって行って、下さい」

 ありがとう、と口では言うものの、そう思っているような表情ではない。カツンカツン、と階段を上る度に鳴るヒールの音が、何かのカウントダウンのような気がしてならなかった。