間違っているのは私なのか、それとも彼なのか。虚を埋める代替品になりたいと思った私が悪いのか、虚を埋める違う誰かを求めた彼が悪いのか。何度考えても一人では答えなんて出ない。元より、きっとどちらも間違ってなんていなくて、悪くなんてなくて、ただきっと、引き際を見失ってしまっただけ。答えはもう、どこか知らない海を漂っているのかも知れない。

、来週の水曜って暇?」

 朝の混み始めた更衣室で遭遇したが、挨拶の次に訊いて来たのはそんなことだった。
 来週の水曜日の予定を思い出す。特に何も予定は入れていなかったはずだ。希望で取った休みだけれど、誰かとの約束は何もない。暇だけど、と返すと、弟の誕生日プレゼントを買いに行くのに付き合って欲しいらしい。

「行く行く。どこ?」
「………、私が知らないとでも思う?」

 何を、と聞くよりも先に察する。しまったと思ってももう遅い。多分、鎌をかけられた。来週の水曜日は、私の誕生日なのだ。

「まさかとは思ってたけど、何の約束もしてないの?」
「再来月学会行くし、別にいいかなって…」
「そういうことじゃないでしょ」

 こうなるとはしつこい。さくさくと着替えながらも私を問い詰めて来る。彼女なりに心配してくれているのだろうが、私と寂雷さんは普通の恋人とは事情が違う。誕生日がどうの、記念日がどうのとわざわざ大騒ぎするようなイベントではないのだ。恋人同士“ぽく”見えていればそれでいいのだ。本当の恋心を押し込めて、疑似恋愛を楽しんでいる風で。寂雷さんも寂雷さんで、次の新しいパートナーが見つかるまでの繋ぎ程度にしか思っていないはず。
 少々乱暴にロッカーの扉を閉めて、私はにこりと笑った。

「いいの、これで」

 ぎこちなく、下手くそな笑顔だったと思う。もうそれ以上、は何も言って来なかった。彼女も制服に着替えると、私を追いかけて更衣室を走って出て来る。
 大体、そういうイベントごとに拘るような女で構わないのだったら、寂雷さんもわざわざ私なんかを選ばない。他に寄って来る女は山ほどいるし、私よりずっと頭の良い女も、私よりずっと綺麗な女もいる。寂雷さんなら相手に困らない。そんな彼が私を選んだのは、執着しない、束縛しない、詮索しない、その三つがあったからだ。代替品の役目からはみ出して、もっと親密な関係になろうともしない。一見したら良好な関係を築いている恋人同士だけれど、その実、中はすっからかん。私も彼も、互いを求めたことなどない。だからこそ続いている関係だ。私は、それでいい。それでいいのだ。

、言っとくけどそれ、いつか限界が来るよ」

 職場では規則に則ってちゃんと苗字で呼ぶが、珍しく間違って名前を呼んで来た。その表情からも、私を心配してくれていることは理解できる。
 ごめん、と心の中で彼女に謝った。彼女の親切を払い除けてでも、私は彼の傍にいたい。

「その時はその時じゃない?」
「あのね……」
「私、体を差し出せって言われたら何も言わずに差し出すわ。私を誰かに重ねていても」
「…あの人がにそんなことをしたら、私、黙っていられない」
「優しいよね、

 私の口からもまた、彼女の名前がこぼれた。私の問題なのに、当事者である私以上に泣きそうな顔をする彼女は、きっと世界で誰よりも優しい。こんな友人にはそう出会えるもんじゃないな、と思った。



***



 寂雷さんが恋人がいないはずのない人だという出会った当初の勘は、ずばり当たっていた。そんな彼への恋心を自覚したのは遅くて、出会ったのは私が専門学生の頃のはずなのに、気付けば何年も経っていた。けれどその恋人が忘れられない人で、永遠に会うことの叶わない人だと知ったのもまた、出会ってから何年も経過してからだ。

 彼が恋人を失ったのは、まだ研修医の頃だったらしい。恐らく結婚の約束なんかもしていて、幸せでいっぱいの時期だったのだと思う。相手の女性も寂雷さんに相応しい才色兼備な女性で、誰も反対なんてできるはずのない人だったと聞いた。そんな人間でさえ、病魔には勝つことができない。若かったがゆえに病気の進行が早く、半年の闘病生活の後、彼女は亡くなったのだという。長く付き合った二人だったから、当然寂雷さんの負った傷も大きく、すぐには癒えなかった。気を紛らわすかのように、忘れようとしているかのように仕事に打ち込み、周囲が声をかけられない程だった。
 私が就職した頃も寂雷さんはまだ、一人地獄の底のような暗い場所にいた。長らく会うことのなかった兄の友人、淡い片思いをしていた相手の変わり果てた姿。けれど、何があったかなんて知るはずもなく、新人時代は忙しいこともあってなかなかコンタクトを取ることは叶わなかった。時々廊下ですれ違うと挨拶を交わす程度で。

 一気に状況が変わったのは、彼が倒れた時だ。目の前で倒れられた時、初めて彼に何があったのか知ることになった。放っておけなくて、医局の仮眠室まで付き添い、二人きりの部屋で知らされたのは、一連の出来事だった。

(あそこまで弱ってなかったら、自分から話すような人じゃないもんなあ…)

 そして、あんな風に弱い所を見せられることがなければ、私だって「私が代わりになります」なんて言うことはなかった。それに応じることだって。何もかも、不幸にもタイミングが合致してしまったのだ。状況によってこんなにも容易に利害が一致するものかと、それはあまりにも皮肉だった。
 眠たい朝礼を聞いているふりをしながら、頭の中では全く関係ないことばかりを考える。寂雷さんのこと、のこと、これからのこと、これまでのこと。私だってもう、本当はどうすればいいか分からない。見切り発車で先も考えずに打診した案の手綱を握ることなんて、もう私にはできない。コントロールを失ったかのように、ただ知らないどこかへ転がって行くだけ。私たちの行く先なんて、予想することもできない。今はもう、彼だってこの関係を続けることを望んでいるのかすら分からないのだから。

「このように、危険予知トレーニングについては全職員が受講するよう本部より―――」

 危険予知なんてできていたら、今頃こんなことになっていない。日増しに膨れ上がって行く気持ちに、いつブレーキが利かなくなるか分からない。本当に好きなのだと、代替品では嫌なのだと、私だけを見て欲しいのだと、私の上に誰も重ねないで欲しいのだと、そんな本音が溢れ出す日が来てしまうのではないかと不安で仕方ない。もしそんなことがあれば、その日が私と寂雷さんが別れる日になるのだろう。

「以上で、本日の朝礼を終わります。本日も事故のないよう、全職員気を付けて業務にあたって下さい」

 私と同じく朝礼出席当番だったのか、医師の集団の中に一際目立つ人物を見付ける。私と会えば、周囲にバレない程度に微笑む。私も小さく会釈をして返す。
 こんな些細なやり取りでさえ、今の関係がなければ有り得なかった。だからこそこんなにも幸せを感じるのに、これ以上求めてはいけないのに、欲しい欲しいと私の心の黒い部分が叫んで止まない。真っ白でなければいけない関係に、ぽたり、ぽたりと黒いインクが滲んで行くようだ。
 朝礼で配られた院内新聞をぐしゃりとめいいっぱい握り潰して、目に入った適当なゴミ箱に破棄する。私の汚い欲も、こうやってゴミと一緒に廃棄できれば良かったのに。