今日見た星を、また来年見られるとは限らない。星だけではない、花も、月も、雪だってそう。そんなこと至極当然のことなのに、この世には当たり前だと思い込んでしまっていることが多過ぎる。無駄にしないようにと思っていても、今日一日を無事に終えられた有り難さと言うのは、忘れられがちだ。こういう仕事をしていたってそう。いつ失われるか分からない日常を愛しく思うのは、いつだって壊れた後なのだ。

 救急車さえ来なければ、夜勤帯の放射線科は静かだ。救急車が来る来ないも波があり、レントゲンやCTの要・不要も患者によって異なるため、必ずしも救急車の到着が私の業務とは結び付かない。急患が入院となればスクリーニングのために真夜中でもレントゲン室を稼働させるが、時期的なこともあり、ここ一か月は割と穏やかな当直が続いている。
 ためてしまっていた委員会の書類を捌きながら、一区切りついたところでテーブルの上のマグカップに手を伸ばす。殆ど冷めてしまったカフェオレを飲み干した所で、レントゲンの受付インターホンが鳴る。慌てて受付へ向かうと、扉の向こうにいたのは寂雷さんだった。寂雷さんも今日は当直だとは聞いていたが、思いもよらぬ訪問客に、思わず叫びそうになってしまった。

「じゃくっ…、神宮寺先生、どうしたんですか?」
「今いいかな、さん」
「私は構いませんが…先生、患者さんは」
「何かあればPHSが鳴るから大丈夫だよ」

 そう言って、私を放射線科の洞窟から連れ出す。どこへ行くのかと思えば、医局の裏口を使って病院の裏手に当たるベランダへと出た。「今夜は流星群なんだ」と真上に広がる暗闇を指す。とはいえ、都会の真ん中では肉眼で確認できる星はほとんどない。月だけは変わらず光り輝いているけれど、じっと夜の空を見上げていても流星は確認できない。首を傾げる私を見て、寂雷さんは小さく笑った。まだ夜は少し冷える。腕をさすると、寂雷さんは私の肩を抱いて引き寄せた。なんだかこそばゆく感じて、誤魔化すように口を開いた。

「あんまりどかどか流れるものじゃないんですね、流星群って」
「少し時間が早かったかも知れない」
「田舎の方に行きたいですね、どうせなら」
「ああ…それなら綺麗に見えるかも知れない」

 見たことありますか、と聞こうとして、やめた。私はなるべく、寂雷さんに過去のことを聞かないようにしている。つい聞いてしまうこともあるけれど、過去の思い出を掘り返すようなことは避けている。どんな些細なことでも。私が気にし過ぎているだけかも知れないけれど、どうしても神経質になってしまう。あの人ともこうして星を見たの、あの人のこともこうして連れ出したの、あの人の肩もこうして抱いたの―――思いを巡らせては、頭を振って掻き消す。いくら考えたって無駄なのに。私は、恋人を失った寂雷さんに付け込んだだけ。過去の恋人の代わりであって、超えることはおろか、塗り替えることだってきっとできない。
 あ、と言う寂雷さんの声にぱっと顔を上げた。どうやら星が流れたようだけれど、あまりに一瞬でそれを捉えることはできなかった。

「残念。流星群とはいっても難しいですね」
「見に行くかい?」
「え?」
「再来月、地方で学会があるんだ。シンジュクよりはずっと星がきれいだよ」
「それって……」

 見に行ったことがあるの?―――言いたい言葉をぐっと飲み込む。

「それって、放射線治療の学会ですよね」
「そうだよ。泊まりになるけど、それでよければ」
「どうしよう…」

 学会自体、興味がないわけではない。遠出だって滅多にできないし、気分転換にも良いかも知れない。けれど、私が躊躇う理由はお金がかかるとか、そういうことではなかった。
 寂雷さんは不思議そうにこちらを見下ろす。その手の著名な先生方がお話をされるんだけど、と駄目押しの一言。寂雷さんは営業が上手いと思う。結局いつも上手に丸め込まれてしまうのだ。私がどれだけかわそう逃げようとしても。
 行きます、と返事した瞬間、きらりと一粒の小さな光が流れ落ちる。あんな一瞬に願いをかけるなんて無理な話だと思う。結局、願い事なんて自力で叶えるしかない。
 是の返事をした途端、嬉しそうにする彼は、私が何を思い躊躇ったかなんてきっと知る由もない。いや、知らなくても良いことだ。肩に回された手に自分の手を重ねる。私なんかの小さな手では握り締めることさえできない大きな手。この手でかつて守った女性は、どんな人だったのだろう。

「…学会って、兄も来るのかしら」
「いや、彼は専門が違うはずだから来ないかも知れないね」
「そっか」
さん、最近は会ってないのかい」
「まあ、お互い忙しいし…男女の兄妹なんてそんなもんだと思います」
「もしかして、彼が来るかも知れないから嫌だった?」
「あー…はい、そうですね…」

 確かにそれも一つの理由だ。私に寂雷さんだけはやめておけと釘を刺した張本人に、二人揃ってなど会いたくないだろう。今でも兄はそのことになると私を叱責するのだから。一緒に学会に行くなんて聞いたら激怒しそうだ。妹とはいえ良い大人の決めたことなんだから、そこまで干渉しなくていいものを。結局いつか私が泣くことになるかも知れないことくらい、自分で十二分に分かっている。寂雷さんが私を呼ぼうとして、誰か違う人の名前を呼ぼうとしたことだってある。私の向こうに違う誰かを見ていることにだって気付いている。きっと私じゃない誰かと来たのだろうな、という場所に連れて行ってもらったことだって、私以外の誰かを乗せた車の助手席にだって乗った。
 けれど、もう二十代も後半に差し掛かれば、誰だって経験しうることだ。私の前に愛した女性がいた男性を好きになることなんて可能性で言えば高い。寂雷さんの場合は特殊なケースだっただけだろう。

「やっぱり挨拶しないのが悪いかな」
「いや!全然!そんなこと!」

 結婚するわけでもあるまいし、挨拶なんてする必要ない。その気があるなら別だけれど、生憎そのような話は一度も出たことがないし、そのような空気になどならない。恋人を演じているけれど、私たちの間にあるのは契約のようなもので、こうして触れ合うことはあれどそこから先には全く進まないのだ。この二年間、私たちは何一つ進展がない。恐ろしいほどに健全で、逆に不健全なほど。もっと分かりやすく明け透けに言えば、私たちは肉体的関係を持っていなかった。

「一度さんのご両親にも挨拶しなければいけないね」
「いやそんな、いいですよ。大した家じゃないですし」
「礼儀だろう」
「多分、寂雷さんみたいな人が来たらお父さんびっくりしちゃうかも…小さいから」
「君は背も低くないはずだけど」
「兄は隔世遺伝かなあ」
「はは、そっか」

 そんなに面白いことを言った覚えはないけれど、さも面白いことを聞いたかのようには願する。普段から穏やかな人ではあるけれど、こんなにもにこやかな彼はあまり見ない。ここは職場だと言うのに、完全にプライベートの顔を覗かせる寂雷さんは、今だけは無防備だ。そうやってゼロ距離を思わせるから、たまらない気持ちになる。契約や振りではなく本物の恋人になれれば、ずっとゼロ距離でいられるのだろうか。時折二人でいる時に見せる翳った表情は、どうしても私の足をそこに留まらせてしまう。これ以上は踏み込んではいけないと。

「でも、本当にいいです。なんてことない一般家庭を見せるのは恥ずかしいし」
「だが……」
「そういうのは、然るべき時にした方がいいですよ」
「…さんがそう言うのであれば」

 釈然としない様子で引き下がったけれど、多分諦めていないのだろうなと思う。そこまで徹底しなくていいのに、と苦笑いした。きっと家になんて来たら、兄が余計なことを言うに違いない。別にいいのだ、私たちはこれで。今後私たちの関係が終わる時、親に合わせてしまうと面倒臭いことにもなりかねない。寂雷さんが新たに全てを捧げられるような女性が現れた時に、そういう配慮をすればいい。私相手に、そこまで心を砕いてくれる必要なんてどこにもない。
 私が今は亡き彼女を気にしている限り、きっと間違いなんて起こらないのだから。