思い出ほど美しいものはない。なぜなら、人は簡単に記憶を美化する力を持っているからだ。現実は残酷なほどに苦しくて、だから過去に夢を見ることもある。今というのは、思い出には永久に勝てないものなのかも知れない。私は、彼を見ていて度々そう思う。それがどれほど虚しいものか、彼もきっと分かっているのだろう。

さん、今回も検査急いでくれて助かったよ」
「…病院ですよ、“神宮寺先生”」
「それは失礼、さん」

 午前の外来が終わり、ごった返していた待合室は徐々に落ち着きを取り戻しつつある。とはいえ、未だ会計や院内処方を待っている患者はおり、スタッフも未だ慌ただしく行き来していた。そんな、往来とも言える外来のど真ん中で、下の名前を呼ばれた私は、思わず寂雷さんを窘めた。けれど、彼の方は悪びれた様子もなく、いつもどおりの穏やかな表情を浮かべて私に近寄って来る。これから彼も昼休みなのだろう、同じエレベーターに乗り、向かう先は最上階の職員食堂だった。
 彼は私の兄と大学時代からの友人で、そのため学生時代からよく彼のことは知っていた。当時兄はもう家を出ていたが、夏休みには実家に寂雷さんを連れて来たこともある。そして縁とは不思議なもので、今こうして私と彼は同じ病院で働いている。生憎、私は医者ではなく放射線技師としてだが。

「午後、一人急遽CTのオーダーを入れたから頼むよ」
「了解です」
「それと、MRI増設の話があるらしい」
「今の状態じゃ予約回すの大変ですからね。ハード面が充実するのはいいことだと思いますけど」
「人手不足が解消されなければそれも宝の持ち腐れだよ」

 ぴしゃりと言い放つ様は、流石だと思う。ただ温厚なだけの医師ではないことは分かっていたはずだけれど、時々本音をこぼす所を見る度に、この人も大変なのだな、と感じていた。

「神宮寺先生が病院の偉い人になってくれればいいのに」
「まさか。経営には向かないよ」
「でしょうね」

 放射線科へ戻るべく、私は途中でエレベーターを降りる。その箱の中に残る寂雷さんは、「仕事が終わったら連絡するよ、さん」と手を振る。ドアが閉まる間際、分かりました、と私も返事をした。同じ時間に上がりの日は、二人で帰ることにしている。今日はまだ外来表を見ていなかったが、今日は夕診もないらしい。とは言え、彼に急患が入ればその約束も守られないこともあるし、急に仕事が早く終わることもある。
 そういったものに対し、「彼の都合に振り回される」、と感じるような女性なら、きっと彼と付き合うことはできない。けれど幸い私は、やれ約束を守れだの、やれ記念日がどうのだの―――そういったことに拘る人間ではない。だからきっと彼にとっては都合がいいし、窮屈さもなければ不自由さもなく、手放す理由がない。そう、私と彼はもう二年ほど交際している恋人同士だ。至って問題なく、円満な契約のような交際だった。


 類は友を呼ぶ、とは事実のようで、寂雷さんと親しい友人である兄もまた、血の繋がった家族ながら優秀な医者である。けれどしがない放射線技師の私は、三人で会うとなると二人の会話について行けないことが殆どで、大抵はお茶に口を付けて二人の様子を静観しているだけ。私が学生の頃だけでなく、試験に合格して晴れて技師として働くようになっても、議論の白熱する二人に口を挟む隙などどこにもない。私にできることと言えば、せいぜいヒートアップして来た所で休憩を取るよう声をかけることくらいだった。
 兄はともかく、寂雷さんがこれほど何かについて熱く話す所なんて、そうそう見られるものではない。決してお酒の入っていない場で医療についてこれほど真剣に語る姿に、何度胸をざわつかせたか分からない。この、彼の声を聞いていると何とも落ち着かない感じを、恋と錯覚したのはいつだっただろう。一度錯覚してしまえば人の心なんて簡単なもので、「これは恋だ」と思い込ませてしまったのだ。

『あいつだけはやめとけ』

 妹の色恋沙汰になんて、これまで全く関心を寄せることのなかった兄が、たった一度忠告したことがあった。それは、彼が仕事中心の生活で患者を最優先としているからかと思ったが、きっとそんな簡単な理由ではない。だとしたら、兄がやめておけと言う理由なんて一つしか思い当たらなかった。
 それでも、はいそうですかと行ってくれないのが、また心と言うものだ。そうして何年も経った後に、寂雷さんに抱え続けた気持ちを打ち明けるきっかけとなる出来事が起こる。


「何ぼーっとしてんの、至急CT入ったんだからさくっと仕事するわよ」
「び…っくりした……」

 放射線科に並ぶデスクトップパソコンの一つを陣取って、肘をついていたら後ろからぽん、と肩を叩かれた。振り返ると、水の入ったペットボトルを片手に、私を見下ろしている同じ放射線技師のがいた。

さ、頭は良いけどなんか時々トリップするの怖いんだよね」
「そんな停止してるかな?」

 結構ね、と返して来る同期に、気を付けるねと言うが、どうも腑に落ちなさそうな顔をしている。
 病院と言うのは結構特殊な職場で、同期と括られた横のつながりは何かと強い。お陰で救われることもあるけれど、こうして勘の鋭い同期が友人にもなると、様々なことが見透かされてしまってどうもむず痒い。

「まあ、あの先生や神宮寺先生に囲まれてたら?考えることもいろいろあるんだろうけど?」
「なんか嫌味だなあ」
「心配とおっしゃい」

 寂雷さんと交際することになった時、反対したのは兄だけではなかった。彼女こそ、兄以上に反対した人物だ。絶対に苦労する、絶対に傷付く、良いことなんて一つもない、と、ようやく恋人のできた友人に対して酷い言い様だった。せめて口だけでも応援してくれればいいものを、決して嘘でも「良かったね」なんて言ってくれなかった。二人揃って今でも良い顔をしない。
 そんなこと、私自身が一番よく分かっている。都合よく使われたって、不要になったら別れられたって、形だけの恋人だって、なんだって構わなかった。恋人らしいことなんてできなくても、特別に優しくなんてされなくても、いつかと言わず、ずっと傷付くことになったとしても、それでも良いと言ったのは私の方だ。それでも良いから、と言ったのも私だ。

「泣かないんだね、は」
「…泣かないよ。私じゃないでしょ、泣きたいのは」

 立ち上がって、電子カルテからログアウトする。その直前見ていたカルテが誰のものか、彼女には見えていたのだろう。もう何度も向けられた訝しげな視線でこちらを見る。彼女が言いたいことなら十二分に分かっている。
 知りたいなら直接本人に聞けばいい。こんな、盗み見るような行為を寂雷さんが知れば、きっと怒るどころでは済まない。カルテだってアクセス履歴が残るのだから、私がしているのは本来はいけないことだ。けれど、直接寂雷さんに聞くなんてこと、流石の私もできなかった。だからこうして、該当患者の情報を隠れて拾っている。だけど、当然だけれどそこには有益な情報は何一つなくて、患者の人となりや生活歴、ましてや交友関係の分かるものだって書かれてはいない。それでも何かの足跡を拾うべく、また無駄に違反行為を繰り返してしまう。気にならないふりをしていたって、本当は気になって気になって仕方ない。

「泣く資格なんてないでしょ、こんなことしておいて」

 電子カルテの患者氏名の横に「死亡」と書かれたその女性は、かつて寂雷さんの恋人だった人だ。