規則正しい心電図モニターの音が鳴っている。同様に乱れることなく落ち着いた呼吸を繰り返すさんは、苦しそうな表情もなく眠っている。HCUに入って面会が許可されてから、ずっと彼女の手を握っていたが、いつものようには手を握り返してはくれない。まだ麻酔から覚めない彼女を、祈る気持ちで見つめた。
 さんが手術を決意してから今日まで、あっという間だったように思う。この一か月、今日が近付くに連れて、不安なのかさんは私の家に泊まることが増えていた。私も当直でない限りは寄り添って来たつもりだが、今朝も不安そうな顔をして手術室に入って行ったのが忘れられない。

「すみません、面会時間が終わるのですが…」
「…分かりました」

 心配ではあるが、規則は規則だ。ずっと握っていた手を離して、名残惜しいが立ち上がる。こちらがHCUを出るまで目を離してくれないのか、看護師はじっとこちらを見ている。すぐ出ます、と言うと、看護師は「あの…」とおずおずと声をかけて来た。

さんって、あの…バイオリンの…ですよね」

 否定も肯定もできるわけがなく、曖昧に笑って返すと、彼女は頬をやや紅潮させて「わあ…!」と小さな悲鳴を上げる。ファンなんです、と言う彼女は嬉しそうだ。
 きっと今なら、さんがそれを聞けば喜ぶだろう。もう一度バイオリンを弾く覚悟をしたさんなら。それまで、バイオリンを弾かされていたのだとしても、演奏には必ず人となりが出る。彼女が本当はバイオリンを愛しているということが、目の前にいる看護師のような人間の心を捕らえたのだ。彼女のこれまでの努力というのは、決して無駄ではなかったのだ。
 さんに伝えておきます、と言うと、絶対ですよ、と念押しされる。その熱のこもりように、どこでどんな人に会うか分からないものだと思った。

「明日は午後二時から夜八時まで面会可能です。明日には食事も始まっていると思うので」
「ありがとう、よろしくお願いします」

 一人、慣れない病院を出て駐車場に向かう。以前ここへ来た時は、さんの手術の説明を聞く時だった。一人では怖いからと、同席を求められたのだ。もちろん、さんに要請されなくともその気ではあったのだが、気掛かりなのは、未ださんがあの母親とは一切連絡を取っていないことだった。さんには悟られないよう、実は私から連絡してみたのだが、母親の反応も芳しくないものだった。
 今度は自らの意思でバイオリンを弾くことを決めたさんに対して、恐らくあの母親の方が不安になっている。とはいえ、私はその手の専門家ではない。下手に口を出すことはせず、それ以上は母親を言及することはしなかった。
 一人の車内は酷く静かだ。嫌でもさんのことを考えてしまう。決して難しい手術をした訳ではない。命の危険が、というような状況に陥った訳でもない。それでもいざ自分の一番大切な人がとなると、流石に参ってしまった。さんに悟られないようにするのも、実は必死だった。そのため、久し振りに一人で過ごす家に帰るのは、気を抜けるものでありながら、どこか気が重いような、複雑な気分だ。
 カーステレオに入ったCDの再生ボタンを押す。彼女の弾くバイオリンの音が車の中に流れ、すぐそこに彼女を感じるような気さえして、幾分か気持ちは楽になったのだった。



***



 翌日、午後からさんのいるHCUへ再び顔を出すと、もう起き上がっていた。まだやや疲れた様子がありながらも、こちらに気付くとにこりと笑って見せる。細い腕にはまだ点滴のルートが繋がれているものの、酸素マスクも外れており、昨日のような急性期の重症感はない。その笑顔を見て、ようやく心の底から安堵した。当然だが、手術前となんら変わりのないさんの姿に、続いていた緊張が一気に解けて行く。

「寂雷さん、お仕事は?」
「今日は午前だけだったんだよ。もう起きて平気なのかい」
「もう今日からリハビリです。早く退院しなきゃ。もうご飯も食べましたし」
「大丈夫だったかい」
「あんまり美味しくない…」

 それだけ軽口を叩けるなら心配ないだろう。明日にはHCUを出られるという話も聞き、さんの表情は手術前と打って変わって晴れやかだ。まさかそんな彼女に、今日の午後は有給を取ったなど言えるはずがなかった。若干の後ろめたさを感じながら、ベッドサイドの椅子に腰掛ける。すると、床頭台に白紙のままの色紙が一枚置かれているのが目に入った。

「…これは?」
「看護師さんに頼まれちゃって……その、サイン…」
「なるほど」

 恐らく昨日のHCUの看護師だろう。だがどうやらペンがないらしく、手を付けられないようだった。昨日の様子だと、恐らく舞い上がった様子でさんに頼んだに違いない。その光景が浮かぶようで、思わず笑ってしまった。さんはと言うと、意外にもサインには不慣れで、困っているようだった。
 いつもと違い、メイクを施していない彼女の顔は普段よりどこかあどけなく見える。珍しくてじっと見つめていると、視線に気付いた彼女は両手で顔を覆ってしまった。あんまり見ないで下さい、ともごもご言う彼女の手をそっと退けて、その頬に触れる。
 手術室に入る前の、良いとは言えない顔色を覚えている。緊張で強張った顔に触れた時、ひやりとしたのもよく覚えている。今、やっといつもと同じ温度を感じられて、何度目かの安堵を感じた。

「バイオリンは弾けそうかい」
「…まだ、分からない」
「そうか」
「でも、早く弾きたいです」

 まだしっかりとか力の入らないらしい両手をじっと見つめる。もう震えも強張ることもない両手を、数回握っては広げている。

「寂雷さん、私が初めて寂雷さんに会った時のことを覚えてますか」
「私の病院の診察室だったね」
「はい」

 あの時、生活する上で困っていることを聞いた時、さんは「ガラスのコップを割ってしまった」と言った。バイオリンではなく、自分の犯してしまった失態を告げたのだ。いやに印象に残っている話だったが、それについて言及することなくここまで来ていた。すると、さんは「コップを割った話も覚えていますか」と言う。まさに、思い出していた話だ。

「賞金のかかったコンクールで初めて優勝した時に、母に贈ったコップだったんです」
「……なるほど」

 だが、酷く落ち込む彼女に反し、「そんなものはどうでもいい」と取り合ってくれなかったという。恐らくバイオリニストであるさんの指を心配してのことだったのだろうが、それが決定打となり、彼女は腕の症状を治さないと決めたのだという。そして、バイオリニストを辞めることも。彼女の母は、よもや自分の発言が原因とは夢にも見ていないだろう。親子関係が崩壊するきっかけなんていうのは、案外そういう何でもない一言なのかも知れない。積み重ねられたものは様々にあるだろうが、決定的なものというのは本人以外には「なんだそんなこと」と言われてしまうようなことなのだろう。だから、すれ違いと言うのは元に戻すことが難しい。

「今はまだ許せないですけど、うん…バイオリンをさせてくれたことだけは、全部が悪かったとは思ってない…かも」
「そうだね」
「前も言ったけれど、そうでなければ寂雷さんには出会えなかったですから」
「私も、それに関しては感謝しなくてはいけないな」

 ぎゅっと握られた両手に自分の手を重ねる。あの、誰もが聞き惚れる美しい音色を生み出す両手は、頼りないほどに小さい。私もまだCDでしか聴いたことのない彼女の演奏は、老若男女問わずファンが多い。既存のクラシックだけでなく、最近は作曲も精力的に行っていたという彼女の突然の活動休止は、ファンに大きなショックを与えたという。恐らく、この色紙を置いて行った看護師にも。この小さな手と身体は、まるで見合わないような大きな期待を背負っている。その大きさに鈍かったことは、不幸中の幸いだったのかも知れない。変にプレッシャーを追ってしまえば、今回のように休養して治療に専念することなどできなかったかも知れないのだ。さんのバイオリニストとしての生命は、絶たれずに済んだ。

「事務所の人に言ってあるんです。近々復帰したいって」
「それで、事務所はなんて?」
「コンサートのチケット完売でチャラだって。酷くないです?文化会館の大ホールですよ?」
さんなら出来るよ」
「…寂雷さん、来てくれますか?」

 一体どこに断る理由があるというのだろう。不安げに揺れる瞳がこちらを見上げる。まさか、バイオリニストのさんにさほど興味はない、と言ったことを気にしているのだろうか。流石に言い過ぎたかとは思ったが、気休めになればいいと思った言葉だったのに。それに対してさんも同じようなことを私に言ったはずだ。

「一番いい席を用意してくれるならね」

 大ホールの舞台、その真ん中に立つさんの姿を想像するのは容易だった。海のような真っ青なドレスに身を包み、いつもとは違うクールな表情でバイオリンを手にして凛と立つ。彼女の代名詞とも言える自身が編曲したパッヘルベルのカノンは、きっと訪れた観客全員の心を震わせるだろう。そんな、まだ見ぬ舞台に期待を高めながら、今はまだバイオリンを手放したままの彼女に寄り添う。
 一度バイオリンを手放して、彼女は自身に価値を見出せなくなっていた。誰にも必要とされていないとすら言っていた。けれどブランクを埋める練習は、きっとそれ以上に高い壁となるだろう。復帰後初のコンサートが成功したとして、その次のハードルは更に高くなる。不安定な職業を選んだ彼女は、これからもきっと何度も躓くことがある。いくらプレッシャーに鈍くとも、今ではなくても、いずれ。そんな時、一番に傍にいてやれる人間が自分であればいいなんて傲慢だろうか。

「つまらないからって寝ないで下さいね」
「善処するよ」
「事務所の人より酷いわ」

 こんな下らない冗談を言い合うさんを知る人間は、きっとそう多くないはずだ。さんの編曲したカノンは、にしては随分ユニークでどこか可愛らしさがあると言われている。けれど、バイオリニストの仮面を剥いださんを知る私からすれば納得だった。そう頷く人間もまた、そう多くはないのだろう。どれほど熱烈なファンだとしても。

さん」
「なんですか?」
「…いや、なんでもないよ」

 そんな愛らしい部分を独占している優越に一人浸っていることに、さんは気付いているだろうか。独占欲、優越感、そしてこれほどまでに一人を愛おしいと思う感情を覚えさせた彼女に、持てる限りの愛情を注ごう。もう一度バイオリンを握ることを決めたさんが、安心してただのでいられる場所になれるよう。
 変な寂雷さん、と言って笑うさんに、そうだね、と私も笑って返すのだった。



(2019/04/30 #ドラマチック生命体/tacica)