持っている内は、それが自分を構成する重要な核であるということに気付かない。どうでもいい、手放してしまいたいと思っても、いざこの手を離れてみると大きな喪失感に襲われることがある。
 なくても生きて行けると思っていた。それがなくても私は私で、不安や恐怖に襲われることなく生きて行けると。けれど実際は違った。こんなにも足元は不安定で、どこへ向かえばいいのか分からない。ふと手元を見た時に、私には何も残っていないと気付いてしまった。こんな空っぽの私では、誰にも認めてもらえない。私は、バイオリニスト・だから価値があったのであって、ただのになんの価値もないのだ。
 バイオリンを弾かない私を、誰も必要とはしてくれなかった。


 落ち着いた今でも、時々悪夢を見る。何度も立った大きなホールの舞台。いつも通りブルーのドレスを着て、バイオリンを持って私はその上に立つ。けれど、弦を擦っても楽器は鳴らない。満員の座席はざわつき、よく知る指揮者が怪訝そうな顔でこちらを見る。やがて、震えた腕からバイオリンは滑り落ち、真っ二つに割れる。そこから私は動けなくなり、息もできないまま罵声を浴びせられるのだ。いつもそこで、目が覚める。起きれば冷汗で気持ち悪く、眠って起きただけなのに動悸が止まらない。目覚めた私の手は震えていて、何が夢で何が現実だったのか分からなくなる。
 幼い頃から私を縛るものを捨てれば、もっと自由になれると思っていた。なのに、どうしてこれまで以上に身動きが取れないのだろう。
 起き上がって胸を押さえ、息を整えていると、隣で眠っていたはずの寂雷さんが目を覚ました。同じように上体を起こすと、私の顔を心配そうに覗き込んだ。

「…何かあったのかい?」
「ごめんなさい、まだ早いから…」
「酷い顔だ」
「……ちょっと、悪い夢を」

 白状すれば、余程悪い顔色をしていたのだろう、寂雷さんは険しい顔をする。そして、何も言わずに私をそっと抱き締めた。安心させるかのように、そっと背中を撫でる大きな手。そのリズムのお陰でようやく私はいつもの呼吸を取り戻す。目を閉じればまたあの悪夢が戻って来そうで、眠いのに眠れない。眠るのが、こうして時々とても怖い。

さん、やっぱり昨日のことが」
「それは違います…!」
「けれど、」
「本当に大丈夫だから…寂雷さんのせいじゃないんです…」

 昨日は、病院関係者や医療関連企業の社員も参加する懇親会に、寂雷さんの付き添いで参加していた。今はほとんど自分の部屋と寂雷さんの家との往復をする程度の生活だったため、息抜きにもなればと彼が誘ってくれたのだ。寂雷さんもよく知る医療機器メーカーの主催だそうで、先方に確認して承諾も得てのことだった。
 あまり何も考えずについて行った私だったけれど、寂雷さんが女を連れているのは非常に物珍しかったらしい。次々に寂雷さんの元へ挨拶に来る人間は、皆一様にそれについて言及していた。その中には、私のことを知っている人物がいた。私も知っているような医療機器メーカー社員だという彼は、私の出演したコンサートにも来たことがあり、現在私が活動を無期限休止していることも、もちろん知っていた。その理由が一体何なのか、まことしやかに囁かれているありもしない噂を、まるで事実であるかのようにべらべらと喋ったのだ。
 当然周囲からは好奇の目が集まるが、寂雷さんはそんなことを気にしない人だ。結果的にはなんの手応えも得られなかったらしい件の社員は、何やら悔しそうな、しかし憤慨して私たちから離れて行った。残ったのは、根も葉もない噂で貶められた私への、哀れみのような、嘲笑のような、何より好奇心に満ちた視線だった。

さん、私は君がバイオリニストだから惹かれた訳じゃない」
「けれど周りはそうはいかない。みんな、名医の隣には相応しい肩書きの女性を置きたがるでしょう」
「そんなつまらない期待にさんが気に病むことも、胸を痛める必要もないよ」
「きっと、そう言ってくれるのは寂雷さんだけです」

 寂雷さんに恥をかかせたいという思惑は失敗に終わっても、私にダメージを与えるには十分だった。もし、バイオリニスト・としてあの場に立っていたら、こんな風に悩むことなんてなかったのに。きっと、そうであれば私だって私に自信があったし、何も恥じることなんてなかっただろう。あの小さな楽器一つを置いただけで、世間の見る目がこんなにも変わるものかと思った。バイオリン教室をしていることを悔やんだのではない、バイオリニストを辞めた私を責めた。たとえ他の誰が責めなくても、ただ私が後悔したのだ。
 まだ五時にすらなっていない部屋の中は薄暗い。今日だって休日なのに、まだ夜も明けない内に寂雷さんを起こしてしまって申し訳ない気持ちになる。昨日のことも、寂雷さんは決して私を責めたりなんかしないけれど、ただただ申し訳なさしか浮かんで来ない。けれど、「ごめんなさい」なんて言った所で寂雷さんは謝る必要はないと言うのだろう。

「私のことも、さんのこともよく知りもしない人間に悪く言われる謂れはない。私が今誰より大切に思っているのは、という一人の女性だ」
「奇特な方ですね。きっと、バイオリンを弾かない私に誰も興味なんてないですよ」
「それはそれでいいんじゃないかな。こう言うと誤解を招きそうだけれど、私も世界的バイオリニストのさんにはさほど興味はないからね」
「…寂雷さんは、いつだって私の欲しい言葉をくれるんですね」

 この人の傍にいても良いという確かな証明が欲しい。ただこの人から与えられるだけではなく、与えられるに相応しい人間になりたい。例えばそれがバイオリニストという肩書きなら、それを取り戻すことだって今なら厭わない。再びバイオリンを取る理由が不純な動機になってしまったとしても、それでも構わないと思うほどに、私は強くこの人に焦がれている。
 初めて寂雷さんに会った頃は、もう何もかもがどうなってしまっても良いとさえ思っていた。この両手も、これからの生活も、何もかも。そんな私を救い上げてくれた寂雷さんが、これからも私のせいで今日みたいな言われ方をするのは、誰よりも私自身が許せない。
 演奏者としての道を違えても、バイオリン自体と関わる道を閉ざさずに導いてくれた寂雷さん。バイオリン教室を始めてからは、レッスンに来る子どもたちを見て、バイオリンに関わることが本当はこんなにも楽しかったはずだと、最初の気持ちを思い出すことができた。バイオリンを嫌いにならずにいられたのは、仕事にさえできたのは、他の誰でもない、寂雷さんがいたからなのだ。そんなこの人の隣に、私は顔を上げて立ちたい。名前を言う時に、躊躇わない自分でいたい。もう、こんな風にこの人を心配させなくて良いように。

「私も、名医のあなたにはそれほど興味はありません」
「そうだろうね」
「けれど、寂雷さんが医師でなければ、私がバイオリニストでなければ、出会わなかったんですよね」
「そうだね」
「つまり、そういうことです」
「うん」

 引き止められたかった訳じゃない。自由になりたかったのは本当だ。けれど、バイオリニストとしての活動を無期限休止したいと事務所に言った時、少しも待ったはかからなかった。どれだけバイオリニストとして名前を馳せたとしても、結局はただそれだけ。バイオリンから手を離してしまえば、誰も私に見向きもしなかった。誰も気にかけてくれない、誰も心配なんてしてくれない。ただ一人、寂雷さんだけだった。私が助けて欲しいと言えたのも、事実助けてくれたのも。
 きっと、何の目的もなくではなく、この人のためと思えば、次はなんだってできる。

「寂雷さん」
「うん?」
「私、手術受けようと思います」

 薬指にはまった指輪をなぞる。冷たい金属のそれが、俄かに熱くなった気がした。

「もう一度、バイオリンを弾きたい」

 私の小さな手に、寂雷さんの大きな手が重ねられる。悪夢のせいでさっきまで冷え切っていた指先が、じわじわと温かくなって行く。決して錯覚ではなく、ちゃんと人の体温を取り戻して、どこかぼんやりしていた意識もここへ戻って来る。
 一度は拒んだ治療をちゃんと受けると、この腕を治すと告げて、寂雷さんは心底安心した様子で微笑んだ。それは、初めて会った時のような医者の顔ではなく、確かに私の恋人の顔で。

  


(2019/01/04)