さんが私の元を受診したのは、回数で言うと四回だ。最初は母親と来たあの日、その次は検査を受けるかどうかの意向を聞き、三回目は検査のために受診、そして四回目に検査結果を伝えた。その間、彼女の生活環境の変化は目まぐるしかった。さんがバイオリニストを辞めると宣言してから、母親はさんの話に耳を貸さず、家の中で居場所がなかったらしい。それでも、既にチケットが販売されており、間近に迫ったコンサートは出なければならない。それまで母親がべったり付き添っていたというコンサートにも、初めて一人で出演したと言う。
 彼女は強かった。そこで、意外と一人で生きて行けることに気付いたのだ。所属事務所とは自分で話をつけ、暫く病気療養したいと休暇を申し出ていた。幸い、理解のある事務所はさんの訴えを受け入れてくれた。そして、私がそれを知ったのは三回目の受診の時だった。その時にはもう、彼女の手の痺れは限界に近く、二回目の受診で処方した薬なしでは生活も辛そうだった。
 それでも、なんとか家を出るのだという気持ちを変えないさんには驚いた。初めて会った日には、そこまで行動力のある女性には見えなかったのだ。
 その日、何かあれば頼るようにと、主に身寄りのない高齢の患者に伝えている携帯の番号を彼女にも渡した。彼女を困らせるかとも思ったが、意外にも、さほど待たずして彼女から連絡は来た。何か辛い症状が出たのかと思いきや、「これからどうすれば良いか分からなくて」という、人生相談のようなものだった。

「どうすればいいか、と言うと?」
「仕事とか、住む場所とか…治安のいい場所とか分からなくて…すみません、先生はこんな相談に乗るつもりで番号を教えたのではないでしょうけど…」
「いや、いいんだよ。事務所の人にもそういう相談はしにくいだろうからね」

 電話の向こうのさんは、疲れているのか声色が暗い。特に、仕事のことが気がかりなのだとこぼす。これまで、音楽以外のことをして来なかったという彼女に、全く違う仕事は無理だ。ただでさえ今は病気を抱えていて、ストレスを増やすわけには行かない。音楽に関する仕事で、体の負担にならないもの―――一つだけ、心当たりがあった。
 最早主治医の範疇を超えている仕事であることは分かっている。けれど、こうしたいという目標はあるのに、その方法が分からなくて動けない彼女の話は、聞いていてもどかしい。医者として、一人の大人として彼女を放ってはおけなかった。今ようやく一人で歩こうとし始めている彼女を、どうやって突き放すことができるだろう。初診の日に見たあの双眸が、これ以上曇るようなことはあってはならないとさえ思った。

「仕事のことだけれど、少し伝手がある。待ってくれるかな」
「あ、あの、そこまでしてもらう訳には…そういうつもりで話したわけじゃ…」
「こういう時は甘えておくものだよ」
「でも、……はい…」

 世間に出ているというバイオリニストの印象は、私が知る彼女自身よりもずっとクールだ。公式ホームページ、コンサートのポスター、クラシック関連の雑誌―――様々な媒体の彼女を見たけれど、実際会った彼女とはズレを感じた。“バイオリニスト・”という役目を背負わされていると言えばいいのか、強いられていると言うのは流石に言い過ぎだろうか。けれど、何か彼女の背丈に合っていないような気がしたのだ。まさか、こんなにも弱々しい声を出すなんて、写真の中の彼女からは考えられない。凛とした表情の彼女ももちろん美しいとは思う。けれど、恐らく彼女は息苦しいのだろう。
 今日を除いて、彼女とは診察室でしか話したことはない。それでも分かる、きっと本当のさんは“これ”ではないと。

さん」
「はい」
「大丈夫だよ」
「……はい」

 やや間があってそう答えた彼女は、ほんの少し声から緊張が和らいでいる。顔の見えない電話の向こうで、彼女がどんな表情をしているのか、ただ気になった。



***



 あれからさんは、空部屋のまま持て余していた私の家の一部屋を使い、バイオリン教室を開いている。確かに提案したのは私だが、技術を持っていることと教えることが上手いのは別だ。向き不向きもある。彼女が提案をそのまま受け入れるとは思っていなかっただけに、私が一番その選択に驚きもした。
 今日も、全てのレッスンを終えたさんは、私が帰って来るのを待っていてくれたらしい。玄関を開ければ彼女の靴が綺麗に揃えて並んでいる。誰もいないはずの家に彼女がいることは、未だに不思議に思うと共に、酷く安心する。彼女の顔を見れば疲れも全て消えて行くようだ。しかし、「少しだけ会いたくて」とやや顔を赤くしてぼそぼそと話すさんがおかしくて、思わず笑った。

「笑うなんてひどい…」
「嬉しいんだよ。さんはあまりそういうことを言ってはくれないから」
「もう二度と言いません」
「それこそひどいな」

 出会った当初とはまるで別人のように明るくなったさんは今、世界の誰よりも愛しい。彼女に対する気持ちが恋愛のそれに移行したのがいつだったか、自分でも分からないが。
 最初は正しく主治医として接しているつもりだった。けれど、電話番号を渡した日だったのか、彼女から電話がかかって来た時だったか、これは主治医のやるべきことではないと自覚した瞬間だったか。あの電話は、明らかに医者に対するものではなかった。彼女が私に求めた役割は、主治医ではなかった。あの日、藁をも掴む思いで私にかけて来た電話が、私と彼女の関係性を変えたのだ。
 唇を尖らせるさんが可愛らしくて、抱き締めると「誤魔化されませんから、私」と言われる。腕の中で、まだ損ねた機嫌を取り戻せないようだ。最近、反論の術を覚えた彼女は、不機嫌さを装う反面、どこか会話を楽しんでいる節がある。あまりからかうと本当にそっぽを向いてしまうので匙加減が妙に難しくはあるのだが。

さん」
「…………」
さん、この間言っていた、次の休日のことなんですが…」
「……駄目になりましたか」
「いいや?」
「もう!深刻そうに言うから!」
「ごめんね、つい」

 今日は本当にひどい!―――そう言って腕を伸ばして私の頬を抓って来る。こういう反応も可愛くてつい、なんて言った日には口も聞いてもらえなさそうだ。いい大人のすることではないだろうけど、まるで覚えたての表情や感情を使うかのような彼女を前に、からかうなという方が無理な話である。

「先に、さんの希望を聞いておこうと思っているんだけれど」
「何の希望ですか」
「指輪と一口に言っても色々あるだろう」
「い、いろいろ、って、」
「お店が」
「なっ……!!」

 今度こそ本当に怒られそうだな、と頭の奥で思いながら、彼女が何か言う前にその唇を塞いだ。今にも怒り出しそうだったのに、唇を重ねると必ず背伸びをする。必死にしがみつくように。その意地らしさがまた、逆に私を掴んで離さないということを、彼女はきっと知らない。「いつも振り回されてばかりだわ」とさんは言うけれど、寧ろその逆だ。振り回されているのは私ばかりだというのに。外の世界を覚え始めた少女のような彼女が、その内この手を離してどこかへひらりと飛んで行きそうで、そんな不安を内に抱いていることすら、彼女は夢にも思わないのだ。
 唇を離すと、はあ、とさんは息を吸い込む。そのままもう一度抱き締めると、今度は彼女の腕も背中に回る。

「考えておきます」
「分かった」
「うんと高いお店」
「覚悟しておくよ」
「…嘘です」
「それは良かった」

 そっと体を離せば、何か言い辛そうに「えっと、その…」と繰り返す。先を促すように「どうしたんだい」と訊ねれば、とうとう続きをぽつりと言った。

「寂雷さん」
「うん」
「本当は、何だっていいの」
「そうかい」
「うん、何だっていいの…」

 まるで何か自分に言い聞かせるかのように呟く。それを見て思い出す。まだ彼女の中で、何もかもが解決したわけではないことに。明るく振る舞っていても、ふとした拍子に彼女の表情を翳らせる影を、その一言に見た気がした。

  


(2018/12/31)