先生、さようなら」
「はい、また来週ね」

 すっかり暗くなった庭先の門で生徒を見送って、私は家の中に入った。今日のレッスンはこれで全員終わりだ。レッスンに使っている防音室の片付けをしながら、左腕をさする。気圧が低いせいか、いつもより腕が重い。生徒には気付かれなかったけれど、どこか頭の奥も痛い気がする。鞄の中に常備している薄いピンクの薬を、ヒートから破って取り出した。
 寂雷さんには、四回目の受診で専門の先生に紹介状を書いてもらった。信頼できる先生だから、と紹介された先生も、寂雷さん同様優しい先生だ。今はあまり治療を進める気になれない私の気持ちを汲み取ってくれている。お陰で、今はこうして内服だけという対症療法だけなのだけれど、気が楽なのは私自身がバイオリンを弾くことから解放されているからだった。それと共に、腕の痺れも以前よりはずっとましにはなっている。
 がちゃん、と玄関のドアが開く音がする。防音室から顔を出すと、家主が帰宅した所だった。

「おかえりなさい、寂雷さん」
「ただいま。今日はこの時間までだったんだね」
「すみません、コンクール間近の子がいて延長レッスンを……もう帰るので」
「急がなくていいよ」

 母と絶縁状態になり、路頭に迷っていた私を助けてくれたのは寂雷さんだった。バイオリンを仕事にはできず、かと言って、バイオリンしかやって来なかった私に他の仕事などできるはずがなく、提案されたのがバイオリン教室の先生だった。この辺りは住宅街で子どもも多いから、と一室を貸してくれたのだ。彼が、音楽家だった親戚から譲り受けたという一軒家には防音室がある。そこを昼間、バイオリン教室に使って良いと言われて、お言葉に甘えている。本当に生徒なんて集まるのかと心配もしたけれど、富裕層の多いこの地区では、案外バイオリンを習わせたい親が多いらしい。お陰で、生活できる程度には生徒を抱えることができている。
 彼は当直の曜日が決まっているらしく、私はその曜日を避けてバイオリン教室を開いていた。昼間は時間の余った主婦や、老後の楽しみとして定年退職を迎えた人たちが、夕方から夜にかけては子どもたちが習いに来ている。もちろん、私はここに住んでいる訳ではないため、ちょうど寂雷さんが帰宅する頃、私はこの家を後にする。今日は少し、遅くなってしまったけれど。

「もう遅い、送って行こうか」
「大丈夫です。すぐそこですし…先生も帰って来たばかりでしょ」
「でも顔色が悪い。送らせてくれ」

 私の頬に手を当ててそう言う彼は、声色通り心配そうだ。そんなに酷い顔をしていただろうか。薬も飲んだ所だし、じきによくなるとは思うのだけれど、多分それでは彼の気が済まない。結局、入ったばかりの家をまた出させることになってしまった。歩いて十五分程度の所に部屋を借りているから、本当に大丈夫なのに。彼は時々、心配性が過ぎる。

「恋人らしいことを普段、してあげられてないからね」
「別に、私は……」

 もう半年を迎えたというのに、未だ慣れない肩書きに気恥ずかしくなって目を逸らした。
 私が彼に惹かれるのに、さほど時間はかからなかった。最初は自分でも、熱心に話を聞いてくれた医師相手に転移しているだけだと思っていた。けれど、医者の範疇を超えて親切にしてくれる彼に、恋心を抱くなと言う方が無理だったのだ。気付けば恋に落ちていたし、思いを告げられずにはいられなかった。音楽一筋で、恋愛経験などほとんどないに等しい私が、思い切ったことをしたと思う。結局、彼も彼でいろいろ思惑があり、付け入るつもりでそうやって世話を焼いてくれていたらしいので、術中にはまったとも言える。上手く外堀を固められてしまったという訳だ。とはいえ、私としても結果オーライなので何も言えない。母が知ったら卒倒しそうな話だ。

「そういえば、さんの方からああして欲しい、こうして欲しいという話を聞いたことがないね」
「もう十分してもらっているじゃないですか」
「そうだろうか」
「それを言うなら寂雷さんだって人のこと言えません」

 お互い、もう性分なのだろうが、欲がないと言えばない。寂雷さんによって満たされてしまった今、これ以上望んでしまえばいつか罰が当たってしまいそうだ。誰もが羨むような恋人を持ち、仕事にも住む場所にももちろん困っていない。両手の痺れは最早その代償のような気さえしてしまう。もし私がそう言えば、寂雷さんは「病気は代償なんかではない」と本気で怒りそうだ。そういう冗談が通じず本気にしてしまう所も、私を案じているからなのだろうと思うと、堪らない気持ちになる。
 いつもだったら歩いて帰る道を、私のために寂雷さんは再度車を回してくれる。仕事終わりで疲れているだろうに、あの神宮寺寂雷先生をこうやって五分程度の道のりのために使うだなんて、世間が知ればなんと言うのだろう。彼は絶大な人気を誇ったという元TDDのメンバーでもあり、ファンが知れば後ろから刺されそうだ。私は生憎、そちらの方の情報に疎くて、医者として以外の顔でも有名だなんてあまり実感が湧かない。

「私は結構、私の好きにしているつもりだよ」
「うそ」
さんに手を出したのも私からだったしね」
「…周到に環境を整えたのも?」
「それは悪かったよ……」
「冗談ですよ。感謝してるんです」

 不安になるよ、と苦笑して私の方を見た。
 歩けば十五分の道のりも、車だとあっという間だ。まだ今日は会って間もないのに、逢瀬にしてはあまりに短い。別れ難いな、と私も彼を見つめると、ほんの一瞬で唇が重なる。その至近距離のまま、寂雷さんはまた私の頬を撫でた。輪郭を確かめるように触れる彼の大きな手が、私は好きだ。うっとりとしてその手に自分の手を重ねる。彼のそれよりずっと小さい私の手は、随分と非力な気がした。与えられるばかりで、この人に何もしてあげられていない。それが私にはもどかしくて仕方ないのだ。

「冗談を言える程度には元気になってくれて良かったよ」
「寂雷さんのお陰です。私、どうやって返せばいいか分からない」
「じゃあ、今度の休日付き合ってくれないかな」
「珍しいですね、寂雷さんがお願いなんて」
「ちょっとね」
「構いませんが…」

 でもどこへ、と首を傾げると、私の手を取り、指先へ口付ける。こんなこと、世間一般の恋人たちはさらりとやっているものなのだろうか。本の中くらいだと思っていたのだけれど、寂雷さんと接していると何が一般的なのか時々分からなくなってしまう。やや動揺している私に、彼は言葉を続けた。

「この指にぴったりな指輪を探しに行きたいんだけど」
「そ、それ、って……」

 遠回しなのか、直接的なのか。けれど、意味の分からないほど私も鈍くはないし馬鹿でもない。動揺から混乱に頭の中が変換されて、どう返事して良いのか分からない。指輪なんて早過ぎないかとか、このタイミングで今言うことなのかとか、そういうのって示し合わせておくものなのかとか、色んな疑問が次々に浮かぶけれど、どれも言葉になってくれない。
 真っ赤になって言葉を詰まらせる私を見て、寂雷さんは優しく笑う。そして抱き寄せられると、「お願い、聞いてくれるんだろう?」と耳元で囁いた。そんな言い方をされれば断れるはずもなく、拒めるはずもない。声も出せないまま何度か小さく頷くと、ゆっくりと離れた彼は満足そうに目を細める。
 ろくに恋愛もして来なかった私の扱い方も、彼は十二分に心得ているようだった。

  


(2018/12/19)