その日、診察室に現れたのは、まだどこか少女の頃を引きずった面影のある女性だった。カルテを見れば正しい年齢は書いてあるけれど、顔を見れば大人になり切っていないような、そんな表情である。母親に連れられて来たのだという彼女は終始口を閉じており、代わりに母親がずっと話し続けていた。こんな症状がある、いついつから出ている、こういうことに困っている、早急に治療をして欲しい、と、捲し立てて来たのだ。けれど当の本人は全く興味がないとでも言うように、こちらを見向きもしない。行儀よく診察室の椅子に座る姿は、恐らく何を言われても動じないだろうことが窺えた。

「とにかく、一日でも早く治してもらいたいんです」
「…ということで良いのかな」
「…………」

 彼女自身に問いかけてみても返答はない。尚も母親は焦った様子で言葉を続けようとする。そんな母親を制止し、一度自分が彼女と話してみると伝えた。渋々ながら診察室を出て行く母親は、最後にもう一度、「ちゃんと先生にお話しするのよ」と念押しして行く。二十歳をとうに超えた娘に対するものとは思えない態度に、先が思いやられる気がした。

「手が痺れる、ということだけど、いつからですか」
「…………」
「職業が…バイオリニスト?ああ、だから弾けなくなると困ると、」
「私は困りません」

 ようやく言葉を発した彼女。けれど、外に漏れることを気にしてか、それはごく小さな声だった。
 母親の話を聞いた時点で勘付いてはいたが、やはり本人にとっては不本意な受診だったらしい。相変わらず彼女の視線は膝の上で握られた自身の手に落とされている。

「どうして、と聞いてもいいのかな」
「別に…弾けなくても、良いから…」
「なるほど。他に症状は?」
「あの、ですから」
「治療するしないの希望は別として、症状は把握しておかないといけないからね。ここは病院で、私は医者だ」

 再び黙った彼女は、言葉を探しているようだった。母親の前では出て来なかった言葉を、どうにかして棘のないよう伝えようとしているのだろう。
 今日は飛び込みでの診察のため、彼女以降患者はいない。特に急かすでもなく、次に発せられる言葉を待った。恐らく、両手の痺れ以上に何か拗れた問題が彼女の中にはあるらしい。それを解決しないことには、いざ治療、と進めることはできない。彼女自身と彼女の母親には、大きなすれ違いが生じているのだ。そのことにあの母親は気付いていないだろうが。

「時々、強張って、思うように動かせない時が……」
「その頻度は増えているかい」
「はい」
「それで困っていることは?」
「コップ……」
「コップ?」
「ガラスの食器を、割ったんです」

 単純に、日常生活に困っていると彼女は言う。他にもぽろぽろと困っていることを話し始めたが、その中ではバイオリンのことなど、少しも出て来ない。先程、彼女は「弾けなくて良い」と言ったが、恐らく正しくは「弾きたくない」だろう。
 こういうケースは少なからずある。幼少期からの積み重ねで親子関係にひびが入り、子どもが大きくなる頃には修復が困難になる。大概、子どもは親の言うことをよく聞く優等生だったりするのだ。それゆえ本心を打ち明けることができず、確執は膨らみ、どこかで爆発してしまう。彼女もそのケースの一つに違いなかった。
 名前と職業で一致したが、自分でも知っているような有名なバイオリニストである彼女のことだ。これからますます世界での活躍を期待されていることだろう。それに応えることに疲れた、という所か。手の症状はきっかけに過ぎず、もしかすると随分前から燃え尽きていたのかも知れない。昨日今日、彼女がこんな暗い顔になったとは考え難かった。

「バイオリンを弾かなくていいなら痺れたままで良い、と捉えて良いだろうか」
「……端的に言えば」
「ただ、それでは君の親御さんは納得しないだろうね」
「先生は治療を勧めないんですか?」
「患者は君だ。君の希望を最優先すべきだと考えている」

 すると、それはそれで困っているようだった。治療を拒否したとなれば、彼女があの母親から酷く叱責されるのは目に見えていた。また、期待を裏切る罪悪感にも苛まれることだろう。それらに彼女は耐えられない。けれど、治療を受けた所でまた、彼女の望む未来はない。
 建前上、検査だけしてみることを提案することもできるが、それも乗り気ではないだろう。日常生活に大きな支障を来すようになってからでは遅い、症状が軽い内に治療してやりたいのが医師としての本音だ。楽器の演奏関係なく、遅かれ早かれその症状はますます彼女を日常で困らせることになる。そうなる前に、とは思うものの、治療をしようと思えば、彼女を母親から切り離すことは必須条件のように思えた。そしてそれは、彼女自身も十分理解している。だから、次の決定的な一言を言い出せずにいるのだ。

「先生」
「はい」
「先生は、治療すべきだと思いますか」
「私は医者だから、参考にならないと思うけれど……」
「良いんです。私に治療を勧めなかったお医者さんは先生が初めてだから、聞きたいんです」

 そこで、初めて彼女の双眸は私を捉える。伏し目がちなさっきまでの表情や、ぼそぼそと周囲を気にするような喋り方からは想像できない、意志の強そうな瞳だった。射抜く、と形容することが正しく相応しい二つの黒い眼は、嘘も誤魔化しもない言葉を待っている。
 彼女の口ぶりから、ここに来るまでもいくつか病院を巡って来たことが分かった。同じような態度で臨んで、結局医師に断られたのだろう。それで、あんな風に母親は痺れを切らしていたのだ。強引にでも治療を進めてくれる医者を探しているかのようだった。全てに合点が行く。

「放っておけば、いずれ君が何をするにも困ることになる。早めの治療を、私は勧めたいけどね」
「……分かりました」

 やや間があってそう答えると、彼女は立ち上がって「ありがとうございます」と一礼する。さらりと流れた髪が顔を隠し、次に顔を上げた時には、幾分かすっきりした表情をしていた。そうして彼女が診察室を後にし、数分と経たない内に外から何やら怒鳴り声が聞こえ始めた。怒鳴り声というのか、金切り声というのか、何かヒステリーを起こしたような女性の声だった。慌てて後ろに控えていた看護師と共に待合室へ出ると、先程の彼女の母親が興奮した様子で顔を真っ赤にしている。対峙する彼女は、ぶたれたらしい左頬を押さえていた。もう一度手を振りかざした母親を、慌てて看護師が止めに入る。

「あんたたち!私の娘に何を吹き込んだのよ!」

 その一言で全てを察した。彼女は、バイオリンと母親を共に捨てたのだ。


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(2018/11/23)