病院というのは実に勝手なものだ。職員を駒のように適当に扱うのは、一般企業と変わらないような気がした。病院都合で医事課から総務課に異動になったというのに、今度は医事課の人手不足のため、出戻りすることになった。外来クラークの方が本来の資格を生かせるでしょ、なんて尤もらしいことを理由付けられたが、私が一番動かしやすかったから異動になったということは十二分に察していた。ようやく慣れた矢先の出来事というのもあるが、外来クラークに戻りたくないもっと個人的な理由があった。
 古巣は居心地のいいものではない。私のあることないことを話のタネにするのにも飽きたのか、前ほどあからさまな態度はとられないが、それでも外来スタッフにの私に対する態度は他のクラークへのそれとは明らかに違った。

「ああもう、大川先生の字読めないのよ!」
「それならほら、さんが読めるでしょ。ねえ?」
「……“ステロイド二週間内服”、ですね」
「ほら」

 その二文字にはどんな意味が込められているか、私は一瞬で理解した。以前、その医師と噂になっていたこと、その彼の節介によりあらゆる用語を叩き込まれたこと、彼だけでなく他の医師の癖なんかも教えられたこと―――つまり、私を「すごい」と褒め称える気なんて彼女らにはこれっぽっちもないということだ。寧ろ、侮蔑を含んでいる。「じゃあそれ、会計へよろしく」と別の封筒を手渡し、聞くことだけ聞いて、くすくす笑いながら去って行く後ろ姿は、外来の狭いバックヤードから一歩外へ出れば白衣の天使などと称されているとは信じがたい。
 溜め息をついて手元に残った封筒を見つめる。胸が痛むだとか、傷付くだとかいうことはないけれど、これから暫くこんなことが続くのかと思うと気が滅入る。ますます“彼”とのことは公になるわけには行かない、と唇を引き結んだ。
ちらりと斜め後ろを見る。外来の裏側と薄いカーテンで仕切られた診察室の向こうからは、たった今思い浮かべた神宮寺先生の声が漏れていた。やがて、念じた訳でもないのにカーテンを開いて彼が出て来る。封筒を手に立ちすくんでいる私に気付くと、にこりと笑った。私もぎこちなく笑い返し、会釈をした。ほっとするような、焦るような、微妙な心地だった。

さん、今日も外来の手伝いかな」
「いえ、あの……」
「先生知らないんですか?さん、外来に戻って来られたんですよ」
「へえ、それは…」

 話に割り込んで来たのは先程の看護師だった。用事を終え戻って来た所らしい。自分で事の顛末を話そうと思ったのに、私に代わって事情を説明する彼女は、きっと神宮寺先生と話がしたいだけなのだ。ここで私が口を挟むと、逆に私が割り込むみたいになってしまう。立場の弱い私が余計なことを言う訳にも行かず、なんとなく神宮寺先生の視線を感じながら、そっと脇にあるパソコンで外来の診察待ち患者の確認を取るふりをした。
 きっと、私から直接異動の件を聞かず、先生もあまり良い気はしないだろう。あまりマイナスな感情を外に出さない神宮寺先生が、看護師の話に「へえ」とか「そう」とか、一応笑顔を作りつつ明らかに興味がなさそうに相槌を打っている。ちくちくと刺さる視線の痛みに耐えかねて、いよいよ私は「これ会計に回して来ます」とその場を離れた。後ろからは、「さん、大川先生のお気に入りなんですよ」という聞きたくもない言葉が聞こえ、いよいよ神宮寺先生に問い詰められることを覚悟した。
 そこからはまるで業務に集中できず、気が気でない一日を過ごした。今日は神宮寺先生の外来補助ではなかっただけでも不幸中の幸いとでも言おうか。でも昼休みに何の連絡も来なかったのが逆に怖い。午後は一切外来ですれ違いもしなかったのも。仕事が終わってからも、まだ先生からは何の連絡も来ない。
地下の職員用通用口で職員カードをかざすと、自動ドアが開いて地下駐車場が現れる。車通勤なんかではないのに、ついこっちに来てしまった。週末はおよそ、神宮寺先生に送ってもらっているけれど、今日は何の約束もしていないのに。いつも通り、他の職員が帰るラッシュの時間帯とはわざわざずらしてもみたけれど。なんとなく嫌な感じがして、生ぬるい風を受けながら眩しく光るスマートホンの画面を見つめる。

(あれ……)

 これまで先生以外の人と関係があった時、こんな風に焦燥感を抱いたことが一度でもあっただろうか。終わったなら終わったでそれで構わないと思っていた。そもそも自分が一番の本命になったことがなかったし、誰かの唯一にもなったことがなかった。大事にされていると自覚したことすら。神宮寺先生は、私をあまりに甘やかしている。それはもう、最初からだ。私がそれまでして来たことを咎めもしなかった。それすら全て理解した上で私ただ一人を選んでくれた。忘れていたのだ、本当は先生のような人にそんな風にされる視覚なんてないことを。当たり前だったのに、平和ボケしてしまったのだろう。一瞬で心が冷えて行くのが分かった。
 あれから、あのお喋りな看護師が神宮寺先生以外の誰かとの色んな噂を楽しそうに吹き込んだことだろう。とうとう、本当に先生は私に嫌気がさしてしまったかも知れない。今度こそ、もう間違えないと思ったのに。私だって、これまで間違えようと思って間違えて来たわけではないのに。

「もういや……」

 もっと、奔放に生きていたはずだ。やりたいことはやりたいようにしていたし、あまり思い通りにならないと思ったこともなかった。周りの視線も噂も気にならなかったし、気にしようとも思わなかった。たとえ、誰に何を言われようとも。けれどそれは、思い通りにしたいと強く望んだことがなかったからだ。神宮寺先生と出会ってから、やり辛いとか、思い通りに行かないとか思うことがあまりに多い。それから、儘ならないことも。言いたいことだって上手く言えない。

「私もだよ」

 呟いた瞬間、後ろから声が降って来る。それは、今日一日待ち望んだ声だった。間違えるはずない人の声。だけど、私の後ろに立つ先生を振り返ることができない。

「私も嫌だったよ、君の色んな噂話を延々聞かされるのは」
「身から出た錆です、私の」
「違うよ」
「違わないから、つらいの…っ」

 自分のやって来たことを分かっているから、泣いたことなんてなかった。神宮寺先生と出会うまでは、自分にも恋愛でこんなにも苦しくなる日が来るなんて思わなかった。泳ぐ世界の差を目の当たりにして、こんなにも自分を惨めに思うことも初めてだった。初めて、何も知らないまっさらな自分に戻りたいと思ったのだ。先生に釣り合うような、身も心も綺麗な女性に。そうすれば今、先生の顔をまっすぐ見ることができたのかも知れない。泣くのを必死で堪える私に、先生は後ろから一歩近付いた。

「そんなさんに優しくできたら良かったんだけどね」
「え……?」
「最近、君のことになるとあまり心の広い人間になれないんだ」
「先生、」
「嫉妬というのは本当に醜い」

 狂いそうだ、と言って後ろから私を抱きすくめる。なんで、とほとんど吐息だけで吐き出した言葉は、彼には聞こえていないようだった。
 なんで、彼の方が苦しそうな声をするのだろう。先生は十分に優しいのに、嫉妬とはどういうことだろう。私は先生に心を痛めてもらうような人間ではないはずだ―――なんで、私はまだそんな風に彼を信じることができないのだろう。愛情を注がれている自覚はある。彼は誰にでも平等で優しいけれど、私は特別大切にされていることが分からないほど鈍い人間ではない。それなのに、その愛情の裏側には何かあるのでは、とか、こんな幸せいつか終わってしまう、とか、疑ってやまない。そうやって自分から不幸になりに行く自分が嫌いだ。不幸の方へ寄って行ってしまう自分が。何も気にせず、疑うことなく彼に与えられるものを享受できればいいのに。ただ、幸せと思えればいいのに。

「優しくしなくていいです、優しくなんてしないで下さい」
「自分のことをそんな風に言わないで欲しい」
「嫉妬だって、誰か分からないけれど、そんなの……」
「大川先生のお気に入りだって言われていただろう」
「あれは…その……」
さん、覚えていて欲しい。私は君の思っているほど人間も出来ていないよ」

 私を抱く腕の力が一層強くなる。これまでに何度か抱き締められたことはあったけれど、こんなにも乱暴なのは初めてだった。こういう時に嘘がつけない人だということは知っていたから、彼の言っていることが何一つ嘘ではないと分かる。いや、これまでだって嘘を言われていたとは思わない。私を気にかけてくれる言葉、心配してくれる言葉、それ以外にもたくさん、もっと直接的な言葉だって言われた。それらを疑ったことなんて一度たりともない。けれど、今私を抱くこの人は、まるで懺悔のような言葉ばかりを述べる。
 いつだったか、私と同じだけ堕ちている人ならなんの後ろめたさもないと思った。神宮寺先生は私にはあまりにも不釣り合いだと。それなりの汚れを知っている人ではあるけれど、私とはその質が違うと思ったのだ。その彼が、私と同じように醜さを吐き出している。そこに、私は僅かな安堵を覚えた。

「外来に戻って来てくれたのは嬉しいけれど、目が届く分、他の男と話す君を見ることになるのかと思うと気が遠くなりそうだ」
「そんな、先生、そこまで…」
さんはもう少し、私の大切な人だという自覚を持った方がいい」

 段々エンジンがかかって来たのか、恥ずかしいことをつらつらと並べ立てる。さすがにそこまで言われたことがなかった私は、言を重ねられると共に恥ずかしさが湧いて来た。けれど、顔を隠そうにも未だしっかりと身体を拘束されていて不可能だ。
 それより、いつまでもこんな所に留まっていては流石に誰かに見つかってしまう。退勤者の多い時間は過ぎたとはいえ、ここからは残業した職員や遅番の職員が帰る所に出くわしてしまいそうだ。それまでとは別の焦りが生じて、せめて腕の中から抜け出そうともがいてみるも、なかなかそれは叶わない。誰かに見つかってしまう、と言ってみたが、構わない、とまで言われてしまった。思わぬ彼の一面に参ってしまう。

「先生、分かりましたから、せめて場所を変えましょう、ここでは本当に…」
「…今日は、そうしよう」

 渋々と言った様子で、ようやく私を解放する。なんだか引っ掛かる言い方をされたけれど、そこを追及するとまた振り出しに戻る気がして、もう何も言えなかった。そして、場所を変えることを提案した手前、帰るわけには行かない。今日はもう、十分すぎるくらい色んなものを与えられたはずなのに、まだこれ以上浴びせられるのかと思うとキャパシティを超えてしまいそうだ。経歴だけ見れば派手かも知れないけれど、こんな風に優しくされたり甘やかされたりするのは本当に慣れていないのだ。
 やや熱を持った頬に気付かれないよう俯きながら、誘われる手を取る。これくらいは甘んじて受けなければならないだろう。満足そうな横顔を見てしまえば、もう拒否などできるはずもなかった。