残業の滅多にない部署で、珍しく遅くまで残っていたのは、下半期が始まったばかりだからだった。九月も半ばになると陽が落ちるのも早く、薄暗くなった廊下はどこか肌寒い。最後まで総務に残っていた私は、警備に事務所の鍵を返し、職員用の通用口を目指す。一階まで降りると、もう明かりがついているのは救急外来と薬局くらいだ。
 帰る前に確認した当直表には、神宮寺先生の名前はなかった。今日は昼間の外来だけだったらしい。とはいえ、勤務医は入院患者の主治医もしているため、午前で外来が終われば次は病棟に上がり入院患者の様子を見なければならない。抱えている患者数の多い神宮寺先生は院内でも五本の指に入る忙しさを背負っていることだろう。何の医療資格も持たない私は、それも想像の域を出はしないけれど。
 もしかしたら、まだ医局に残って仕事をしているかも知れない神宮寺先生のことが頭を過ったが、先日も自ら関わらないで欲しいと言ったばかりなのに、あまりに勝手な頭だ。首を振って止めた足を動かそうとすると、「さん」と呼ばれる。よく聞き覚えのあるその低い声に、歩き出そうとした足が一瞬止まった。迫って来る足音の主が誰なのか容易に想像がつくと、振り返るのが急に怖くなる。

さん、」
「お、お疲れ様です!」

 何か言われそうな所を、敢えて振り返らずにそう言って去ろうとした。私から話すことなんて何もない。これ以上関わらない方が先生のためだという考えも今も変わっていないのだ。カツカツと低いヒールの踵の音が暗い廊下に響き渡った。けれど、当然私よりずっと歩幅の大きい先生はすぐに追いついてしまう。それと共に左の手首を掴まれ、その反動で先生の方を振り返る形になった。その先にいた先生は少し困ったような顔をしている。

「…なんですか」
「いや…姿が見えたから」
「関わらないで下さいって言ったはずです」
「私も待つって言ったはずだよ」

 掴まれた手の力の強さから、それが決して冗談ではないことは分かる。けれど、やはりどうしても私のような人間が先生の隣に立つことは、あまりに不釣り合いな気がして仕方ないのだ。こんな風に思っている時点で神宮寺先生が私にとっても特別な存在であることは違いない。そう思える人に出会ったことすら初めてで、いかに自分が歪んで生きて来たかを思い知らされる。そうしてまた、私は相応しくないという結論に至ってしまうのだ。
 それなのに、あの目にまっすぐ見つめられてしまうと、自分を騙すことも誤魔化すこともできなくなる。口をついて本心が顔を出してしまいそうになる。自分の気の持ちようだという人もいるだろうけど、自分がこれまで誰かの隣に立てたのは、相手も自分と同じくらい“落ちて”いることを知っていたからだ。共犯者になり得る存在が、私には丁度いいと思っていた。神宮寺先生は、きっと共犯者になんてなれない。

「なんとも、思わないんですか」
「何を」
「周りからなんて言われているかご存知でしょう?私なんか必死で追って、恥ずかしくないんですか」
「自分のことをそんな風に言うものじゃない」
「だって!」

 彼が素晴らしい医者であることは、ここに勤めていれば誰もが知っている。例に漏れず私もだ。そして誰もが、そんな立派な人の隣に立つ女性は、同じく素晴らしい人でないと納得などできない。そこそこの女であれば反感を買うのは尤もで、あの女が選ばれるなら私だって、と思う女だってもちろんいるはず。これまではどんなに貶められても耐えられたのに、今私を侮辱すればそこには先生の名誉もかかって来る。彼を巻き込むことはどうしても心苦しかったし、耐えられないと思った。
 いつまでも自身の卑下を繰り返す私に、先生は「外に出よう」と促した。背中に回った手があまりに優しくて、ぐっと堪えていたものが溢れて来る。涙ぐんでしまったのを悟られないように俯いたけれど、察しの良い先生は気付いていたのだろう。何も言わずに地下の職員用駐車場まで私を誘導した。
 言われるがまま助手席に落ち着き、無言のまま職場を後にする。どれだけ時間が経ったかなんて分からない、何のBGMもないまま暫く車を走らせた所で停まった。ずっと膝の上を見つめていた視線を上げれば、そこにはギラギラとした目に痛いシンジュクのネオンとは違い、煌めく夜景が広がっていた。

「あんな所ではちゃんと話せないだろう」
「話すことなんて、私は……」
「何もない、なんて顔はしていないけれど」
「…………」

 さん、とまた呼ばれる。促された気がして、先生の方を振り返った。すると、思いもよらず先生は悲しい表情を浮かべていた。そんな顔をさせたのが私だと思うと、きりきりと胸が痛む。何かを言おうとして、けれど喉がひりついたように痛い気がした。

「君の隣を歩くには、私では不足かい」
「そんなこと…!」
さんは私よりずっと若いから、興味なんて持ってもらえなくても仕方ないとは思うけれど」
「ちがう、ちがうの……」
「それでも、さんに惹かれることは止められないんだ」

 悲しい顔のまま項垂れるように顔を伏せる。まるで懺悔のようなその姿に沸々と罪悪感が生まれた。こんなにも思ってくれる人の気持ちを踏み躙ることはできない。けれど、彼を受け入れた先にある現実を思うと、易々と首を縦に振ることはできなかった。代わりに、ふと目に入った、固く握られた拳に手を重ねる。いつかの自分を思い出して、ゆっくりとその手を開いて行くと、神宮寺先生は祈るように私の手を両手で包んで握った。
 いつもは神様のように慕われている先生の、こんなにも人間な部分を知っている人は、果たしてどれくらいいるのだろうか。私のような女一人にこんなにも執着して、私がどれだけ拒もうと何度でも手を掴んでくれる。患者を見捨てない医者ではあるけれど、こうして私情でただ一人を手放したくないなんて、こんな姿、一体誰が想像するだろう。
 低体温そうに見えてちゃんと平均的であるだろう体温が、両手からじわじわと伝わって来るのが分かった。さっきまで緊張で冷えていた手が、分け与えられたお陰で少しずつ温度を取り戻して行く。

「周りの噂なんてどうでもいい、さんの本当の気持ちを聞かせて欲しい」
「本当の、きもち……」
「そう」
「私…私は……」

 本当は、言われるがまま全て委ねてしまいたい。私も先生に惹かれているのだと言ってしまいたい。言えばきっと楽になれる。神宮寺先生も受け止めてくれる。私の散々な場面を見てもなお、諦めてはくれなかったこの人なら。先生の言う通り、私たち二人の間でのことなのだから、浮評なんて気にする必要ない。他人なんて関係ないし、口出しされることでもないはず。…そう割り切ってしまえるほどの強さがあればいいのに。私一人ではとても耐えられない。耐えられないけど、二人ならば。彼がいるなら、違うだろうか。
 乞うような声にあらがうことができず、唇が震える。聞こえるか聞こえないかくらいのか細い声が漏れて、私もです、と殆ど息だけで呟いていた。

「私も、とは?」
「だ、だから!私も先生に、その…惹かれてますから……」
「本当かい」
「でもきっと迷惑かけるし、嫌な思いもするし、評判も悪くなるし、」
「関係あるものか、私のさんへの評価だけが全てだよ」
「せんせ、」

 いつかと同じように私の頬に手を当て、輪郭を確かめるかのように何度も撫でる。まるで愛しいものに触れるかのように手つきに、くすぐったくて目を伏せた。こんな風に大切に扱ってもらったことなどなく、そのせいで却ってどこか居心地の悪いような、居た堪れないような気持ちになる。
 けれど、神宮寺先生の言葉は不思議だ。さっきまであんなに卑屈になっていたのに、まるで気にならまくなってしまった。まだどこか引っ掛かる部分はあるけれど、素直に受け入れられなかったのが嘘のようだ。ただこの手のひらや発せられる言葉の全てを甘受していたい。先生が私を見てくれている間くらいは、他人など気にせずに。

「ああ、やっとこっちを見てくれた」

 そう言いながら額を合わせて目を瞑る。明日のことは分からないし、寝て起きればまた卑屈になっているかも知れない。今日を少し後悔することだってあるかも知れない。けれど今だけは、もう明日の不安などさほど気にならなかった。