大して楽しくもないのに、どうしてうちは職場の飲み会がこうも多いのだろうか。毎年ホテルの宴会場を貸し切り、病院を上げて行われる納涼会と忘年会に、私は至極嫌気がさしていた。納涼会なんて馬鹿らしい、残暑の厳しいこの時期に出掛けたくなくて欠席するつもりだったのに、神宮寺先生に「来てくれないと寂しいな」などと絆され、参加する羽目になってしまった。最近、彼は私の扱いが格段に上手くなった。私が先生の頼みなら断れないことを分かっていてあんな言い方をするのだ。どうせ参加したって話し相手もいない癖に。仲の良い同僚からは揃って欠席の連絡と共に、「御愁傷様」などと言われる始末。お陰でこうして同じテーブルの誰とも喋らず一人ぼっちだ。
 ビュッフェ形式と言うからには、せめて食べて食べて飲んで飲んでしないと気が済まない。ちゃんとドレスを着て綺麗にして来てね、なんて上司に言われたが構うものか。その出で立ちに相応しくない、私の持つスイーツ山盛りのお皿を見て、すれ違う人たちは二度見して行く。
 私は大層不機嫌だった。納涼会への参加だけではない。あんな風に言った神宮寺先生は、当然だが囲まれる職員が絶えることはない。お陰で今日は未だに挨拶も出来ずじまいなのだ。恐らく、今日は声をかけることなど無理だろう。一人黙々と料理を食べて帰るだけな気がして来た。
 いや、思えば以前から他の職員と交流を図るために参加したことなど一度もない。全て止むを得ず参加したものばかりだ。けれど今回ばかりはどうしてもイライラしていた。遠くでエライ外科部長と談笑する神宮寺先生は、きっと私が長いこと恨みがましく見つめていることなど気付いていない。外科部長が去るや否や、今度は若くてきゃぴきゃぴした事務や看護師の子たちが、こぞって若い先生たちに媚びを売りに行く。ああほら、また可愛らしい看護師が何人かとつるんで神宮寺先生に近寄って行く。彼女たちの眩しさには私なんかは霞んでしまうのも当然で、きっと神宮寺先生は私を見付けてすらいないことだろう。

(きもちわる……)

 悪酔いではない、別の要因で何かが込み上げて来るような感覚。私は何杯目かの薄い安物のお酒を飲んだグラスをテーブルに置き、バッグを掴んで会場を出た。会場内だってしっかりクーラーは効いているはずなのに、やはり熱気のせいかどこかむしむしとしていた。賑やかな会場の喧騒も遠退く吹き抜けのロビーまで出てくると、ようやくほっとした。赤い上質なソファに座って数度深呼吸をすれば、さっきまでの気持ち悪い吐き気はなんとか収まったようだ。
 きっと神宮寺先生とは話せないだろうし、このまま帰ってしまいたい。少しだけ浮かれて、柄にもなくお洒落なんてして来てしまったけれど、そもそも見せられるはずがなかったのだ。先生と関わるようになってから、過剰に期待をしてしまう。結局、神宮寺先生だって思わせ振りで、その気にさせていただけだ。そう言い聞かせないと今日の私があまりにも虚しいし惨めではないか。
 帰りの電車を調べようとバッグから携帯を取り出した時だった。ふと、頭上から影が降って来る。ああ、まさか、そんな都合の良いことがあるはずない、きっとホテルのスタッフが顔色の悪さを気にして声をかけに来てくれたんだ―――そう思いつつ、けれどなんとなく予感しながらゆっくりと顔を上げれば、そこには待ち望んだ人がいた。

「探したよ」
「…忘れられたかと。楽しそうにしていらっしゃったので」
「まさか。疲れただけさ」

 そう言って私に手を差し出す。まさか、あの会場に戻れとでも言うのだろうか。私が手を取るのを渋っていると、あろうことか彼の方が膝をついて私の手を握る。なんて贅沢だろう。いつもと違いしっかりとスーツを着た先生こそ、普段と雰囲気がまるで違い、心臓がどきどきと鳴って止まない。

「君の姿を見てほっとしたよ」
「どういうことですか」
「君だけはいつもと変わらないからね。こういう場はなかなか、媚びを売りに来る人間を振り払えない」
「あの神宮寺先生もそんなこと仰るのですね」
「からかうのは止してくれないか」

 本音半分、皮肉半分だった。つまり、神宮寺先生の言ったことは大きな間違いだ。分かって言っているのかも知れないが。
 会場の騒々しさが嘘のように、ロビーは静かだ。名前も知らない穏やかなクラシック音楽が流れているだけで、チェックインで人がごった返しているということもない。時折ホテルのスタッフが通っていくけれど、さすがに彼らは二人きりで留まっている私たちに目もくれなかった。それを良いことに、神宮寺先生は重ねた手を何度も撫でる。それがなんだか堪らない気分になって、居心地悪さを覚えた私は目を逸らした。
 こうして膝をつかれると、先生に膝の手当てをしてもらった夜を思い出す。最悪なコンタクトだったあの日だ。けれど、私と先生の全ての始まりでもある。

「一つ嘘をついてしまったよ」
「なんですか?」
さんがいつもと変わらないなんて」
「それは、どういう……」
「とても綺麗だ」

 このままどこかへ連れて行ってしまいたいね、と穏やかな笑みを湛えながら物騒な言葉を呟いた。先生らしくない物言いにどきりとする。初めてそこに、先生の人並みな欲を見た気がして。
 大分お酒の入った私は、判断力が鈍る。思考もいつもより格段に低下している。だから口が滑ったって仕方がない。神宮寺先生だって、お酒は飲んでいないけどあの空気に何かあてられたのかも知れない。だから、どう返事をしたって許される気がした。

「どこへ連れて行ってくれるんです?」
さんが行きたい所ならどこへでも」

 きっとそれは誇張でもなんでもなく、今なら本当にどんな我儘も聞いてもらえるような気がした。困らせるようなことは言えないけれど、大抵のことなら。
 私の手を引いて先生が立ち上がる。続いて、履き慣れていない高いヒールで私も立ち上がると、反動でふらつく私の体を支えるべく、先生の大きな手が腰に回る。私なんてすっぽりと隠してしまう高い背丈に感謝して、軽く目を閉じた。

「先生と綺麗な夜景が見たいな」
「それで機嫌を直してくれるかい」
「そんなのもう、とっくに直ってます、先生も、そう、か、かっこいいですし」

 意地を張ってそう返せば、可笑しそうに肩を震わせる。こんな子どもじみた態度すら、かわいいと言って許してくれる先生には、きっといつまでも勝てる気がしない。
 それじゃあ行こうか、と言うといよいよエントランスへ私の足を促す。ロビーには二人分の足音だけが軽快に響いた。