夜の内科外来には、出るという。何が、と訊くのは野暮だろう。ここが病院ならば、出ると言えば言わずもがなだ。特に夏はこの手の話を皆好む。私は半分どうでもいいと思いながら、外来の補助に入っていた。後ろから聞こえる看護師達の噂話は大抵他愛ないが、時折自称霊感のあるという看護師がどこそこが出る、どこそこで見たなどということを言い触らしている。

「内科の五番、夜はやばいわよ」
「って言っても、私たちは日勤だけだから関係ないけどねえ」

 昼間とはいえ、その内科五番のバックヤードで言わなくても良いではないか。まさに今、内科五番では神宮寺先生が外来をしている所なのに。本人に聞こえてはいないのだろうかと気にかけながら、私は新たに回されて来た書類を捌いていた。
 霊感あるなしや信じる信じないは別として、やはり夜の病院というのは不気味なものだ。私も月に何度かは夜勤に入るのに、そういう話はやめて欲しい。当該スタッフの霊感の真偽は定かではないけれど、そんな話を聞くとどうしても意識してしまう。明後日の夜勤が憂鬱になりながら溜め息をついた。そこへ、午前中の外来を終えた神宮寺先生が裏へ顔を出す。

さん、今日は外来かい」
「はい、欠勤が出たそうで。これ、午前中の分です」
「頼りにされているね」
「都合よく使われているだけですよ。」
「でも事実、私は助かっている」

 そう言って、私の代理入力した診断書や指示書一式を受け取った。一枚、二枚、捲りながら上から下へと視線が動く。

「そういえば」

 全ての書類に目を通し、私に戻しながら先生は口を開いた。相変わらず、話を繋げて引き留めるのが好きらしい。休憩時間だって長くないのだから、こんな所ではなく休憩室で一息ついて来ればいいのに。私もこの書類たちに早く印鑑を捺して医事課に投げてしまいたい。

「ここに通院していた佐々木さん、亡くなったようだ。先程ご家族が来られたよ」
「え……?」

 佐々木さんというのは、神宮寺先生の患者で、長くこの病院に通院していた高齢の女性だ。私が受付をしていた頃、まるで孫のように可愛がってくれていた。外来の受付を離れてからも受診の日には私も外来に顔を出すようにしていたくらいだ。最近見かけないと思っていたが、いつの間にか入院し、息を引き取ったらしい。外来で色々と意地悪されていた頃、励ましてくれたのも彼女だった。
 突然の知らせにどう反応すればいいのか分からず、「そうですか」とだけ続ける。身近な人が亡くなったことのない私が、初めて遭遇する誰かの死だった。病院職員とはいえ、今や総務で事務仕事ばかりしている私は、患者と関わることもほぼなくなり、ますます疎遠になっていた。だから、そんな私が悲しむというのは何か違う気がして。

「すまない、言わない方が良かったかな」
「あ、いえ…そうではなくて」
さんは特に親しくしていたようだったから、と思ったのだけれど」
「そうですね…」

 あまり特定の個人と親しくすることは望ましくないけれど、家族と離れて暮らしていたという彼女は、どこか寂しそうで、少しでも話し相手になれないかと思ったのだ。それもまだ新人だった頃の話だ。
 知らないよりは、知った方がよかったと思う。神宮寺先生でなければ教えてもくれなかっただろう。私が佐々木さんと親しくしていたことを覚えているというのも、先生以外では有り得なかった。確か一度二度ほどしか先生の外来で補助業務をしたことなんてないのに、流石としか言いようがない。
 なんだかまだ現実味がない。その場に立ち会ったわけでもない、こうして人から伝え聞くだけの訃報なんて、本当に現実味のないものらしい。

「佐々木さんはさんのことを心配していたよ」
「私を?」
「いい子だから幸せになるよう言っておいてくれといつも言われていた」
「…………」
「けれど、さんがそれを重い言葉だと感じる内は言わない方が良い気がしてね」

 どこか自分は幸せになってはいけないと思っていただろう。苦笑しながらそう続けた先生は、私の肩にぽんと手を置く。

「あまり自分を縛らない方がいい」
「もう、癖みたいなものですから」

 自嘲気味に笑うと、先生は眉間の皺を深くする。どうせ困らせるばかりなのだから、先生もいい加減放っておいてくれれば良いのに。あらゆる患者が、スタッフが、神様と拝むかの神宮寺寂雷先生。その彼がこんな惨めな女一人に実はいつまでも拘っているなんて、きっと誰もが面白くないだろう。神様のような人間が、必死にこんな底辺女を捕まえようなんて、そんな人間くさい所を見たいとは誰も思わない。神様には神様でいて欲しいと願うものだ。人というのはあまりに勝手に期待を抱き過ぎる。
 本当は、佐々木さんの死だって悲しいのは先生の方のはずだ。入院後も主治医のはずだし、私にそんな佐々木さんの遺言のような言葉を伝えるより、もっと思うことはあったのではないか。私は確かに可愛がってもらっていたけれど、先生はあんなにも信頼されていた。長く通院していたなら、それなりの付き合いもあるわけで、思い入れもあったのではないか。

(それとも……)

 さすが医者というべきか、ただ一人の患者の死を引きずったりはしないのだろうか。いくら神様でも。…とんでもない皮肉だ。

「佐々木さんは…」
「うん」
「先生にも、同じことを思っていたんじゃないでしょうか」
「優しいご婦人だったね」

 否定も肯定もしない先生は、先程よりは表情が穏やかだ。

「じゃあ今度聞いてみようか」
「………え?」
「出るんだろう、内科の五番」
「えっ、いや、」
さんは信じる方かな、そういう話」

 せっかく気を遣ったというのに、神宮寺先生はすっかり人をからかうモードに入ってしまったらしい。何がそんなにツボに入ったのか、先生はおかしそうに笑う。どうもはぐらかされた気がしてならない。
 私などより先生の方が彼女に心配されていそうなものだが。人の心配はする癖に、こちらからは決して暴かせてはくれない。そんなだから、人は過剰に先生を崇拝なんてしてしまうのだ。実はバックヤードの看護師たちの噂話にまでしっかりと耳をそばだてているというのに。誰も知りたがらないのだろうか、そんな先生の一面など。ただひたすらに患者に尽くす素晴らしい医者としての面だけを求められること、その重責は私になんて想像もできない。先生が私を理解できないように。
 近過ぎれば同族嫌悪が生まれるけれど、離れ過ぎれば理解できず摩擦が生まれてしまいそうだ。それとも、そんな人間にこそ興味が湧くのだろうか。好奇心のひとつとして。

「別に、怖くないですから」
「へえ」
「内科五番なら、きっと先生にお礼を言いたい人ばかりでしょうから」

 半分皮肉を込めて、けれど何も考えずに言った言葉。なのに、それを聞いた先生はどこか寂しそうに笑いながら「さんは優しいね」と言う。それを見た私には、この人は決して神様なんかには見えなかった。