悪く言われることなら慣れている。消えろとか、死ねとか、そういった直接的な言葉よりももっと酷い言葉を受けることは日常茶飯事だった。そういう星の元に生まれたのだと思っていたし、それだけのことをしている自覚もあった。段々と麻痺して来る心が、それらに対して悲しいとか辛いとかいう感情を産まなくなっただけだ。最近は、優しくされる方が酷いと思うようにすらなっていた。
 先日、街中で私を助けた神宮寺先生は、あれ以来何かと私を気にかけてくれているようだった。私とは違って忙しいだろうに、私を見かけると声をかけてくれる。それに応じない理由はなく、多少の世間話をすることはある。けれど、周りがそれをよく思わないらしい。聞こえて来るのは、“なんであんな女が”という蔑みの言葉だった。

「で、珍しく悩んでいるわけ」
「こう…罪悪感がなんとなく……後ろめたさというか」
「ま、もう怪我も良くなったんだしそこまで気にされてもね」
「そう、なんだけど……」

 もごもごと歯切れの悪い返事をしてしまうと、ケーキを突いていた友人はその手を止めてちらりと私を見た。そして「珍しい」と目を丸くする。

「何が」
「これまで、男に執着なんてしなかったじゃない」
「執着って…そんなつもりじゃ」
「罪悪感も後ろめたさもなかったわけでしょ」
「なんかすごい悪い女みたい」
「悪い女でしょ?私もも」

 確かにそうだ。類は友を呼ぶとはよく言ったもので、修羅場を巡った数は私も彼女も同じくらいだ。この間のような罵詈雑言も慣れている。それが、今更何か引っ掛かる。決して神宮寺先生は蔑視することはなかったけれど、先生の想像の及ばないような世界が私の日常なのだ。綺麗だった頃には戻れないし、それを願うことすら今更なのだけれど、ふとあの夜の神宮寺先生の言葉を思い出す度に、ひたひたと後悔が擦り寄って来る。自分を清いまま保たなかったことを、こんなにも罪悪に感じたことはない。

が、もし神宮寺先生を思い出して胸が痛むなら、もうこれ以上はやめときなよ」
「……うん」

 どうせ出口のないトンネルだと諦めていたのに、光を探して歩くことを望み始めている。あの日、差し出された手によって。
 いつもの下らない修羅場報告会になるはずの休日が、なんだかすっきりしない時間となってしまった。いつも通り、あんなことを言われただの、こんなことを言われただの、別れただの新しい男ができただの、そういうなんでもない話をするはずだったのに。
 彼女は否定も肯定もしないけれど、抜け出すのは容易ではないと言う。それは私もよく分かっていた。とっかえひっかえをやめることが、ではなく、過去の行いによって貼られたレッテルを剥ぐことが、だ。だから今、職場でも後ろ指を指されている。簡単に周囲の環境も変えられることができたなら、何も迷いはしないのだ。私への評価は一朝一夕で変わるものではない。それによって、先生まで巻き込んで不評を買うなんて、私には耐えられない。
 最後に一口飲んだカフェラテは、もう味も分からなかった。













 ロッカーやデスクに嫌がらせをされるほど子どもじみた人間はいないけれど、こそこそと噂話をされたりというのは、当然ある。特に、院内で神宮寺先生に話しかけられた時なんかはそれが顕著だった。次は先生を狙っているんですって、身の程知らずが―――恐らく先生の耳にも入っているであろう囁き声が、私を一歩後退りさせた。

さん?」
「は、はい」
「ごめん、忙しかったかな」
「いえ、大丈夫です。復命書ですね、提出しておきます」

 医局の前を通ると、総務課に持って行って欲しいと書類を頼まれてしまった。他の医師たちからも頼まれることはあるし、私以外にも頼まれている人はいるけれど、今の私が神宮寺先生に個人的に頼まれるというのは、あまりにタイミングが悪かった。とはいえ、先生たちも忙しい。引き受けない訳にも行かず、私は書類を受け取る。大きな茶封筒に入ったそれを取り出し、印鑑の確認をしてまた戻す。大丈夫です、それでは、と言って元来た道を戻ろうとした。けれど、そんな私の手を神宮寺先生は掴んだ。何か困っているかい、と言って。私は努めて平常心で「いえ、なにも」と答える。けれど益々訝しげな表情をされてしまった。

「怪我の方は」
「先生、それこの間も聞かれましたよ」
「結構ざっくりと切れていたからね。痕になっていないかな」
「あまり、気にしませんから……」

 早く会話を切り上げたい私に反して、どうにも先生は引き留めようと必死のようだった。もう何度も繰り返された問答を、また繰り返す。同じことを答えて去ろうとするのに、握った手首をなかなか離してくれない。こんな所、誰かに目撃される前に早く部署に戻りたいのに。私一人が悪く言われるくらいどうということはない。私といることで先生まで悪く言われてしまう。…いや、本音を言うと私を貶める言葉を先生の耳に入れたくなかった。わたしの耳に入って来るくらいなら耐えられる。それくらいのことはもう何年も続いているのだから。けれど、事実無根の噂まで先生が聞いてしまうことは、先生が信じる信じない関係なく、どうしても嫌だった。身から出た錆だ、どうにもならないことなのに。

さん」
「何でしょうか」
「またゆっくり話がしたい」
「また、って……」

 願ってもないことだ。あの日以来、私は先生に惹かれていて、それは抗いようのない事実だった。そうでなければこんな風に自分の所業を悔いることだってしなかっただろう。そんな彼からの誘いに、嬉しく思わない訳がない。なのに、周りの目が気になって即答できない。

「院外でまで患者の世話する必要はもうありませんよ」
さん、そういうつもりじゃない」
「もう、本当に大丈夫ですから」
「そういう人ほど大丈夫じゃない場面を何度も見て来たんだ」
「私は違います!」

 その手を振り払うと、神宮寺先生は驚いた顔をしていた。それもそうだ、あの日、振りほどかないで欲しいと願ったのは私のはずなのに。今にも死にそうな顔をして最後は縋りついた癖に、都合よく切り離すなんて、私だってもう何度も何度もして来たことだ。
 神宮寺先生と言葉を交わすだけで襲い来る後ろめたさは、きっと彼には理解できない。これまで、求められれば応じたし、受け入れて来たけれど、それは相手も同じだけ汚れていたからだ。先生は違う。聖職者の手を汚すのは、他でもない私になってしまう。きっとそんなことは許されない。
 それでも先生は引き下がらなかった。そうか、と言って背中を向けてどこかへ行ってくれれば良かったのに、そんなことはしてくれない。一歩、距離を取ったはずなのに、また詰め寄られる。もうこれ以上優しくなんてされたくないのに、ため息の一つすらついてくれない。それが一層、私の根っこの部分を抉っていくようだった。掛けられたことのない私を慮る言葉は、熱傷のように心を引き攣らせる。

「あれ以来、君を忘れられないのは私の方なんだ」

 じくじくと痛む傷口。もうすっかり治ったはずなのに、手当てしてもらった両膝が酷く痛む気がした。まるで骨まで疼くようで、その痛みに動けなくなる。

「患者、と言ってしまったのが悪かったね。さんのあんな現場を見たのは、あの日が初めてじゃなかったんだ」
「え……?」
「もっと前にも、びしょ濡れで帰って行く所を見たことがある。ただあの日は私も当直で…急患の対応をしていて、さんに声をかけられなかったことを悔いていたんだ」

 見間違いでは、と言おうとしたが、私にもはっきり覚えがあり、咄嗟に否定する言葉が出て来なかった。職場でびしょ濡れになって帰ったことは、一度しかない。ヒステリックな声と共に頭からペットボトル一本分の水をかぶったのだ。当時は医事課で受付業務をしていたが、多数の患者にも目撃されてしまったため、あれ以来ますます風当たりも強くなり、総務課へと異動となったのだった。
 まさかあれを目撃されていたなんて。ぶつけられた汚い言葉もきっと知っているのだろうと思うと、もう何も言うことができなかった。ただ、ますます先生の隣になんて立てないことを思い知らされる。先生のそれは、ただの同情だ。惨めな思いをしている女を憐れに思っているだけ。先生は優しい人だから、高潔な人だから、私の中で渦巻く真っ黒い気持ちも後ろ暗い過去も、想像だけで推し量ることはできない。だとしたら、自ら身を引かないと、いっそ幻滅されるような振る舞いをしないと。理解の及ばない気持ちを分かってくれなんて言えない。先生は知らなくていいことだ

「お願いです、もう関わらないで下さい」
「それはできない」
「なんで」
「それを、こんな大人に言わせるかな」
「き、聞きたくない…っ」
さん」

 耳を塞ぐと共に、封筒がひらりと舞って床に落ちる。そんな私の両手をそっと握って、耳から離した。私よりもずっと背の高い先生が、身を屈めて私の顔を覗き込もうとする。首を振って拒絶すれば、苦笑いして追い詰めるように口を開く。

「じゃあ、聞いてくれるまで待つことにするよ」

 そうして、何事もなかったかのように手を離すと、落ちた封筒を拾って医局に戻ってしまった。無機質な真っ白いドアは、言葉とは裏腹に返答を拒否しているように見えて、立ち尽くすしかなかった。きっとこの世で誰よりも優しい彼は、同じだけの毒を以って杭を残して行ってしまった。心臓が酷く痛い。
 待つって、一体いつまで。気まぐれならそんな言葉は要らない。それならいっそ、今言ってくれた方が良かった。そうすれば、すぐに突っぱねて私はあなたの思っているような人間じゃないって言うことができた。もっと相応しい人がいると、私は報われるためにあなたに惹かれた訳ではないと。これまでだって、深手を負う前にそうやって自分の被虐性に助けられて来たはずだ。それさえさせてくれない人。

「こんなの望んでない……」

 あの日、足を流れる血の感覚が蘇って来る気さえした。私の傷口に優しく触れた、先生の手の温度までも。けれど、爪が食い込むほど手を握り締めた所で、血の一滴も出ることはなかった。