体に悪くてもやめられないものがあるように、駄目だと分かっていてもやめられないものがある。

「死ねブス!!」

 ばしゃん。甲高い女の声と共に突き飛ばされて、頭上から降って来たのはしっかりと色のついたコーヒーだった。アイスコーヒーだったのが不幸中の幸いだ。良くも悪くもこういう修羅場には慣れている私は、最早通り過ぎる人たちが色んな目で見て行くのは慣れていた。好奇心、同情、軽蔑、様々な色を含んだ視線が私の全身に突き刺さる。夜でも賑やかな街の真ん中では、一部始終は丸見えも同然だった。
 反省も後悔もしないから繰り返すのだが、学習しない訳ではない。これはもう一種の病気のようなもので、学習できないのだった。…こっちの方がタチが悪いか。

(あー…クリーニングで落ちないかな……)

 せっかくの休日、おろしたてのコーラルピンクのブラウスはコーヒーが染みて無残なことになっていた。ぽたぽたと髪から滴るコーヒーがまだその染みを増やして行く。いつまでもここで尻もちをついていても仕方ない。思った以上の力で突き飛ばされたせいで衝撃が強かったが、立ち上がって確認してみるとどうやら服は破れていないらしい。が、アスファルトに打ち付けられた衝撃であちこち擦過傷だらけだった。その中でも一際、膝が痛い。特にずきずきと痛む右の膝を見下ろせば、自分でも驚くほど重傷だった。ざっくりと切れた膝からはまだ血が流れ出ている。家まではまだ遠く、こんな格好で薬局に寄るのも億劫だ。もちろん、電車に乗って帰ることも。月末で財布が寂しいというのに、タクシーを拾うしかないらしい。
 ああもう、災難だ。大きな溜め息をつくと、後ろから「さん」と声をかけられる。振り返ってみると、よく知った人物が立っていて思わず「あっ」と声が漏れる。

「あ、じゃないでしょう」
「もしかして、見られてました?」
「見ようと思ったわけではないのだけれど」

 そう気まずそうに言う神宮寺先生は、私の膝をちらりと見て眉根を寄せた。医者という職業柄、しかも同じ職場の人間が怪我をしていたら見逃すことはできないのだろう。

さん、まだ家は遠いのでは」
「あー…ですね……」
「車を回して来ます。ここで待っているように」
「いや、あの」
「いいですね」
「…………はい」

 あの温和な神宮寺先生が有無を言わさない口調で念を押して来る。断ろうとしたが遮られ、待つほかなかった。やがて五分ほど待つと、すぐ脇の車道に車が停まり、また「さん」と呼ばれる。助手席に促されたが、今の自分の格好を思い出して気が引ける。シートが汚れることを懸念して断ろうとしたが、「早く」とやや強引な先生は、きっとそんなことを考えてもいないのだろう。恐らくもう引けないであろうことを察した私は、申し訳ない気持ちで車に乗り込んだ。

さん」
「はい」
「こういうことは、よくあるのかい」
「ええ、まあ。私、不倫相手には持って来いみたいなので」
「…………」

 聞きづらそうな先生に反して、しれっと答える。“こういうこと”には修羅場に至る原因も含まれていることは察することができた。私だって子どもじゃない。否定なんてする気もないし隠しても仕方ないことだ。それに、相手の女性があれだけ怒るようなことを、実際私はしている自覚がある。頬を叩かれたこと、突き飛ばされたこと、水をぶっかけられたこと、死ねと言われたこと、どれももう何回されたか分からないくらいだ。それでもなお、やめられなかった。
 先生のような真面目な人からは想像の及ばない世界だろうけど、私みたいな人間はうちの職場にだってある程度いる。類は友を呼ぶとはよく言ったもので、私の周りも男関係で難のない友人はほぼいない。今更、清廉潔白、純真無垢な女になんてなれっこないのだ。
 それきり、先生も困ったのか口を閉ざしてしまった。流れて来るラジオは交通情報と天気予報を順番に流している。その情報通り、混み始めた道では車も少しずつしか進まない。肘をついて眺めた窓の外は目に眩しい街の光が並ぶ。今更ぶっかけられたコーヒーで冷えてくしゃみをすると、「これでも羽織っていなさい」と先生のジャケットを手渡された。

「汚れますよ」
「構わないよ。さんが風邪を引く方が大事じゃないかな」
「別に、それこそ構いませんけど」
「もっと自分を大切にしなさい」
「……今更ですよ」

 思いの外、冷たい声が出たと思う。車の窓に映った外を見る私の顔は皮肉を浮かべて歪んでいる。
 私だって、最初からこんな風に歪だった訳ではない。私にも汚れを知らない少女の頃があって、けれどどこかで何かを間違えた。先生のように気高い志を持つような大人には育たなかった。真っ白なままの大人になれないなんて夢にも見なかった頃は、確かにあったはずなのに。きっと、先生のような人間からすれば私は大層救いようのない馬鹿なのだろう。侮蔑、軽蔑、あらゆる蔑みの言葉を以てしても足りないような、そんな人間だ。真逆の世界にいる私は、こんな風にプライベートで先生と相見えるなんて本来ならばあるはずがなかった。あまつさえ、こうして助けられる資格もないほどに。
 何を言っても無駄だと悟ったのか、それ以上先生は私を窘めることも諭すこともしなかった。無言の車内に流れるFMラジオは、この重苦しい空気などお構いなしにDJの明るい声を流し続ける。同様に、どこに向かっているのかも分からないが、流れる景色を無感動のまま眺めていた。やがて職場から随分と離れた郊外にまで辿り着くと、広い駐車場を構えるドラッグストアに辿りついた。ちょっと待っていて下さい、と言い残し、一人その店内へと彼は消えて行く。目的は大方察しはついているが、ここまで来てしまうと車から逃げるのも面倒な気がして、言われるがまま大人しく車内で待つ。私が消えて車上荒らしに遭ってもさすがに後味が悪い。

「お待たせしました」
「いえ」
「足を出して。酷い裂傷だっただろう」
「どうしてこんなこと……」
「怪我人を放ってはおけないからね」

 万に一つの他意も含まないその言葉に、私は根負けして助手席から足だけ出した。あの神宮寺先生を跪かせ手当てをさせるなんて、良い身分も過ぎる。もう血は止まっているものの、足首まで流れて固まった血が傷の大きさを物語っていた。ドラッグストアと車内の光を頼りに、慣れた手つきで手際よく手当てを進める彼は、私を哀れに思いこそすれ、蔑視もせず、愚かだとも思っていないようだった。あんなにも痛かった傷口も、まるで痛みなど感じないようだ。染みるはずの消毒液が何の感覚も残さなかった。あの女に言われた言葉も、これまで吐かれた暴言の数々もまるで響かなくなってしまったように、物理的な疼痛にもいつか慣れてしまうのだろうか。

「痛むかい?」
「いえ、そんなに……」
「大きな痕にならないといいのだけれど」
「だから、どうして」
「今、さんは私の患者だからだよ」

 それは、まるで幼い子どもを諭すかのような口ぶり。私を見上げる双眸からは穏やかさ以外の何も感じられなかった。私を馬鹿にするような濁りは一つもない、普段先生が患者に接する時と同じ目をしている。別にどこも痛くないです、と尚も抵抗してみたところで意味などない。強がっても、それすら見透かされるような視線に、居た堪れなくなって両手をぐっと握り締める。
 最後に、大きなガーゼをテープで止めると、もう一度先生は私を見た。

「だから、あまり心配させないで欲しい」
「神宮寺先生には、関係のないことです」
「悲しいことを言わないでくれ、ここまで関わっておいて見て見ぬふりはできないよ」
「私、この身体以外何も持っていませんよ。それとも最初からそのつもりですか?このまま持ち帰りますか?それでこれまでの人たちと同じように…」
さん」

 ひやりとした手が頬に触れる。私の言葉を遮った声は、決して怒気を孕んでいるものではなく、ひたすら静かな呼びかけだった。私の強がりの言葉の羅列なんて、その一息で制止されてしまった。けれど確かに、それ以上は聞きたくないという感情も見え隠れする。ちらつく私情が、騙されるものかという私の心をちりちりと刺激する。

「泣かないで下さい」
「泣いてなんかない……」
「君の本心はきっとずっと前から乖離していたはずだよ」

 行動に心が伴って行かなかっただろう、と続ける。言われている意味が分からなかった。私でもいつからか蓋をしていた気持ちの奥を暴かれて、一瞬混乱する。
 やりたくてやっていたことではないけれど、やめようとも思わなかったこと。こんなはずでは、と思いながらも仕方ないと諦めていたこと。どうしようもない現実に、自分を騙して言い聞かせていたこと。こういう人間なのだと自分に自分でレッテルを貼ってからは、もう気付かないようにしていた。気付いてしまえば、始まりから全てを後悔してしまう。その無意味さに泣きたくならないように、愚かな女でいようとした。誰かに求められる反面、その何倍もの憎悪を向けられることも厭わなかった。誰かに求められている内は、まだどこか存在を許されている気がしたから。それが間違っていると分かっていながら、最初のきっかけすら忘れてしまう程に後ろ暗い経験を重ねて行った。
 本当は、こんなことをできる人間ではないことを、私が一番分かっていたはずなのに、それを認めてあげなかったのも私だ。まともに話すのなんて初めてのはずの神宮寺先生にずばり言い当てられて、脆弱な部分を晒すのは酷く恥ずかしい。

「何もかも今更です」
「そんなことはない」
「だってもう、綺麗な身体には戻れないもの」
「けれど、心までは売り渡してはいないだろう。でなければ、そんな顔をするはずがない」

 くい、と先生の親指が目元を撫ぜる。すっかり乾いたはずなのに、頭の上から被ったコーヒーの忌まわしいにおいが鼻をついた。髪が揺れる度に苦いそれが喉の奥をも通って行く。
 コーヒーだけではない、代償にあらゆるものを被ったことがある。水だったことも、炭酸だったこともある。飲料だったらまだましで、お弁当を頭の上で開かれた時は流石に屈辱的だった。コーヒーのにおい一つで思い出す数々の出来事は、においと共に肺の奥に到達してむせそうになる。
 いっそ膝を消毒した薬品を代わりに頭から被ったら、洗い流せたら少しはすっきりするだろうか。愚行と呼ぶに相応しい過去のそれらを、なかったことにしてしまいたい。今、こんなにもこの人の目に映ることに羞恥心が湧いてやまない。高潔なその人の手が私なんかに触れることが耐え難い苦痛となって圧し掛かる。
 私が触れるべきではない人だということは分かっている。それでも、あんな現場で初めて私に声をかけてくれた人は神宮寺先生が初めてだった。放っておいてくれと思う裏側で、縋りたい気持ちでいっぱいだった。こんな生活に終止符を打ってくれる誰かが現れるのを、ずっと待っていたのかも知れない。

「もう、やめたい」
「そうだね」

 ぽつりと零した言葉を掬う先生の表情は、変わらず穏やかだ。細めた目元は、光が眩しかったのか、それとも笑っているのか。徐々に滲む視界ではそれもはっきりとは分からない。浅い呼吸ではもう言葉を続ける余裕もない。代わりに、爪が食い込むほど握り締めた両手を解き、震えながら私の頬に触れている彼の手に添える。じんわりと広がる安堵に目を瞑れば、さっきまでの真っ黒い感情も後ろ暗い気持ちが不安定さと中和されて行く。
 私から手を伸ばしてもそれは振り払われることはなく、この世に二人きりであるような錯覚にさえ陥った。