きよらかな終わり

「生まれ変わったら何になりたい?」

 お気に入りの紅茶を一口飲んで、さんは唐突に言った。紅茶の入ったカップの横には、日課である日記を綴った小さなノートも並べられている。薬の名前の入ったボールペンは、自分がいつだったか営業に来た薬剤メーカーの人間からもらったものだ。あまりに家に溢れていることを話すと、いくらでも使うから欲しい、と彼女は強請ったのだった。後生大事にするとでも言うかのように、インクの切れたボールペンさえ、彼女のペンケースには仕舞われている。
 そうだね、と相槌を打ち、一応思案してみるも、その素振りだけで、実際は何一つ思い浮かびやしなかった。そんな自分とは裏腹に、彼女は「私は何がいいかなあ」などと呑気に話を続ける。その視線の先には、春の花々が咲き誇り始めた庭がある。穏やかな春の日差しは日増しに強くなり、昼間は窓を閉め切っているとやや蒸し暑さすら感じるほどだ。

「まずは健康な体かな」
「ああ、それがいい」
「そうすれば、こんな暑い日だって、寒い日だって、あなたと離れず外だって歩けるわ」

 軽い口調で、けれど言葉には確かに切実なものが含まれている。そこにさんの本音を見た気がして、言葉を詰まらせてしまった。
 こういう時、医者としての知識も技術も経験も、何もかもが役に立たない。平静を装う術すら、白衣を脱いでしまえば失われてしまうようだ。
 可能な限り外の空気を感じられるようにと作られた大きな窓さえ、今のさんには一番近くて一番遠い外界への扉に他ならない。残酷な一枚のガラスの向こうを、それでも彼女はただ目を細めて眺めるだけ。文句の一つも言うことはないが、言葉の端々に見える欲求を一つとして叶えてやれない己の無力さばかりが募る。

「よかったの?」
「何が?」
「今日みたいな日は絶好の釣り日和でしょう。一二三さんたちからお誘いあったんじゃない?」
「ああ、いや……今の時期は波が高くていけない」
「そう」

 簡単に返事をすると、さんはまた紅茶を一口含む。あまり銘柄に詳しくない私が、店員に勧められるがまま買ったよく分からない紅茶さえ、彼女は至極美味しそうに飲む。拘りのある彼女からすれば、淹れ方さえ何か注文の一つや二つ言いたいだろうに、何も言わずに。
 さんの淹れてくれた紅茶は美味しかった。何が違うのか、同じ茶葉だと言うのに、確かに自分の淹れたそれとは違うのだ。最後に飲んだのはいつだったか、飲めなくなる日が来るとは思えなくて、有難いと思う気持ちすら欠いていた。当たり前のものなど、この世に何一つないというのに。
 あ、と声を上げた彼女に、思わず顔を上げると、庭の方を指差している。そこには、どここらか迷い込んだのか一匹の猫がいた。

「飼い猫かしら」
「かも知れないね、首輪をしている」
「帰るお家があるのね」
「ああ」
「羨ましいわ。もう私は帰れないから」
「……ああ」

 コンコン、とノックの音がして看護師が入って来る。もう薬の時間だっただろうか。彼女も不思議に思ったようで顔を見合わせると、その後ろにいたのは今まさに話題に出ていた独歩君と、しっかりとスーツを着た一二三君だった。突然すみません、と深々と頭を下げる独歩君に対し、看護師に礼を言うと気にすることなく病室に入って来た一二三君。その対比が可笑しかったのか、彼女はくすくすと笑って見せた。
 ともあれ、会話の展開に困惑していた私は安堵し、二人を招き入れた。二人にもお茶を入れるべく立ち上がると、「ここは自分が」と私でも分かる有名な紅茶のお店の袋を掲げる。それを見た彼女の目の色も一瞬で変わった。

「それ……!」
「流石ご存知でしたか。お客さんからの貰い物ですが、こういうのは皆で飲んだ方がずっと美味しい」
「一二三さんが淹れてくれるの?」
「お望みならば、プリンセス」
「ふふ、そうしてあげて。この人、なかなか淹れ方覚えてくれないのよ」
「そう言われると、参ったな…」

 デイルームのキッチンへ案内すべく、独歩君にさんを任せて部屋を出る。
 それぞれがここへ来ることは時々あったが、二人揃って訪問してくれるのは随分珍しいことだった。もっと言えば、三人で彼女に会ったことは数えるほどしかない。だからか、二人の顔を見た彼女は、ここ最近で一番元気のある表情をしている。声色もいつもよりどこか明るく、嬉しそうだ。二人が来てくれたことに、内心一層感謝をした。
 しかし、前回来た時よりも彼女が随分痩せたことに気付いた一二三君は、部屋を出た途端に神妙な顔をした。隠すわけにも行かず、キッチンへと移動してから「もう長くないだろうね」と打ち明けた。良くも悪くも、経験がそう言っている。日に日に食事も摂れなくなり、今や栄養はほとんど点滴頼りだ。一人では立ち上がることもできないし、苦しそうにすることも増え、それに比例するように薬の量も増えた。その薬が何の薬かも、増量されることが何を意味しているかも、十分過ぎるほどに分かる。彼女の体を侵す病が何であるか知った時から、こうなることは覚悟していた。…していたのに、いざとなると彼女に上手く笑いかけることができない。彼女はこんなにも笑顔を向けてくれると言うのに。

「駄目だね、後悔が湧いて出て来るばかりだ」
「結局、籍は」
「彼女に拒まれたよ」
「そう、ですか…」
「ウエディングドレスくらい、着させてあげたかったんだけど」

 彼女らしい気の遣い方だと思う。私を最後の女性にして欲しくない、と彼女は言ったのだ。自分のいない未来を見据えた言葉に、それ以上何も言うことができなかった。
 ただ善良であったさんの命が削られて行くことへのやるせなさ、無力感、それを顔に出さないことに毎日必死だ。不安や恐怖を感じているのは彼女の方なのだから。気丈に振る舞う彼女を見る程に胸が痛んでも、せめて彼女が穏やかに過ごせるよう、普段通りに接してやりたい。
 けれど、その全てを見透かしている彼女に、私ができることなど殆ど残っていない。熱心に日記を綴る彼女の傍で本を読む私は、時折彼女の横顔を盗み見ることがある。彼女も、その視線に気付いては私を振り返り微笑む。折れそうなほど細い体を抱き締めることすら、今や憚られてしまうのだ。

「彼女をこんなにも待たせるんじゃなかった」

 呟いた言葉は、病院の廊下に吸い込まれて消える。誰かに聞かせるつもりのなかった懺悔が、口にした途端、後悔となって伸し掛かる。病室の中からは、彼女の笑い声がドア越しに聞こえて来ていた。