涙で溶かしたダイヤモンド

「明日、デートしようか」

 朝九時半、仕事を終えて帰ろうとしたら遭遇した恋人に、唐突にそんなことを言われた。夜勤明けで見れたもんじゃない顔をしているのに、あろうことか出待ちというものをされていたのだ。職員用通路の壁に凭れた彼は、いつものように穏やかに笑み、私を見る。一瞬止まり、もう一度言われた言葉を頭の中で繰り返す。デート、デート、デート―――三回ほど舌の上で転がし、その単語を理解した途端、ぼんっ、と顔から火が出そうになった。まさか彼の口から出そうにない台詞に、もう恋人になり短いわけでもないのに恥ずかしくなった。

「予定があったかな?」
「なっ、ない!ないです!」
「そう、良かった」

 ほっとしたようににこりと笑い、それに釣られるも、一晩働いて酷い顔色をしている私の血色は良くなったままだ。
 今日寂雷さんは当直明けでなく普通の勤務だったはずだとか、もうそろそろ外来に行かなければならないのではとか、夜勤明けなりにいろいろ考えるけれど、改めて面と向かってそんなことを言われた動揺が響き、彼を仕事に促すことができない。
 長く交際していれば、当然デートなんて数えきれないほどしている。ランチに行ったり、ドライブに行ったり、映画を観たり、けれど、彼の口からストレートにその単語が出たことはなかったように思う。食事に行こうとか、水族館に行こうとか、具体的な目的を告げられていた。それゆえ今、デートというたった三文字の言葉の破壊力に困惑しているのだ。いや、その三文字を寂雷さんから告げられたことに。

「明日は家まで迎えに行くよ。最近、知り合いが出したお店があってね、ぜひ来てくれと言われているんだ」
「そ、うなんですね!楽しみにしてます!」
「十八時でいいかい」
「はい!」
「それじゃあ、気を付けて帰るんだよ」

 また明日、と言うと寂雷さんは院内へ戻って行く。…なんだかすごく変なテンションで返してしまったけれど、改まってこんな風に誘われるなんて、何かあるのだろうか。しかもディナーだなんて、これはもしや。

「最後の晩餐……?」
「レオナルド・ダ・ヴィンチがどうしたの」
「うわっ」

 振り返ると、同じ夜勤だったらしい同僚の山野が、立ち止まって通路を塞いでいる私を迷惑そうに見ていた。寂雷さんが去って行った方向から来たということは、彼とすれ違ったということではないだろうか。私と彼のこれまでの成り行きも全て知っている彼女は、大袈裟に溜め息をついてみせた。

「あんたさ、別に疚しいことはなくても恋人とあんまり職場でイチャイチャするんじゃないわよ」
「…………」
「どうしたの」
「…別れ話があるかも知れない」

 はあ?と声を裏返してリアクションをされるものの、事はかなり深刻だ。世間では、別れ話の前には良い思い出を作って綺麗に別れようという作戦を実行するカップルがいるらしい。もしかして、今回はそのケースなのかも知れない。こんな朝の職員用通路で寂雷さんが待ち構えていたことも、デートなんて言葉を使って明日の約束を取り付けたことも、全て明日別れ話をするための布石なのではないだろうか。そう思うと、今度は急に血の気が引いて行く。ときめいて動揺している場合でも、赤面している場合でもなかった。明日、どんな顔で彼に会えばいいのか分からない。別れを告げられた時のことを考えると、もう涙まで出て来てしまいそうだ。
 未だ山野は事態を呑み込めていないようだったが、夜勤明けの頭にはあまりにショッキングな出来事である。そんなわけないでしょうが、と私の背中を思い切り叩く彼女の力強さによろめいてしまう。その後、何か色々とフォローするようなことを言ってくれていたが、何一つ頭に入って来なかった。



***



 翌日、予定通り十八時に寂雷さんは迎えに来てくれた。悲しい気持ちをぐっと堪えて、何度も涙を目に浮かべたせいで、アイメイクがいつものように上手く行っていない。お陰でより一層、寂雷さんに会うのが億劫になってしまっていた。恐らく、こんなに暗ければ誰も気には留めないのだろうが。
 車内で寂雷さんはいろいろな話をしてくれた。察しのいい彼は、私がいつものようには元気がないことにきっと気付いている。私がいつものように上手く喋れないから、気を遣ってくれているのかも知れない。それなのに、その優しさがますます胸に痛い。

「前から店に来てくれと言われていたから、ようやく行けることになって彼も喜んでいるよ」
「あ…そうだったんですね。…どういう、お知合いですか?」
「学会で知り合った先生の息子さんなんだ」
「先生たちは出会いが多いですもんね」
「…さん?」

 しまった、今の言葉は棘があり過ぎた。思いの外低い声が出てしまい、かなりの皮肉に聞こえたはずだ。とうとう、不思議に思ったのか寂雷さんが路肩に車を停める。

さん、今日は元気がないけれど、何かあったのかい」
「いえ、別に、何も……」
「何もない、という顔はしていないね」

 困ったとでも言うように、小さく息を吐く寂雷さん。遂に、我慢していた涙がぽたりと零れて、まだ新しいワンピースに染みを作る。寂雷さんもどうすればいいのか分からないのだろう、泣きじゃくる私の背をさすってくれるけれど、それ以上の言葉は何もない。私も、浮かび上がっては消える不安を上手く説明できそうになかった。
 昨日の寂雷さんの言動を、素直に喜べる可愛げのある女だったらよかった。同僚が帰り際に言ってくれたとおり、本当に彼の発言に深い意味はなくて、私を驚かせたかっただけなのかも知れない。先生だっていつもと違うことをしてみたくなったんでしょ、という彼女のフォローを受け入れればよかった。今日を、純粋に楽しみに待てたら良かったのに。到底この人から別れ話なんて出そうにないのに、それでも万が一の可能性が消えなくて、そのたった一つが大きな不安となって私に圧し掛かって来る。

「行き先を変えようか」
「でも…」
「いいんだ。これじゃあ料理も楽しめないからね」

 私の涙を大きな手で拭うと、スマートフォンを取り出してお店にキャンセルの電話を入れた。申し訳なさと情けなさと、いろんな感情がない交ぜになって溢れて来る。

「代わりに、さんの好きな場所へ行こうか」
「え……?」

 きっとすぐ分かるよ、と言うと、寂雷さんはもう一度車を動かし始める。メイクも何もあったものじゃない顔になってしまったところで、ようやくバッグからハンカチを取り出して目元を軽く押さえた。
 すぐ分かると言われたとおり、少し車を走らせれば、見慣れた道へと出る。いつも彼が連れて来てくれる場所だ。煌めくレインボーブリッジを渡っていると、これまでドライブでここへ連れて来てもらったことを思い出す。いつだって寂雷さんとのドライブは楽しくて、他愛もない会話で盛り上がって、もちろんその一つ一つを詳細に覚えている訳ではないけれど、今でも初めてここへ連れて来てもらった日のことはよく覚えている。あの日は、受験の日や合否発表の日よりも緊張していて、私は会話も行動も全てがぎこちなかった。私は絶対にあの日、告白すると決めていて、食事の味がしないどころか、口の中がカラカラに乾いて口にするもの全てを上手く飲み込むことができなかった。そんな私を彼は笑わなかったし、愛しく思うとさえ言ってくれた。彼のことを疑った訳ではない。ただ、悪い方向ばかり私が考えてしまうのだ。
 やがて首都高を降りると、彼がどこに向かっているのか最終目的地が理解できた。慣れたハンドルさばきで駐車して、車から下りるよう私を促す。

「こっちだよ」

 私の手を引いて歩いてくれる後ろ姿には、まさかこれから別れを切り出そうなんて様子は微塵も感じられない。ただ、何を急いでいるのか、いつもより早足の寂雷さんについて行くだけで私は必死だ。怒っているでも何でもなくて、けれど何を考えているのか見当もつかない。そうして、引っ張られるがままに連れて来られた先は、大きな観覧車だった。有無を言わさず二人分の観覧車チケットを寂雷さんは購入すると、スタッフさんに誘導され、無言のまま色鮮やかなゴンドラに二人して乗り込んだ。否が応でも向かい合わせになると、「困ったね」とようやく寂雷さんは呟いた。重い症例の患者に当たった時のように、深刻な表情で。

「君をそこまで悩ませるとは思っていなかった」
「え……?」
「昨日、山野さんから話は聞いたよ。他意はなかったんだ、本当に」
「それは…その……」

 話、と言えば昨日の帰り際の一件に他ならない。思い出してなんとか弁解しようと思ったが、やはり言葉なんて何一つ出て来なかった。ただ、寂雷さんにそんな悲しそうな顔をさせているのが私だと思うと、ぎゅうっと心臓が掴まれたようだった。そんな顔をさせたいわけじゃない。本当なら、こうしてデートだと言って誘われたことは飛び跳ねるほど嬉しかった。時々こちらが恥ずかしくなるほどの仕掛けをしてくれる人だから、今回だって山野の言った通り深い意味はなかったのだろうし、寂雷さんの言う通り他意はなかったのだろう。邪推してしまった私が、きっと全て悪いのだ。楽しくなるはずだった今日が、こんなことになってしまったのも。
 ゆっくりと頂上を目指す観覧車の中は、まだ冷える夜風が隙間から入り込み、びゅうびゅうと音が鳴っている。会話が止まってしまった狭いゴンドラの中では、それ以外の音が消える。その代わりに寂雷さんの後ろには、東京湾とビルの明かりが広がっていて、ゆっくりとモノレールが走って行くのも確認することができた。やがて、頂上が近付くにつれて、ビルに阻まれていたレインボーブリッジが顔を出す。昼間では決して見ることのできない光が眼下に広がり、その暗さは幾分か私の心を落ち着かせてくれるようだった。
それでも未だ気まずさと緊張で張り詰めた空間で、先に沈黙を破ったのは、当然寂雷さんの方だ。

「…ごめんねさん、他意がなかったわけじゃない」
「どういう、ことですか…?」
「三十五年も生きて来て、まだこんなに覚悟の要ることがあるのかと思ったよ」

 私の隣にゆっくりと移動すると、寂雷さんは自身のコートの左ポケットに手を突っ込み、ごそごそと何かを探っている。空いた右手で私の左手を握ると、広げた手のひらの上に小さな箱を置いた。リボンの巻かれた四角い箱は、誰がどう見てもジュエリーショップのもの。大きさからしても、その中身は察するに余りある。思わず手が震えた。心拍数が分かりやすく上昇して行く。私は、渡された小箱から彼へと視線を移した。すると、優しく笑って「開けてみてくれないか」と言われる。漫画のように震えた手でリボンを解き、ゆっくりと蓋を開ける。そこには、予想通りのものが入っていた。

「ゆびわ……」

 恋人になって以来、一度ももらったことがなかったものだ。別に期待したわけではないけれど、誕生日も、クリスマスも、指輪だけはもらったことがなかった。私から欲しいというのもなんだか違う気がして、本当は周りの友人たちが羨ましくても言うことができなかった。まだ、その時ではないのだと自分に言い聞かせて。
 そんな、もうずっと願って来たものが今、手のひらの上に置かれている。夢ではないのかと、きらりと光る指輪をじっと見つめて、そっと取り出す。色んな角度から眺めて、触れて、それから寂雷さんをもう一度見る。彼のあまりに優しい表情に、今度はまた違う涙が溢れて来そうだ。ありがとうとか、嬉しいとか、そんな単純な言葉さえ、この人は私から奪ってしまう。幸せが込み上げて言葉にならないことがこの世にはあるのだと、初めて知った。まだ信じられない気持ちでじっと寂雷さんを見つめていると、私の手に同じく彼の手が添えられた。

「貸してごらん」

 そう言って、一度指輪を私から取り上げると、今度は左の薬指にゆっくりとはめる。どきどきしながら根元まで収められるのを待っていたが、サイズはぴったりだ。寂雷さんの手が離れると、指輪のはめられた左手を宙に翳してみた。暗いゴンドラの中では、夜景の光だけが、まだ馴染まないそれを照らしてくれている。きらりと控えめに光る金属が、途端に愛しく思えた。ぎゅっと左手を右手で包んで、胸元で握り締める。

さん」
「…はい」
「私と結婚して欲しい」

 散々な日にしてしまったのに、どうしてこの人はこんなにも私を愛してくれるのだろう。今日だけではない、きっとこれまでだって、普通ならば呆れられるような、愛想を尽かされてしまうようなことをたくさんして来た。私はすぐに疑心暗鬼にもなってしまうし、今日みたいに悪い方へばかり考えてしまう。いつだって与えられてばかりで、この人に何を与えることができただろう。もっと相応しい人だっているはずだ、私でなくても。それなのに、なぜ。
 すると、私の聞きたいことが分かったのか、寂雷さんは私の頬を撫でながら言葉を続ける。

「いつでも私に寄り添ってくれる所、一緒にいると心が穏やかになれる所、自分にも人にも決して嘘をつかない所…さんを尊敬する所は山ほどある。そんなさんと、生きて行きたいと思ったんだ」
「そんなこと…だって、今日だって……」
「さすがに今日のことはびっくりしたけどね、あまりに飛躍していて」
「すみません…」

 寂雷さんはおかしそうにくすくすと笑う。私なんかよりも、今日こんな態度を取ってしまったにも拘らず、そうやって笑って許してくれる寂雷さんの方が、よほど尊敬できる。今日なんて、一緒にいて心穏やかなんかではなかっただろうし、嘘をつかないというよりもつけないだけだ。なんでもかんでもすぐ表情に出てしまうから、いつだって困らせてしまう。けれどそれすら愛しいと、目の前にいる恋人は言ってくれる。もう、一生分の幸せを今、浴びているのではないだろうか。都合のいい夢の真っ最中なのではないだろうか。

「もう一回言うよ。結婚して欲しい、
「…喜んで」

 ゆっくりと彼の顔が近付き、唇が重なる。その感触は紛れもなく現実で、これは夢なんかではないのだと実感できる。左手に絡められた指が、ゆっくりと薬指をなぞってから、私の小さな手をすっぽりと包んでしまう。この温度だって、決して嘘ではない。世界一優しくて温かいこの人と、私も生きて行きたい。
 また嬉し涙が頬を伝った時、気が付けば観覧車はちょうど頂上に到着した所だった。