泣かないきみがわるい

「男なんてのはさあ、結局仕事デキる女が気に喰わないのよ」

 何杯目かのアルコールを飲み干して、私はバーカウンターで一つ席を空けて座る隣の男に噛みついた。苦笑いだけで返す彼は、さっきから私に絡まれて逃げられないようだった。男相手に男の愚痴なんて、とは思うけれど、今日はそうも言っていられないほどに私は荒れていた。そもそも、仕事の愚痴などではなかったのだ。

「男の私に言われてもね……」
「分かってるわよ!」

 ぎゃんぎゃん叫んで、「同じのお願いします!」とカウンターのお兄さんに声をかけた。言ってることとやっていることが我ながら滅茶苦茶である。理性も記憶も失うほど酔ってはいないが、普段は言わないような文句がぽんぽん出て来るのは、間違いなく煽ったアルコールのせいだった。ここでカシオレやらピーチフィズやら飲んでいるのなら、まだ少しは可愛げがあったのだろうが、生憎そういった可愛らしい女性ではない、私は。目の前に置かれた梅酒のロックは、いつも飲むものより少し度数が高く、既に五杯は軽く飲んでいた。
 さて、隣の男性は元々私と約束をしていた相手ではない。偶然ここで居合わせただけの初対面だ。けれど、私はこの有名人をもちろん知っている。なんとなくの人となりも、メディアを通して存じていた。

さん、そろそろ飲み過ぎじゃないかな」
「なんで私の名前知ってるんですか…」
「さっき自分で言っていたよ」
「ふうん……」
「すみません、彼女もうストップで」
「ちょっと!」

 私に断りなく、彼はお兄さんに声をかけた。店側としても私が潰れて動けなくなっては困る。ほっとした様子でお兄さんは彼に「かしこまりました」なんて言って見せる。不貞腐れて、最後の一杯となってしまった梅酒に口を付ける。
 もうかれこれ二時間、隣にいる彼―――神宮寺寂雷は私の話を聞かされていた。今日は本当に不幸というか、不運な日だった。昨日までのそれなりに平和だった日々は、ほんの数時間前、いきなり引っ繰り返されたのだ。この、金曜の夜に。
 今朝、体調が悪いから今夜の約束は無理だと恋人から連絡が入った。それなら、と仕事を定時で終わらせて、薬局やスーパーで必要なものを買い込んだ私は、急いで彼の部屋に向かった。しかしそこにいたのは、決して風邪で熱を出した彼ではなく、浮気相手とまさしくヨロシクやっている彼だったのだ。
 こういう時って、もっと怒るとか、悲しいとか、何かしら感情が湧いて来るものだと思っていた。涙の一粒でもぽろりと零れるものだと思っていた。けれど、私は所謂“可愛げのない女”で、そのどの一つも起こらなかったのだ。驚くほどに感情が揺れ動かなかった。「その人がいるなら私は要らないね」という台詞が詰まることなくすらすらと出て来て、さよなら、とまで言ってあの部屋を後にした。買い込んだあれこれは、ここに来る途中、またスーパーのごみ箱に全て突っ込んで。

「自分より賢くても駄目、自分より口が立っても駄目、目まんまるくして“えぇ~やだぁ~”とか言ってカシオレちびちび飲んでる女がいいのよぉ……」
「随分と偏った意見だね」
「でも大多数の意見ですよ、どうせ。名医のあなただって?自分より仕事のできる女医が出て来たらどうだか?」
さん、そろそろ本当にやめなさい。あなたの名誉に関わる問題ですよ」
「……怒ってます?」
「多くの男性と一緒くたにされたことにね」

 意外、怒るんですね。カウンターに突っ伏して、ぽつりとこぼす。そりゃ怒ることもありますよ、と上から声が降って来る。ああ、この声好きだな、と思って顔を横に向ければ、グラスに口をつけた神宮寺寂雷は、私の視線に気付いてこちらを向く。そして、また彼は苦笑いをした。
 目の前にいる彼は、メディアや噂に聞く通りの人物だ。私がこれだけお酒を飲んで絡んでいても、口で言うほど怒った様子を見せない。普通であれば面倒臭いと放り出すか、さっさと持ち帰りそうなものなのに、そのどちらも彼の行動には当てはまらない。真面目に、律儀に、私の話に付き合ってくれている。

「神宮寺さんは、どんな女性がお好きなんですか?」
「また話題が飛んだものだね。なぜ?」
「なんとなくです。想像つかなくて、隣にいる女性がどんなか」
「それは…恋人がいなさそうということかい?」
「世間の神宮寺寂雷って、…まあ、そうね、そういう感じでしょ、患者様最優先で」
「君が思うほど博愛な人間ではないつもりだよ」
「ふうん……お医者様も色々あるんですね」

 意味深な言葉と、何か含みのある表情で、私の問いに一つ一つ答えて行く。その中に、嘘があるようには思えなかった。誤魔化すこともしない彼の言葉は、信用のできるものばかりだ。
 からん、と軽い音を立てて、空になったグラスの中の氷が動く。最後の一杯も飲み干してしまった。そこへ、気を利かせたバーテンのお兄さんは代わりに水の入ったコップを差し出てくれる。いい感じに回ったアルコールで熱くなる頬にコップを当てれば、今更怒りで興奮してしまった頭まで、すっと冷えて行くようだった。
 こうやって、彼の前でも怒れたら良かったのに。いつだってそう、感情を表現すればいい所でぐっと抑えてしまうから、可愛げがないと言われ続けているのだ。仕事でクレームを受けたって、注意をされたって、ミスをしたって、決して泣くことはして来なかった。それが社会人としては当然だと思っているし、泣いたってどうにもならない。けれど、きちんと謝罪をすれば、頭を下げれば、「可愛くない」と一蹴される始末。ただ、女だと言うだけで。
いくら女性の権利や尊厳が主張され、法律で守られるようになっても、営業という男性の多い課では、昨日今日で皆の意識が変わるわけがない。私は未だ、肩身も狭いし、居心地も悪いし、生きにくさを感じている。

「みんな勝手ですよ、面倒臭い女が嫌いな癖に、結局面倒臭い女が好きなんだから」
「ああ…分かる気がするな」
「…やっぱり神宮寺さんも、」
「違うからね」

 ぴしゃりと私の言葉を遮るように言い放つ。そろそろ彼も、私に対して遠慮が無くなって来たらしい。
 先ほどから彼が飲んでいるのはずっとノンアルコールだ。なんでまたお酒を飲まない癖にこんな所にいるのかは知らないが、素面でこんな酔っ払い女の相手をしてくれるなんて、否定したもののやっぱり面倒臭い女が好きなのではないだろうか。どちらにしろ、今日この場に彼がいなければ、私の怒りは行き場を失っていた。ありがたいなあ、なんて思うと共に、素の出て来たらしい彼の横顔を見て、ふと笑いが込み上げて来た。

「ふふっ」
「どうしたんだい」
「私、テレビや雑誌で見る神宮寺寂雷より、今のあなたの方が好感持てます」
「…君も奇特だね」
「変わってる自覚は、あるんです」
「そういう意味じゃないよ」
「優しいですね」
「よく言われるよ」
「皮肉じゃないですよ?」
「ああ」

 会話のテンポが心地いい。無理に合わせるでもなく、合わせてもらっているわけでもなく、背伸びをするわけでも、下げるわけでもない。同じ階段で話ができていると感じる。短い応酬の中に、彼の本音も見え隠れするようで、きっとこの人もどこか生き辛い所があるんだろうなあ、と、その背中に影を見た気がした。私とは責任の重さの違う仕事をしている彼の抱えるものなど、私には想像もできないけれど。
 神宮寺さんに愛される女性は幸せだろうな、と思う。きっとどこまでも向き合ってくれるし、納得の行くまで共に話をしてくれる。嘘もつかないし、誤魔化すこともはぐらかすこともしないのだろう。ほんの二時間ちょっとしか話していないけれど、そういう人となりは十分に理解できた。とは言え、相変わらず彼の隣に立つ女性は想像もできないけれど。…というか、誰か女性が隣に、と思うと、なんだか胃の底がむかむかする気がした。悪酔いしたわけではなく。
 水を一口含み、喉元を通り過ぎる頃に、何度目か、神宮寺さんの方を見ると、また目が合って彼が優しく笑む。こんな自棄酒女を前にして、決して馬鹿にすることをしない彼は、やはり名医という肩書きに相応しい人格を持っていると思う。それが彼の本意でないにしろ。

「…泣けたら、良かったんですけど」
「でも、それは君ではないんだろう」
「でも今、なんだか猛烈に可愛げのある女になりたいんです、生まれて初めて」
「そうかい」
「ねえ、あなたは、仕事のできる女や賢い女や口の立つ女は嫌い?」
「嫌いじゃないよ」
「そう」
「可愛げがないと言われる女性もね」

 唇が弧を描いて、窺うように彼の二つの瞳が私の瞳を射る。その瞬間、どきりと心臓が跳ねる。
 ここで、彼の言葉の意味を深読みしない女なんていないだろう。私でなくても、確信したはずだ。これは、自意識過剰なんかではないと。けれど、戸惑いと動揺で目を逸らした私は、既に空になったコップを弄び、返答に迷った。いつもは、その辺の男より弁も立つつもりだ。けれど、肝心な今、彼に返す上手い言葉が見つからない。きっと彼は気を利かせてくれたのだから、こちらも何か、ウィットに富んだ返答をしなければならないはず。お酒が入っているなんて理由ではない、単に、心がときめいて浮かれてしまっている。誤魔化すように、前髪をくしゃりと撫でつけた。その間もまだ、彼からの視線を感じる。

「けれど、さん。君は、君が思っているよりずっと可愛らしい女性だよ」
「な、なに、それ」
「君は私が出会って来た中で最も聡い女性だ」
「それは…どうも……」
「気付いているかい?付け込もうとしているんだよ」
「それは、何となく……」

 私の返答がどんどんしどろもどろになるのに比例して、神宮寺さんはどんどん愉快そうな顔になる。さっきからじわじわと浴びせされる言葉のせいで、いつも以上に飲んだはずなのに、やけに頭が冴えている。そんな頭には既に、今日起こった不幸も不運もない。アルコールと共に簡単に抜けて行ってしまったようだ。代わりに私を悩ませる隣の男性は、とうとう手を伸ばしてコップを握り締める私の手に自身のそれを重ねた。

「今度はお酒なしでゆっくり話そうか、さん」
「…………」
「返事を聞かせて欲しい」
「…恋人と別れたその日に、新たに恋をするような女で良ければ」
「願ってもないことだね」

 ただ誰でもいいわけじゃないよ、と再度付け足し、手が離れて行く。それを惜しいと思ってしまった。高鳴る心臓を押さえることができない。誤魔化しようのない、これは恋愛の始まりを意味していた。