行き止まりの行く末

 仕事のない休日は、気付けば彼と過ごすことが多くなっていた。特に何をするでもない、お互いの家でゆっくり過ごしたり、外に食事に行ったり、少し遠くまでドライブに連れて行ってくれたり。彼の与えてくれる時間はいつも穏やかで、忙しなく過ごす平日を全て忘れてリセットできる、幸せに満ちたものだった。
 それを手放すことが惜しくないはずがない。誰もが羨むような恋人を持ち、幸せの絶頂にも思えた。けれど、彼と過ごせば過ごすほど、聞こえて来る雑音に息苦しくなって行った。その雑音に惑わされないようにと思いながら、それら妬みや嫉みは納得できるものもあって、段々と私が彼の手を取っていることは間違いなのではないかと思い始めた。
 私は、嘘をつくのが昔から上手かった。悪い嘘ではない、誰かの気を悪くさせないよう、空気を読んだ嘘だ。可愛げがないと言われるまで、それが悪いことだとも気付かずにいたのだ。

 ディナーを終えて彼の車まで戻る途中、繋がれた手をするりと抜け出し、私はついに別れを切り出した。街灯の下に、吐き出された息が白く映る。外気に触れた頬は、内側からもどんどん冷えて行くようだ。
 これまで、争いごとが嫌いで、上手く空気を読んで上手く嘘を使って切り抜けて来た私。だから今回もきっと上手く行く、上手く行かなかったことがないのだから―――そんな確信は、けれど目の前の恋人によって打ち砕かれた。

「誰に言わされている?」

 返された言葉の意味が理解できず、私は数度、瞬きをした。誰に言わされているでもない、自分の言葉を伝えただけなのに、それを疑われたのは初めてだ。やがて、言葉に詰まった私の肩を掴むと、焦ったような、いや、必死とでも言うような様子で私を問い質し始める。気圧された私はますます何をどう説明すればいいか分からなくなり、思わず身体を押し返した。

「わ、わたしが言ったの」
「本当のことを言うんだ」
「嘘も本当もないわ」
、君がそんなことを言うはずがない」

 それでも尚、頑なに私の言葉を認めようとしてくれない。私の目を見るんだ、と被せて言われるが、顔を見てしまえば決心が揺るぎそうな気がして、どうしてもできなかった。

「別れてくれなんて、嘘だろう」

 自分の言った言葉を繰り返され、私は奥歯をぎり、と噛んだ。
 それを言うのは簡単なことだった。自分の本意でないことを言うのは慣れている。それが私のためではなくても、私以外の大多数のためとなるなら、平気で押し殺すことができた。何の取り柄もない私が唯一できることと言えば、それくらいだったのだ。
 そもそも、私の彼とでは最初から不釣り合いだった。選ばれないことが常だった私が、初めて手を取られた人。だから少し舞い上がり過ぎていたのだ。周りの目は、いつだって好奇に満ちていた。彼の言葉も気持ちも疑ったことは一度だってないけれど、きっとこれ以上は誰かが黙っていない。誰、と特定している訳ではないけれど、いつだって向けられる視線は「なんであんな子が」だ。私に後ろめたい過去なんて一つもないはずなのに。

「それが本当にの言葉だったら私も何も言わない。けれど違うだろう、君の本心はそこじゃない」
「そんなこと、どうしてあなたに分かるの」
「分かるよ、のことだから」
「嘘よ」
「嘘をついているのは君の方だ」

 きっとこの世には私よりもっとずっと彼に相応しい女性がいて、誰にも笑われない、文句のつけようのない“似合いの二人”が在るはずなのだ。私という存在がその邪魔をしてはいけないと思ったし、何より私が限界だった。
 私だって彼を誰よりも大切に思っている。これからの将来を考えたことだってある。けれどその時ふと、自分が何も持っていない人間であることに気付くのだ。大きな何かを持っている人の隣に立つには、同じように人とは違う何かを持っていなければ、あまりに滑稽である。私ができるのは、せいぜい身を引くことくらいだった。自分の身の丈に合った世界に戻るだけ。こんなにも愛されて、こんなにも贅沢な時間を過ごしたことはない。けれどそれらは全て私には過ぎた愛情でしかない。

「君の考えていることは私には分かる。何に悩んでいるかも」
「寂雷さん、だったら、」
「私が君にいて欲しいんだ」

 埒が明かないと思った。手離して欲しい私、手離したくない彼。きっとこのまま話し続けても平行線で、答えなど出ない。きっと、本当に私の自分本位な気持ちで別れたいのであれば、寂雷さんは別れを受け入れただろう。けれど、まだ私の気持ちが残っているのに、周りの視線を受けて別れるだなんて、寂雷さんは認めてはくれない。この人は、そういう人の目は決して気にしない人なのだ。だから、私みたいな何の取り柄のない女でも傍に置いてくれた。いつだって優しくしてくれたし、私を思ってくれた。
 とうとう言葉を詰まらせた私を、寂雷さんは正面から抱き締めてくれた。その瞬間、堪えていた涙が溢れ出す。

「罰が当たってしまいます…」
「なぜ」
「私なんかに、あなたがそんなに優しくして、」
「この世に過ぎた愛情なんてあるものか」

 いつだったか、そう寂雷さん自身にも言ったことがあった。あの言葉を、彼は覚えていたのだ。私の使った言葉を使って、私を否定する。それはあまりにも、柔らかく甘い棘。私を窘める彼は、いつだって優しい。
 かつてされたことのないような強い力で私を抱き締めて離さない。呼吸さえ苦しくなるほど、力加減などない腕だった。私の指先も凍るように冷たかったはずなのに、温度をじわじわと取り戻して行く。彼に応えるように、ぎこちなく腕を背中に回せば、よく知った髪の感触が指の間を通って行く。今日でもう、触れるのは最後にしようとしていたのに、こんなにも優しくされると、彼を傷付けてまで別れるなんてできなくなる。

(ああ、そっか……)

 彼と出会ってから、いつだって私の一番は彼だった。彼がいなければ生きて行けない、なんて病的な依存をしている訳ではないけれど、確かに生活の真ん中には彼がいた。それを今更、なくすことなんてできるだろうか。何より、彼を悲しませることも、傷付けることもしたくなかったはずなのに。過酷な仕事をしている彼には、せめて職場を離れた時くらいは穏やかに過ごして欲しい。そう願っていた私が、彼にこんな悲しい顔をさせてしまうなんて、あまりにも浅はかだ。この人を裏切るなんて、最初から私にできるはずがなかった。
 すっかり深夜に差し掛かった時間では、もう人通りもまばらだ。私たちの他に、通り過ぎる人などいなかった。尤も、彼に覆われて塞がれた視界では、周囲の景色など見えるはずもなく、耳からの情報も彼の声のみだ。
 ずっとこうしていられたらいいのに、と思った。そうすれば、私も人目を気にすることなんてないのに。けれど現実はそうは行かず、聞きたくないことばかりが耳に入って来る。どれだけこの人が甘い言葉を私にくれようと。二人きりの世界なんて、この世には存在してくれない。

「多くの人が一線を引いてくる中で、だけが簡単に踏み込んで来てくれた」
「それ、は……」
だけが、私を本当に知ろうとしてくれたんだ」
「だって……だって私、あなたが、好きなんだもの……」

 彼の言葉に、あまりに素直にそう答えた。躊躇いもなく、呼吸するかのように出て来た言葉だった。好きなのだと、改めてそう伝えた瞬間、また涙が止まらなくなる。いい大人が泣きじゃくるなんて恥ずかしい。こんなにも泣くことなんて、最近はすっかりなかったのに。
 そんな私をようやく離すと、彼は顔を覗き込むように身を屈める。心の底まで見透かす色をした瞳で私を捉えると、ここが道端であることも構わず、そっと唇に触れた。

「私もが好きだよ」

 だから別れる理由なんてない、と言って優しく微笑む。どこまでも優しいこの人を、もう二度と悲しませたくない、悲しい顔なんてさせたくない。どんな彼でも知りたいと思うけれど、たとえ、それが見たことのない表情だったとしても。
 ごめんなさい、と呟いて、今度は私からそっと口づける。触れた頬は、私と同じように冷たかった。