吐息と共に消えない夜

 吐く息が白い。指先が氷のように冷えた両手は、コートのポケットから出すのも辛いくらいだ。もうすぐ出て来るであろう待ち人に連絡をしようかと思ったけれど、スマホを取り出した所で、感覚のおかしくなっている指では上手くメールを打つことができなかった。諦めて、両手に息を吐く。
 早く来ないだろうか。どっと人の押し寄せる改札を何度も見渡しては、彼の姿を探す。まだ来ない。もう何度目か、電車が到着しては、また去って行く音を聞き流す。寒いのは私だけではないらしく、駅に来る人、駅から出て行く人たちは一様に身を縮こまらせて足早に通り過ぎて行く。ティッシュ配りのバイトの女の子は、唯一寒さをものともしないとでも言うように、元気な声を張り上げていた。
 まだまだ冬の寒さが本格化したばかりのこの時期に、もう二十分はこうして待っている。もうそろそろ、のはずなのだが。

さん……?」

 それは不意打ちだった。改札を背にした一瞬、後ろから降りかかって来たのは待ちくたびれた恋人の声。弾かれたように振り返ると、コートにマフラー、スーツケースという、予想通りの出で立ちで彼はそこにいた。ただ一つ、その表情が驚きとも呆れともとれる、複雑なものであったことは完全に予想外だ。

「寂雷さん!」
「どうしてここに」
「新幹線の時間を聞いていたから、ここに着くのはこれくらいかなって」
「それにしても……」

 こんなに寒いのに、とでも言いたそうだ。
 寂雷さんは今日まで三日間、年明け間もないというのに、出張で病院を離れていた。最近、その準備などで忙しくしていた寂雷さんとはあまり連絡を取れておらず、今日くらいはどうしても会いたかったのだ。出張の日程を聞いた時は酷く落ち込んだけれど、仕事を大切にしている彼を困らせるわけにはいかないと、何も言えずにいた。子どもじゃあるまいし、我儘なんて言えない。
 出張が終わってしまえば、出張さえ終わってしまえば―――そう思っていたけれど、存外彼の表情は険しいままだ。取り繕う訳ではないけれど、私は必死で言葉を探した。

「これからどこか行きたいって訳じゃないのよ?けど、そう、五分だけでも、顔が見たくて…」
「五分のためだけにここへ?こんなに手を冷たくして」
「手袋忘れて来ちゃって」
「全く……」
「……ごめんなさい」

 呆れた様子で溜め息をつく。そこまでされるとは思っていなくて、段々泣きたくなって来た。やっぱりちゃんと、事前に連絡を入れておけば良かったんだ。もしかしたら、これから一度彼は職場に寄るかも知れないのに。自分の浅はかさが嫌になる。けれどそれと共に、こんなに会いたかったのは私だけだったのだろうか、と悲しくなってしまった。

「風邪を引いたらどうするんだ。頬もこんなに冷たい」
「ひゃ…っ」

 突然私の頬に寂雷さんが触れる。ついさっきまで温かい電車の中にいた彼の手は、私ほど冷えていない。けれど、不意をつかれたその行為に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。ぎゅっと瞑ってしまった目をそっと開けると、今度は、呆れたような顔ではなく、心配そうに私を見下ろす彼の顔がそこにはあった。そして、徐に自分のマフラーを外すと、無造作にぐるぐると私に巻き付けた。しかも、スヌードの上から。

「言ってくれれば私から会いに行ったよ」
「え……?」
「寒がりのさんを真冬のこんな時間に出歩かせるなんて、したいはずないだろう」

 そう言って、最後にぎゅっと私の手を握る。けれど、思いもよらぬ言葉にどきりとしたのも束の間、ぐるぐる巻きのマフラーで殆ど鼻まで隠れてしまった私を見て、自分でしておきながら寂雷さんは笑った。けれど、さっきまでの態度が決して私に対して怒ったのではないと分かり、ほっとする。安心したら、それはそれで泣きたくなった。冬は、なんだか涙腺が緩いみたいだ。

「寂雷さんのためなら、きっと真夏でも同じことをしてました」
「私の言った意味が分かってないね、さん…」
「でも、今日、どうしても会いたかったんです、だって……」

 誕生日でしょう―――そう、いざ口にしようと思うと、なんだか気恥ずかしくて目を逸らす。しりすぼみになった言葉は、マフラーの下で消えてしまう。こんなにも寒いはずなのに、頬だけが熱くなった気がした。それを察した寂雷さんは、ようやく私がここまで来た意味を理解したようだった。

「もう手放しで喜ぶような日でもないのだけれど」
「私は何歳になったって嬉しい日です」
「そうだね。案外、嬉しいものだよ。今日こうして、さんが会いに来てくれたなんて」
「本当?」

 自分のことはいつも後回しの彼だから、今日もきっと、もしも私が忘れていたとしても、直接会いに来なかったとしても、別に咎められたりはしない。後日改めて、でも何も問題はなかっただろう。けれど、それでは私が嫌だった。私がどうしても今日会いたかったし、今日ちゃんと直接顔を見て言いたかった。たとえ、どれだけ夜遅くになろうとも。
 そして、なんとなく沈黙が訪れる。帰宅のピークも過ぎて、遅い時間に差し掛かると、さすがにこの駅も利用する人はまばらになる。私たちの立っているここだけが時間に置き去りにされたようで、夜の静けさが舞い降りて来たここだけが、なんだかずっと続きそうな気さえする。

「…こっちは、寒いですね」
「ああ、まだ暫くは」
「私の地元とは、違う」
「まだ慣れないかい?」
「んー…でも大丈夫です」

 どう、次の話へ移そうか、私は言葉に困った。頭が良いわけでもないのに、何か策略めいたこととか、その気にさせるとか、そんな術は持っていなくて、けれど、あまりにストレートに言うのはなんだか違う気がして。別に、初めてのことじゃないのに、今日だからなのか、久し振りだからなのか、お邪魔して良いですか、の一言がなかなか出ない。私がこうして困っていれば、いつもなら彼が先導してくれるはずなのに、どう考えても分かってやっているようにしか思えなかった。

「こんな寒い日に、寂雷さんは生まれたんですね」
「だから寒さに強いのかも知れないね、さんとは違って」
「私は寒いのも暑いのも嫌です」
「我儘だねえ」
「でも、寂雷さんと一緒なら、別です」

 また、電車が到着する。そして去って行く。その音が止むのを待って、私はようやく、私の方から寂雷さんのコートの袖を掴む。

「今から、行ってもいいですか」
「もちろんだよ」

 即答とも取れる彼の言葉に、やはり全て見透かされていたか、と恥ずかしくなってしまった。私の言いたいことは予想がついていて、返事さえも用意されていた。きっと一生、こんな風に私は隠し事も誤魔化すこともできないのだろう。
こんなに緊張したのは、好きだと伝えた時以来かも知れない。自分の心臓の音が、自分で聞こえそうだった。声も唇も震える。決して寒さに起因するものではないそれは、くらくらと眩暈が伴うようだ。
 そっと彼を見上げると、やっといつもどおりに優しく微笑んでいて、けれどますます心臓は喧しくなるばかり。高校生でもあるまいし、と自分に言い聞かせるけれど、彼を前にするとどんどん自分が思春期に戻って行ってしまうようだ。彼に相応しい女性になりたいのに。

「タクシー捕まえようか」
「は、はい」
「はは、変なさんだ」

 ここに来た時の勢いはどこへやら、すっかり大人しくなってしまった私に、寂雷さんは声を出して笑った。愉快そうで何よりだけれど、未だ緊張の続いている私にとっては笑い話ではない。まだ、肝心の言葉も言っていないのに、この調子ではタイミングを失ってしまいそうだ。もだもだしている内に、寂雷さんは私の手を引いてタクシー乗り場に向かう。今日はよく笑う寂雷さんの背中も、やはりどこか機嫌が良さそうである。だから、今だろうな、と思った。

「寂雷さん」
「うん」
「おめでとうございます、誕生日」

 ぴたりと足を止めて、私を振り返る。ガラガラ、というスーツケースを転がす音も当然、同じように止まった。

「ありがとう、さん」

 その寂雷さんの表情は、今日一番嬉しそうだ。つられて、私もへらりと笑う。今日、ここへ来たことは間違いなかったと、やっと証明される。もう随分昇った月の下で、私たちは笑い合った。