私の午睡が終わったら

 誰かに心配をかけることが嫌いだ。もちろん、誰かを心配させることが好きな人というのは少ないだろうけど。時折、悪意で以ってわざわざ心配させるようなことをする人もいるが、そういう種類の人間は大抵、どこか病んでいたりする。私はそういう癖(へき)もないため、恐らく多くの人間と同じように、人には心配をかけたくない。こと、恋人に対しては少しでも心配をかけたくなかった。私のことで煩わしい思いをさせたくなかったし、私と対峙している時くらい職業病から抜けて欲しいと思っていた。私は彼に何かをして欲しいのではなく、私が彼に何かをしたいのだ。それなのに、現実というのはあまり上手く行かない。

「貧血だね」
「…はい」
「無理しないように、と言ったはずだけれど」

 久し振りに休日が重なるからと、寂雷さんと約束をしていた日だった。映画でも見て、お茶でもして、特別なことは何もしなくていい、ただ休日の時間を共有したかっただけだ。欲張りを言った訳でもないのに、一体私が何をしたというのか。起きた時は何ともなかったはずの身体が異変を起こした。私のアパートまで迎えに来てくれた彼の車に向かう途中で、立ち眩みがして立てなくなってしまったのだ。恥ずかしいことに、彼の目の前だった。
 今日のためにここ一週間ほど仕事を詰め込んだせいだろうか。何も気にせず今日を迎えるために、もう少し先のはずの論文を昨日滑り込みで提出して来たのだ。昨日まで、結構無理をしてしまった。彼の言いつけを破って。そのせいか、私に降りかかって来る声は厳しい。

「寝不足だろう」
「はい……」
「今日の外出はなしだよ」
「そんな……、うっ……」
「ほら、掴まって」

 勢いよく顔を上げると、また世界が歪んでくらくらした。身体ごと傾きかけた私を支える寂雷さんは、呆れたとでも言わんばかりにため息をつく。思いきり怒られるよりも胸が痛んだ。
 そして、立ち上がれない私に負ぶさるように言う。アパートの前で座り込んでいては迷惑になってしまう。とはいえ、救急車を呼ぶほどの重病でもない。とりあえずは出て来たばかりの部屋に戻ることになった。
 ああ、そういえばテーブルに化粧品を広げたまま出て来てしまった。慌てて出て来たのが明白だ。あまりそういう所を彼には見られたくないのだけれど、隠していても欠点なんて遅かれ早かれ発覚したであろう。そんな些細なことよりも、とにかく今日の予定が全て白紙になってしまったことがあまりにもショックで、自分を責めるしかできなかった。他の誰が責めなくとも。
 一旦私をベッドに寝かせた彼は、改めて貧血症状を確認し始めた。こんなことを休日にまでさせたい訳じゃないのに。

「ごめんなさい」
「気にすることはないよ」
「違う、そうじゃないの」

 私に優しく笑う寂雷さんは、私が謝った本当の理由をきっと分かってはいない。外出がなしになったことではなくて、寂雷さんに仕事を忘れさせることができなかったことに対して謝ったのだ。恐らく、それだって自分では何とも思っていないのだろうけど。けれど、365日24時間医師でいる必要はないのだ。それが彼自身が選んだことで望んだことであっても、そんなことをしていたら、きっといつかどこかで息切れしてしまう。それこそ、そんな結果を望む人間なんていないはずだ。
 そう思ってくれる人間が、彼のすぐ近くにそうたくさんはいないことを、私は知っている。本当の彼を知っている人間なんて、そう多くないことも。

「寂雷さんは優しいわ」
「どうしたんだい、急に」
「だから心配になっちゃう」
が言えたことかい」
「言えることよ、じゅうぶん」

 眠った方が良い、と苦笑いしながら彼は言う。目を閉じるよう、そっとその大きな手のひらを翳される。けれど、その手を私はそっと退けた。
 時折、こういう人っていると思う。人にばかり尽くして、その癖自分の心配は決してさせてくれない人。それを人は自己犠牲というのかも知れない、けれど本人は微塵にもそんな風に思っていないのだ。気付いてあげられる誰かが傍にいなければ、と思うのは、私なんかが烏滸がましいだろうか。私のように平平凡凡な人間が彼と並んで歩いていることすら、と思うのに、あまつさえ心配させてくれだなんて。
 この人はよく、人間の体は思う程強くは作られてないと言うけれど、どこかそこから自分を除外しているような気がしてならない。私にとっては、その辺ですれ違う名前も知らない誰かも、目の前で私に愛を注いでくれる寂雷さんも、そして私もつくりに何の違いもないのだ。

「私なんかの心配をしてくれるの方が、よほど…」
「え?」
「いや、なんでもないよ」
「本当に?」
「ああ、だからひとまず眠って。そうしたらまた、話の続きをしよう」

 彼の手を払った私の手を、疎むことなく握ってくれる。優しさのみを孕んだその声で、途端に眠気が襲って来る。人に寝顔を晒すのは好きではないけれど、急に我慢できないほど眠い。私は寂雷さんの手を握り返すこともできないまま、瞼を閉じた。次に目を覚ました時に何を話そうかと、そんなことが頭を過ったけれど、それすら意識と共にふっと手放してしまったのだった。
 ただ、この人を手放してはいけないと強く思った。