下がらない微熱

 普段は甘えるなんてできない癖に、どうしようもなくなってから人を頼ってしまうのは私の悪い癖だった。残業が終わってみればとっくに日付は変わろうとしていて、ぎりぎり終電に乗り込み、自分の家とは反対方向へ向かう。駅からいくらか歩き、着いたのは恋人の部屋だった。それなりに深夜にも関わらず、オートロックのマンションの入り口で呼び出した私に、さほど驚いた様子はなかった。けれど、玄関で出迎えられると、彼はその顔に苦笑いを浮かべていた。困った、というよりは、こんな時間に駅から歩いてきた私に苦言を呈したそうである。

さん、今日は遅くなるって聞いていたから来ないかと」
「そのつもり、だったんだけど…」

 とりあえず上がって、という言葉に促されるがまま、一歩玄関の内側に入る。
 元々、今日はここに来るつもりだった。借りていた本も返したかったし、最近何かと忙しくて会うことができなかったのだ。けれど、割り込み業務に割り込み業務が重なり、結局仕事が終わってみればこんな時間。私は仕事の途中で抜けて、一度彼に連絡をしていた。今日は行けそうにない、と。そこからはもう、来られないつもりで仕事をしていたのに、終わってみると彼に会いたくて仕方なくなった。このまま一人の家に帰ってしまえば、疲れたぐちゃぐちゃの頭で明日の朝まで泣きはらしてしまいそうで。

「手を洗っておいで。その間に何か温かいものでも入れようか。それともお腹が空いていれば…」
「あんまり、空いてないかも」
「そう」

 すっかり位置関係を把握した部屋の中で、私は迷わず適当にバッグとコートを置くと、洗面所に向かう。鏡で対峙した自分の顔は、いくら残業終わりとはいえあまりに酷かった。もしかすると、最初に私の顔を見た彼が苦笑したのは、この疲弊した顔を見たからかも知れない。あまりマイナスな面は出さないようにしたいけれど、付き合いが長くなればなるほど隠すのは難しい。それに、どうせ隠した所でお見通しなのだ。だからと言って甘えたり頼ったりすることは苦手だから、彼も私がパンクしそうな時には察しながらも敢えてあからさまに甘やかしたりなどしないのだけれど。
 リビングに戻ろうとすると、彼はキッチンでお茶を淹れてくれていた。その香りはどこかで覚えがある。吸い寄せられるように近付くと、私に気付いて微笑む。こういう時が一番、甘やかされているな、と思う。

「前にさんが置いて行ったハーブティーだよ」
「どおりで…。まだ残っていたのね、飲んでくれて良かったのに」
「またさんが来た時のために残しておこうと思ってね」
「…飲む」

 らしいな、と思う。決して高価なものなんかじゃないし、彼も気に入っているようだったから置いて行ったものなのに。さんのために、と言われたことは一度や二度ではない。こんなにも尽くされる恋愛があって良いものかと、どこかで罰が当たってしまうのではないかと不安になるくらいだ。
 二人分のカップに満たされたハーブティー。立ったままでは行儀が悪いと、溢さないようリビングに運ぶ。ガラス製のローテーブルの上には、小難しい医学誌がいくつか乱雑に置かれていた。スペースを作るように横から彼がそれらを脇に避けるが、つい先ほどまで読んでいたのだろう、ペンも同様に何本か散らかっている。
 案外、こういう所があるのを見つけるのが、私は好きだった。まるで神か仏かのように患者から感謝を述べられる彼が、家ではこんなにも人間を出しているのが。その瞬間、私と同じ地上で生きる人間なのだと強く実感する。思わず小さく笑うと、「恥ずかしい所を見られてしまったね」などと言う。ああもう、たまらないな、と思った。ついさっきまで残業の疲れでどうにかなってしまいそうだったのに。

「それで、今日はまた随分残業が酷かったみたいだけど」
「…後輩の関わっていた件でトラブルがあって、その、補助…みたいな…私が教育担当してた子だから……」
「それは……お疲れ様だったね」
「でも、もういいの」
「そうかい?」
「うん、いいの」

 あなたが待っていてくれたから、と途中まで言って恥ずかしくなり、誤魔化すようにカップに口を付ける。そんな私の様子を見て、彼はくすりと笑う。

「寂雷さんこそ、こんな時間までまだ勉強?」
さんが来るような気がしたからね。待つついでだよ」
「そういうこと、すぐ言う」
「嘘を言っても仕方ないだろう」
「そうだけど……は、恥ずかしくないの」
「いや、全く?」

 まるで私をからかっているようだ。唇を尖らせるとおかしそうに笑った。
 自分は何かに秀でた人間ではないけれど、いつも気を張っている彼が、私といる時だけは良い意味で緩んでいる、と自信を持って言える。時折こんな風に子どもみたいなことをするなんて、職場の彼では考えられないのではないだろうか。
 微妙に空いている二人の隙間を埋まるべくじりじりと近寄って、やがてぴったりとくっつくと、彼はまたおかしそうに笑った。最早それに構わず凭れて、彼の淹れてくれたハーブティーに口を付ける。黙ってしまうと、彼はまるで当たり前のように髪を撫でてくれる。くすぐったいような、心地良いような気分になり、そっと目を閉じた。ハーブティーを飲んだからだけではない、これだけ密着していると体温が上がったような錯覚に陥る。すっかり冷えた夜の空気で、さっきまであんなにも寒かったのに、もう嘘みたいだ。

「ねえ、本当は今日、本を返しに来たのよ」
「今朝そう言ってたね」
「でももうだめ、あの鞄の所まででさえ動きたくない」
さん、こんな所で寝たら駄目だよ。それにほら、シャワーも」
「うー……」
「さすがにこんな脱力したさんを運ぶのは難しいのだけれど」
「分かってるわ……」

 彼は先に立ち上がると、ほら、と言って手を差し出す。そんなことしてくれなくても、一人で立ち上がれるのに。分かりやすいものではないとはいえ、この人はどこまで私を甘やかすつもりだろう。彼に触れるだけでこんなにも安心するということを分かってやっているのだろうか。
 ところが、その大きな手のひらに私の小さな手を重ねると、ぐいっと引っ張り上げられる。思いの外勢い良かったため、バランスを崩しかけると彼がしっかりと抱きとめてくれた。こんなドッキリってない。本当に転ぶかと思った私の心臓は一気に心拍数が上がってしまった。けれど、抗議の声を上げようと顔を上げた瞬間、その両手で顔を包まれる。

さん」
「な、に……」
「トラブルを起こしてしまった後輩って、男かい?」
「女の子、だけど……え、なに……?」

 唐突な質問に、思わず答えながら疑問符が浮かぶ。何か切実さを含んだ目をじっと見つめ返したけれど、やがて彼の手も視線も私から外れる。それと共に、気まずそうにふいっと顔を逸らした。

「いや、なんでもないよ」
「ね、ねえ、待って、今のって」
「ほらさん、早くお風呂入って来ないと先に寝てしまうよ」
「やだ、うそ、うそ」
さん、勘弁してくれ……」

 参ったとでも言うように額を抑える。
 これまで、彼はあまりそういうことを口にしなかった。私の思い込みでなければ、初めて彼が見せた嫉妬の言葉だった。私が照れるような場面ではないというのに、やや頬に赤みがさした彼を見ていると、何やら釣られてこちらまで顔が赤くなって来てしまう。独占欲や束縛と言った言葉からは対極にいるような彼だ、ほんの少しとはいえ、普段私の周りにいる男性を意識した言葉が出たことは、驚きという言葉だけでは表せない。もう少し気にしてくれればいいのに、なんて思ったことがあったけれど、そんな風に思う必要は全くなかった。多少なりとも、彼も気にしてくれていたらしい。また堪らない気持ちになりながら、照れる彼に抱き着く。

「寂雷さん、好きです」
「からかうんじゃない」
「からかってこんなこと言うもんですか」
「…そうだね、君は嘘はつかないから」

 やっぱり今日、無理をしてでもここに来て良かったんだ―――全身から伝わって来る体温があまりに優しいから、勝手にそんな風に思ってしまった。
 早く離れなければならないのに。明日は休みとはいえ、今日はお互い一日働いた身だ。私はまだシャワーも浴びていないし、その後だってドライヤーをしたり、色々と寝る前の準備があるのに。それなのに、こんなにも離れがたい。明日までこの部屋にいるのに、今から帰るわけでもないのに。絡めた手を解けないまま、ちらりと見た時計はもうすぐ二時を指そうとしていた。