はかり

 インターホンが鳴ったのは、日付も変わろうとしている頃だった。持ち帰りの仕事がひと段落したところだったが、生憎とここの所こんな時間に寝られたことがないので、まだもう少し仕事を進めようとしていた所だ。こんな時間にインターホンを鳴らすのは、不審者かひめるくんと相場が決まっている。九割九分後者だろうと予測してモニターを覗くと大当たりだった。
 一応私の部屋のロックナンバーは教えているものの、私の在宅中に開錠して入って来るようなひめるくんではない。けれど、驚いたのはひめるくんが来たことではなく、今日こんな時間にひめるくんが来たことだった。

「今日は来るはずないって思ったのに」
「そのつもりだったのですが」
「とりあえず入って、お茶入れるから」

 ドアの内側に入ると、帽子とサングラスを外す。その表情はやはりいつもよりも疲れて見えるけれど、私を見下ろす目元は優しい。

「きょ、今日、行けなくてごめんね」
「初日に来てくれたでしょう」
「…なんで知っているの」
「桜河から聞きました」

 最近、桜河くんは何でもかんでもひめるくんに喋り過ぎな気がする。彼との友人関係を思うと段々と頭が痛くなって来た。別に疚しいことではないのだけれど、わざわざひめるくんの耳に入れなくても良いようなことまで筒抜けなのである。
 リビングにひめるくんを通すと、もうすっかり定位置になったソファに座った。私は仕事をしていたので、甘いものを求めてホットチョコレートを作っていたのだが、食にも気を遣っているひめるくんは、こんな時間にカロリーお化けなんて飲まないだろうか。…悩んだのち、先日買ったばかりのレモングラスのハーブティーを入れた。片手にホットチョコレート、片手にハーブティーを持ってリビングに向かうと、その組み合わせにひめるくんは顔を歪める。

「仕事で糖分を欲するのは分かりますが、今何時だと思っているのですか、
「…日付が変わりましたね」
「信じられません」
「信じられなくても飲むの!」

 大分慣れはしたけれど、それでも頭を使う仕事というのは随分疲れる。毎日こういうことをしている訳ではないし、別にいいのだ。それに、ひめるくんにも飲めと強要している訳でもない。ただ、漂うその甘ったるい香りにまたひめるくんが顔を顰める。
 そんな小さな言い合いをしながら、面白くもない深夜番組をぼんやりと眺める。短い音楽番組に切り替わったかと思えば、オープニングで流れたのは今まさに私の隣にいるひめるくんの所属するCrazy:Bのライブに関するニュースだった。映像は、私も足を運んだ昨日の公演のものだ。
 何か、信じられないような気持ちになる。芸能界を辞めてなお、ひめるくんとこうして付き合いが続いていることに。随分と曖昧な、名前のつけようのない関係ではあるけれど。お互い今が大事な時期であることを分かっているから、決して一線を越えるようなことはしない。先日、桜河くんに「ある意味不健全」と言われたが、案外その通りなのかも知れない。

「…昨日、かっこよかったよ」

 映像がCrazy:Bから別のアーティストに切り替わったところで、感想を伝えた。普段はあまり言わないのだけれど。

「ありがとうございます」
「本当は明日も行きたかったんだけど」
「無理しないで下さい」
「あ、でも配信チケットは買ったよ」
「…、あなたはそこまでしてくれなくて良いんです」

 言いにくそうに、気まずそうにひめるくんはそう言う。いつもそうだ。ひめるくんは、私がCrazy:Bに関することでお金をかけることを酷く嫌がる。だから、いつもライブのチケットだってこっそり買うし、観に行く日も最近はあまり伝えないようにしている。CDも、DVDだって買っているけれど、ひめるくんには見つからない場所にしまってあるのだ。きっと欲しいと言えばひめるくんは仕事現場で配るためのCDの一枚や二枚、私に回してくれる。けれどそれじゃあ駄目なのだ。

「だって、他のファンの人たちに失礼でしょう」
「あなたは一介のファンとは違う」
「じゃあ迷惑?」

 そんなことひめるくんが思うはずないのに、私はわざと言った。口元に運びかけたカップをテーブルに戻して、ひめるくんは私に向き直る。まだ湯気の立つカップを持ったせいで熱を帯びた指先が、私の頬にそっと触れた。

「迷惑ならやめる」
「一度たりとも、そんなことは」
「じゃあ、なぜ?」
「それを言葉にするのは、とても難しいのですが」

 苦笑すると、今度は髪を梳く。ひめるくんの長い指の間を、私の髪がするするとすり抜けて行く。
 ひめるくんほどの頭脳の持ち主が言語化できないのだとしたら、私には到底できそうにない。どれだけ時間が早かろうと遅かろうとこの部屋にひめるくんを招き入れてしまう理由も、何をするでもなくこの部屋で喋ってお茶を飲んで過ごすだけの時間が何より尊い理由も、ひめるくんが部屋を出る間際にいつも息が詰まってしまう理由も、何もかも上手く説明できそうにない。ひめるくんの何もかもを知っていたいという傲慢さの正体さえ。

「俺を俺として認識して欲しいから」
「…………」
「そう言ったらは幻滅しますか」

 その瞬間、いつだって余裕を浮かべている双眸が揺れたのを、私は見逃さなかった。

「私は欲深いから、きっとひめるくんの方が幻滅しちゃうよ」
に幻滅することなんてありません、これから先も」

 ひめるくんは馬鹿だと思う。あんなにも頭が良いのに、大馬鹿だ。私に幻滅なんてしないって言い切る癖に、私には同じ言葉を言い切らせてはくれない。アイドルとしてならあんなにも自信たっぷりにいつだってステージの上に立っているというのに、時折こうして、私の前でこんなにも自信なさげな顔をする。絶対にテレビにも、雑誌にも、Crazy:Bのメンバーにさえ見せないような顔だ。
 そんなひめるくんを見る度に、私はひめるくんが好きで好きで仕方なくて、けれどほんの少し憎たらしいと思ってしまう。

「…ありがとうね」

 本当のひめるくんが何だって、私は何も構いやしないのに。そう思ってることさえ、私に口にさせてはくれないのだ。