うつろい

「待って下さい、

 新しい紅茶をいれようと、立ち上がろうとした私の腕を掴んで、ひめるくんは引き留めた。カップが空だったから良かったものの、中身が入っていたら盛大に零れていたほどの反動だ。

「な、なに」
「ちょっと屈んで下さい」
「わわ、わ」

 結局キッチンに向かうことは叶わず、元通りひめるくんの隣に落ち着いてしまう。あまりぴったりとくっついて座ることなどないのに、掴んだ腕を離さないまま、私の肩口に顔を寄せた。その密着具合に思わず動揺し、カップを握り締めたまま固まってしまう。そんな私をよそに、肩、首、髪と、何かを確認するかのように順に顔を近付ける―――近付けると言うよりも、最早触れていた。

「な、なに、ひめるくん」
「…やっぱり」
「だから、なに」
「変えたでしょう、香水」

 私の顔を覗き込んで、なぜか怪訝な顔をする。ゆっくり頷くと、綺麗な顔の眉間に皺が寄ってしまった。
 確かに香水は変えた。プロデュースしているコスメ部門から、香水のラインも出す企画が上がっているのだ。そのサンプルをいくつか試している所で、彼の機嫌を損ねるようなことはした覚えはないのだが。そんなに彼の嗜好に合わない香りをしていただろうか。鼻につくような癖のあるものは、今日は使用していなかったはずだ。

「桜河が同じものを使っていました」
「桜河くん?…ああ、この間撮影の時に同じのあげたからかな…?使ってるんだ」
「使ってるんだ、じゃありませんよ」

 今度はため息をつきながら項垂れる。忙しい人だな。なぜか気落ちしている様子の彼を見て、「やめた方が良い?」と訊ねてみた。すると、私の肩を掴んで力の入った様子でこう言った。

「当たり前です」

 確かに、香りなどは特に人の好き嫌いがあると思う。けれど、これまで何をつけていようとあまりこんな風に非難されることはなかった。もしかして、余程何か嫌な思い出のある香りに似ている、とかだろうか。それならあまり言及しない方が良いが、割とチーム内では評判がいいので、このまま商品化する流れに持って行こうと思っていた。残念だが、お蔵入りにするしかないだろうか。私がひめるくんの前でつけなければ良い話だけれど、ひめるくんの好きではない香りを商品化するというのは、公私混同ではあるがなんだか気が進まない気がして来た。

「良い香りだと思ったんだけど」
「HiMERUはいつもの方が良いと思います」
「あれ、そんなに好き?」
「いえ、好きと言うか、何と言うか」

 ひめるくんにしてはやけに歯切れが悪い。その様子から、とりあえずこの香りがお気に召さないことはよく分かった。しかし、その割に私の肩を未だ放そうとしない。遠ざけた方が楽だとは思うのだが。

「つけちゃったものは、もう今日は取れないんだけど」
「それは仕方ないですが…あなた、桜河と仲良過ぎませんか」
「え?桜河くんがなんて?」
「なんでもありませんよ」

 言いながら、私の肩に額を押し付ける。ひめるくんがこうする時は、私に顔を見られたくない時だ。そうして暫く顔を上げてくれないことも知っている。ここまでの会話の中で、一体何が彼にとっての地雷だったのか。最近、ひめるくんの考えていることが読めなくないことが増えてしまった。前はもう少し、手に取るように分かったのに。
 よく分からないけれど、何か気落ちしている様子のひめるくんの頭を二、三度撫でる。分からないのに謝ることはしないけれど、だからと言って撥ね退けることはできない。困ったなあ、なんて思っていると、青い髪が私の視界の端で揺れた。


「なに?」
「明日また来ます」
「もう帰るの?」
「もう少ししたら」
「そう」

 時々、ひめるくんは子どもみたいだ。言いたいことを堪えて我慢している子ども。それを吐かせた方が良いのか、飲み込ませたままの方が良いのか、それだけは今も図りかねている。言えば楽になれるだろうに、何か、自ら苦しい方を選んでいるように見えて仕方ない。それを無理矢理吐き出させる資格も術もないのがもどかしい。案外、単純なことかも知れないのに。

「じゃあ、明日待ってる」
「少し遅くなります」
「分かった」

 でも、言われないから訊かない。それが私たちの暗黙のルールだ。だから、乞われた明日の約束にだけは、首を縦に振った。