ひびき

 カーテンの向こうから、ぼんやりと明るい光が入り込んで来る頃、インターホンは鳴った。眠りが浅いわけではない私が、なぜかそのたった一回の音で目が覚めたのか、眠っていながら何かを感じ取ったのかも知れない。まだ五時も回っていないような早朝も良い所だ。ただ、こんな非常識な時間に訪問して来る人間がいるとすれば、一人しか心当たりがない。まだ眠りから抜け出せない体を引きずって、目を擦りながらインターホンの画面を確認する。

「……ひめるくん…」
「おはようございます」

 いつもの涼し気な表情で、彼は画面に映っていた。当たって欲しくない予想通りの人物だ。長く重い溜め息をつきながら、通話を切って玄関に向かう。

「…いや、あの、私とひめるくんの仲だよ?仲だけどさぁ…」
「これでも申し訳ないと思っているのですよ」
「じゃあちょっとは申し訳なさそうな顔してよぉ…」

 大抵のことは許せるけれど、これは流石に何の嫌がらせかと思った。というのも、ここ最近の私は新商品開発のための会議やら打ち合わせ続きで、家に帰るのも深夜を回っていたのだ。私がいなくともこの部屋を訪れていたひめるくんなら、それは十二分に分かっていたはずなのだが。今日は、久し振りの休みだとも、私は昨日メールで伝えた。ひめるくんも「ゆっくり休んで下さい」と返事を送って来ていたはずだ。あれは疲労が見せた都合のいい幻だったのだろうか。

「HiMERUは今日から地方ロケです」
「でしょうね、もういつカメラが回ってもバッチリの出で立ちだよ」
「…が心底怒っていることは理解しました」
「これで理解しなかったらひめるくんの神経疑っちゃう」

 この嫌味は通じたらしい。ようやくひめるくんは少し申し訳なさそうに口を噤む。私だって多忙を極めていなければ、多少早朝だろうが深夜だろうが、ここまで機嫌を悪くすることはなかった。
 何もかもタイミングで、そういう時はあるものなのだ。あらゆる物事の歯車が上手く回らなくて、延々とすれ違ってしまうことも。かと思えば、それが嘘のように休みが重なり続けることも。私の休みのタイミングも、ひめるくんの地方ロケのタイミングも悪かったとしか言いようがない。
 分かっていても、この寝起きの頭では冷静に対応することなんてできない。しかも、こんな寝起きのぐちゃぐちゃの頭も顔も、誰が好き好んでひめるくんに見せたいと思うだろう。ひめるくんなんて、私とは逆に頭のてっぺんから爪先まで整っているというのに。
ああ、これ、いつだったかお気に入りだって言ってた帽子だな、と判別できるくらいには、やや頭が冴えて来た。

「暫く、入れ違いだったでしょう」
「そうね、ひめるくんもまたお仕事増えて来ていたし」
「せっかくが休みなのに、今度は自分が地方ロケです」
「……うん」
「だからせめて、顔を見てから行こうかと」

 何が言いたいのか、段々分かって来た。確かに、私もこれだけ入れ違いで、私の方が地方出張になってしまっていたら、同じようなことはしたかも知れない。直接会いに行く勇気はなくても、メールではなく電話をするとか、前日遅くなっても会いに行くとか、そのまま泊まってしまうとか。ひめるくんは、恐らくそのどれも試みようとして、ぎりぎりまで踏み止まった結果、いややはり私に会いに行こう、という結論に至ったに違いない。だったら最初から昨日の内に来ておいてくれ、と、また疲労の心から棘が顔を覗かせる。
 嬉しくないはずがないのに。集合時間は早いはずで、私の部屋に寄ろうと思えば、更に予定より早くに家を出なければならなかったはず。その労力や、それでも会いたかったと思ってくれる気持ちを思えば、嬉しくないはずがない。素直に喜べない可愛くない自分が、酷く疎ましかった。

「なんだか、ロケも嫌な予感がするのですよ」
「用心するに越したことはないんだろうけど、腐っても事務所が取って来た仕事でしょ?」
「信用ならない副所長の取って来た仕事ですよ」
「前から思ってたけど、ひめるくんなんでそんな事務所にいるの?」

 珍しく、心底嫌そうに顔を歪めるひめるくん。あまり見ないその表情に、思わず私も苦笑いしてしまう。
 私も元々は女優をしていたから分かる。長く家を空けるような時は、別れ際は笑顔の方が良い。何かわだかまりや懸念材料を残してしまえば、仕事に集中できなくなってしまう。ひめるくんは、そんなヘマしないかも知れないけれど。
 ひめるくんが、徐にこちらへ手を伸ばす。全く整えてられていない私の髪に触れ、手櫛で二、三度梳いた。引っ掛かった毛先を、丁寧に解いて行く。どうせこの後また私は寝るのに、その仕草がなんだか擽ったい。目が合うと、その星のような色の双眸が近付いて来る。

「だ、め!」
「……なんです、この手は」

 反射的に両手を伸ばしてぎりぎりの所で唇を押し返した。苛ついた顔のひめるくんは、売り物である自身の顔を圧し潰そうとした私の左手を掴んでいる。いや、今のは完全にあっちが悪いだろう。

「歯磨きも洗顔もしてないんだから!」
「騒がないで下さい、五時前の玄関口ですよ」
「じゃあ騒いじゃうようなことしないでよ!」
「HiMERUは気にしませんよ」
「私が気にするの!」

 ばかじゃないの、と、自由な方の右手でひめるくんの肩でも叩こうとすれば、鈍い私の動きなんて止められてしまう。結局両手を捉えられて、その唇が再度近付いて来る。逃げられない、と思ってぎゅっと目を瞑ると、何かが触れたのは前髪の上だった。触れて、すぐに離れる。手首を掴んでいたはずの両手は、するりと指を絡ませられていた。あなたが嫌がるから、とでも言うような、妥協のキスだった。それでも私を動揺させるには威力は十分すぎる程で、いつものしてやったりな笑みを浮かべるひめるくんを、私は真っ赤になりながら睨んだ。

「からかってるでしょ」
「景気づけに」
「酷い」
「酷いのはそっちですよ、

 手の甲で私の頬を撫でる。今日のひめるくんはなんだか様子がおかしい。殆ど呼ばれたことのない私の名前を呼んだかと思えば、今度は困ったような表情をして、また黙り込んでしまう。そしてもう一度、言葉もなく私の前髪にキスを落とした。

「いってきます」
「…いってらっしゃい」

 その一言を聞いて、ようやく安心したような表情を見せる。そう言って欲しかったのなら、最初から言えばいいのに。

(私だって、分かってたんだから言えばいいでしょ)

 お互い、肝心な所で素直になれない。危うく、喧嘩別れしてしまう所だった。
 惜しむように私から手を離すと、それでは、と言ってひめるくんは私に背を向ける。ドアを閉める直前、顔だけで私を振り返って、ひらひらと手を振る。私も、小さくそれに手を振り返した。静かに閉まるドアの音に、二度目の「いってらっしゃい」は掻き消されてしまった。