ざわめき

 幼い頃から芸能界に身を置いていたが、その世界から去ったことを知らされたのは、自分が復帰してすぐのことだった。また一緒に仕事できるといいですね、と社交辞令程度のメールを送った所、すぐに折り返しの着信があり、本人の口から告げられた。「知らないの?」、恐る恐るといった口調で訊ねて来た彼女は、本当に自分がその件を知らないことを疑ってもいるようだった。
 あの時、彼女に抱いた感情は、失望のような、軽蔑のような、落胆のような、とにかく負のものばかりだった。何を彼女から聞いても、「そうですか」としか言えず、電話口の彼女の声は次第に尻すぼみになって行った。あの時のことを蒸し返して、時々はわざとらしく溜め息をつく。

「もう二度とひめるくんと会えないと思ったなあ」

 今日は熱いから、と朝から水出しの紅茶を仕込んでいたらしい。彼女がガラスのコップをローテーブルに置くと、カラン、と氷の音が鳴った。仕事終わりでもう夜も遅いとは言え、都会の夜は全く気温が下がらない。冷えた紅茶で迎えられたことは、内心とてもありがたかった。

「あなたはいつも言葉足らずなのですよ」
「それはお互い様でしょう」
「ああいう大切なことで言葉足らずだった覚えはありませんが」
「暫く姿を消していた人間がよく言う」

 元の―――今のような関係に戻ったのは、自分が復帰して更に少し経ってからだった。仕事の現場で「そう言えばさんと仲良かったよね」と関係者に言われたことから、彼女の芸能界引退の真相を聞いたのだ。自身からは、「もう自分の限界を感じちゃった」などというふざけた理由しか聞かれなかったが、そう思うに至るような事件があったらしい。

『ひめるくんの意識の高さは分かってるから、仕方ないかなって』

 殊勝な台詞なんて彼女らしくもない。あまり言葉の続かない様子からするに、全く気にしていないという訳ではなさそうだった。少なくとも、お互いに同業者の中では一番気心の知れた仲だった自覚はある。だが、自分だって彼女に全てを打ち明けられている訳ではない。それを思えば、彼女が引退に至った経緯も話せなくて当然だと、最初の自分の態度を酷く悔いた。

「それで、今の仕事はどうなんですか」
「楽しいよ、何かを作るってとっても刺激的」
「それは何よりです」
「今度ほら、ひめるくんとこの桜河くんがイメージモデルしてくれるみたいで」
「…それは聞いていないのですよ」

 女優の仕事を辞めて以降、彼女が選んだ仕事は広義でのデザイナーというものだった。服やバッグなどの装飾品から、最近力を入れているのはコスメブランドの立ち上げらしい。ブランドの立ち上げ自体は聞いていたが、桜河が関わっていることは、彼女からも桜河からも聞いていない。ユニット内で逐一個人の仕事を詳細に報告しなければならないかと言われればそうではないのだが、なんだか釈然としない。

「拗ねないでよ、オファー出したらそっちの事務所の返事が桜河くんでって話だったんだから」
「拗ねていません」
「また一緒に仕事する機会ならあるよ」
「だから拗ねていません」
「ふふっ」
「なんですか、気色悪いですね」

 彼女がご機嫌になるような話など一切していないというのに、嬉しそうに目を細める。益々釈然とせず、見上げて来る彼女から目を逸らした。
 女優業を辞めて、彼女は綺麗になったと思う。憑き物が落ちたとでもいうのか、やはり打ち込める仕事があるのは大きな要因の一つだろう。確かに思い返してみれば、最後に共演した頃の彼女は、どこか息苦しそうにしていた部分があった。今はそんな様子が一切なく、いつ彼女の元を訪れてもその表情は明るい。

「今度は私、辞めないから」
「そうですね、ジョブホッパーはあまり褒められたものじゃありませんから」
「もうちょっと気の利いた言葉があってもいいんじゃない?」
「HiMERUの言葉なんてなくてもはもう平気でしょう」
「そりゃあ、そうだけど」

 何が不満なんですか、と訊ねても、別に、と返って来るだけ。けれど、それを言うのもなんだか違うような気がして、ついはぐらかしてしまった。
 本当は、彼女の欲しい言葉なんて分かっている。お互いの言いたいことも、手に取るように分かる。自分たちの間に何か名前のある関係が横たわっている訳ではないのに。それなのに、出会ってからの年数だけでは語ることのできない何かが確かにある。居心地の良さも、多くを語らなくても伝わるこの感覚も、今の人生だけで得たものではないかのようなのだ。

「あなたの立ち上げたブランドのコスメがドットコスメで年間一位を獲ったら、気の利いた言葉の一つや二つ差し上げましょう」
「ハードルたっか!それ来年の年間一位とか言わないでよね!」
「言いませんよ。辞めるつもりはないのでしょう、その仕事」
「自分の言ったこと忘れないでよ」
「HiMERUに二言はありませんよ」

 冷たい紅茶を飲み干して、彼女に向き直る。暫くじっと見つめ合ったのち、遂に耐えきれなくなった彼女が顔を赤くして「おかわりいれてくる!」とキッチンに向かう。その後ろ姿を見て、思わず声を出して笑ってしまった。もう、は女優じゃないらしい。