しかり

 ライブツアー東京公演の最終日は慌ただしい。まだこの後に大阪公演が控えていると分かっていても、一旦一区切りとなる今日は朝から皆が浮足立っていた。自分も例外なくそうで、なんとなく落ち着かない気持ちで星奏館を出て来た。
 会場に到着してそれぞれのユニットごとに設けられた控え室に入ると、HiMERUが一足先に到着していた。星奏館を夜も明ける前に出たらしいと彼の同室者に聞いたが本当だったらしい。誰もいないとばかり思い込んで、ノックと同時に部屋に入ってしまった。しまった、と一瞬思ったが、HiMERUは特に気にしていないようで特に咎めの言葉は飛んで来ない。

「桜河でしたか」
「なんやHiMERUはん、えらい早いな」
「星奏館にいても落ち着かないので」

 そう言ってHiMERUはスマートフォンに繋がれていたイヤホンを外した。いくら今日のリハーサルが早いと言えど、夜明け前の出発はあまりに早過ぎる。ユニットの中でも最も冷静なHiMERUが浮足立って早朝に出たとは考え辛く、落ち着かない、というのも彼らしくない。どこぞかに寄り道していた以外に考えられないのだが、それを言うつもりのないらしい当の本人は、何も聞いてくれるなと言わんばかりの笑顔を張り付けている。
 ユニットとして活動して暫く経つと言うのに、相変わらず一定のラインは超えさせないようだ。それは四人それぞれ同じではあるが、HiMERUの場合はそれがあまりに徹底されていると言うか、いっそ不自然なほどに自然を装っている。

「天城と椎名はどうしたのですか」
「この後のバスで来るっち言うてたわ」
「寝坊ですか」
「HiMERUはんが早すぎなんちゃう」

 まあリハに間に合えばそれでいいでしょう。そう言ってHiMERUの視線はまたスマートフォンに戻る。

「なんや真剣にスマホ見てるんやね」
「昨日のライブの見直しですよ」
「朝から真面目なこっちゃ」
「失敗するわけにはいきませんから」

 不思議に思うのは、いつもこの人物は崖っぷちにいるように見えることだ。確かに自分たちのユニットは一度追い込まれ解散の危機に瀕した。ESも一枚岩ではないことが露呈したり、過酷なSSも経験したりしている。けれど、それとは別のものが何か見え隠れする瞬間がある。それこそ踏み込んで聞けるようなことではないが。

「…お?」

 今度は自分のスマートフォンに通知が届く。持っていた荷物を適当にテーブルの上に置いて、スマートフォンのロックを解除した。
 燐音やニキからかと思ったが、一通は本日来場予定の藍良、もう一通は以前一緒に仕事をしたことがあるからだった。自分は彼女のプロデュースするコスメのCMに出たことがあるが、ESのアイドルの中には彼女のプロデュースした衣装を使っているユニットもいる。
 元々は昔、も女優をしていたらしいが、二年ほど前に引退してからはアパレルなどの仕事に携わっているらしい。当時はHiMERUとも共演の機会があったらしく、今でも親しくしているようだが、どうにもただの仕事仲間とは言い難い雰囲気の二人である。以前それとなく探りを入れて揶揄ってみたが、HiMERUに窘められてしまった。牽制とも取れる咎めの言葉に、ほんの少し複雑そうな事情を察したのだ。
 とはいえ、とは自分もいい友人だと思っており、時々連絡を取っている。珍しくもない連絡が届いたのだが、その中身は「今日のライブ観に行くね」という思いもよらぬものだった。

「…HiMERUはん」
「なんですか」
はんが来るっち言うてるで」
「知ってますよ」
「……まさか」

 ぴたりと、スマートフォンを操作していたHiMERUの手が止まる。

「彼女、いつも自分でチケットを購入しているそうですよ。円盤やCDなども持っていますし」
「いや、そういうことと違って、」
「だから融通したんです、関係者席のチケットを」

 やっぱりか、と呆れた口が塞がらなかった。観に行くね、というメッセージの前には、チケットをもらったので、という一文が付いていたのだ。いくらお世話になっている相手でも、今日のチケットを融通するほど彼女と親しい人物なんて、ESには一人しかいない。他にもライブに来たがっている関係者はいるだろうに、HiMERUが通したのは彼女一人だった。
 過保護やなあ、と言ったことがある。自分がを揶揄ったのを叱咤された時もそうだし、が熱を出して仕事を休んだ時だってそうだ。今は引退しているとはいえ、彼女は子役時代からこの世界にいて、十代の頃から自分で稼いでいる社会人であり、ある程度のことには対処できる能力なら備わっている。色恋の絡んだ冗談だってNGなわけでもない。
 それでもHiMERUは嫌がった。面白半分に、好奇心でに接せられることを。大丈夫なんだから放っておけと干渉を制止しようとした時も。関係ない、と素知らぬふりをしながら、誰よりもに過保護なのはHiMERU自身なのだ。

(いやまあ、チケットの融通は過保護とは違うかも知れんけど…)

 二人を見ているともやもやする。その、付かず離れずな微妙な関係は何なのだと。ニキはどうでも良さそうだし、燐音はそれを見ているのが面白いのだとでも言いたげに傍観を決め込んでいる。けれどどうしても、中途半端に思えて仕方ない二人の関係に白黒つけたくなってしまう。無関係なのは重々承知の上でだ。

「別にええやん。ラブはんも最初は一般なりファンクラブなりで頑張ってんで。それは贔屓っちいうもんちゃうん?」

 煽ってる自覚はあった。けれど、このぴくりとも表情を変えない目の前の人物が何か少しでも吐くのであれば、それで構わないと思った。その企みは見事にバレバレだったらしく、わざとらしく大袈裟なため息をつき、少々乱暴に席を立った。

は我々のファンではありません。そんな人間がお金を落とす必要はないでしょう」

 すると、「少し出て来ます」と言って控え室を出て行く。
 しまったやりすぎたか、と頭を掻く。いや、でも今のはそんなに怒るようなことではない。相手がでなければ、あんな風にHiMERUが過剰に突き放すような言葉を冷たく言い切ることはなかっただろう。に関しての沸点の低さが露呈してしまったわけだが、恐らくそれは彼自身も気付いている。先程の言葉は、「はファンではなく自分にとって特別な存在なのだから、お金を使って会いに来るなんてことをして欲しくない」と言っているようなものなのである。だからばつが悪そうに控え室を出たのだ。
 まあただ、自分に完全に非がなかったわけでもない。一応フォローは入れておくことにした。

(HiMERUはんを怒らせたので、あとはよろしゅう、と…)

 ほんまによろしゅう頼むで、と心の中で反芻してメッセージの送信ボタンを押す。ほどなくして「桜河くん一体何したの!?」と焦りの返事が来たわけだが、燐音たちの到着より更に後で控え室に戻って来たHiMERUの機嫌はすっかり直っていた。さっきは見苦しい所をお見せしてすみません、と謝罪さえされてしまった。ひやりとした出来事ではあったが、これで確信を得た。二人はやはりただの友人ではないのだと。
 そしてその後、からは、「あんまり揶揄っちゃだめだよ」といつぞやのHiMERUのようなお叱りメッセージが届いたのだった。