へだたり

「なんちゅう顔してるんや…」
「別に、ちょっと眠れなかっただけですよ」

 と喧嘩をした。いや、厳密に言うと喧嘩にすらならなかったのだが、喧嘩と言った方が手っ取り早い。お陰で昨日は眠れなかった。遅くにを訊ねたわけではない、の口にするものにあれこれ文句を言ったわけでもない。が何も言わないから、何も言わないことに口を出した。
 事務所に入っても昨日のの顔が頭を離れず、いつもよりいくらか低いトーンで挨拶をする。まだ会議室には桜河しかおらず、それが余計いつもの自分になる猶予を作らせた。

「HiMERUはんをそんな顔にさせることができるんははんくらいやな」
の話なんて一つもしていませんよ」

 全部わかっているとでも言いたげな桜河に反論するも、「分かっとる分かっとる」と、何も分かっていない癖に同情の眼差しを向けて来る。桜河がの何を知っているんですか、と喉元まで出かかって、大きなため息だけを漏らした。
 はいつも何も言わない。女優を辞めた理由も、今の仕事で衝突があった時も、多忙で体調を崩したことも、自分には何も言わない。芸能界を引退したことは風早巽には言っていたらしいし、体調を崩した時は真っ先に桜河に連絡をしていた。自分には何も来ない、いつだって人伝なのだ。自分に弱っている所を見せないようにしているのかも知れない。それはそれで彼女の美点ではあるのだけれど、こんなにも何も言われないと、自分は彼女にとって何のために存在しているのかすら分からなくなる。

「で、はんと一体何があったん?」
「何もありませんよ」
「そんなアホな」
「何もないから問題なのです」

 この仕事をしていれば、あらゆるイベントに仕事が入る。誕生日、クリスマス、バレンタイン、それは芸能界に身を置いていたもよく分かっているはずだ。だから、何の約束もできない。には何の約束もしてやれない。そんなの目が、初めて揺れた。昨日の別れ際、「今週…」と言いかけて、そしてその口を噤んだ。なんでもない、といつものように自分で自分の言葉を遮ったのだ。
 今週、と言われれば嫌でも察した。クリスマス、と続けたかったに違いない。当然その日は遅くまで仕事で、きっとの元に駆けつけることはできない。それでも、が言うのであれば、形を変えてでも彼女と会う時間を作ろうと思っていた。けれどいつだって、彼女は飲み込んで我慢してしまうのだ。
 いつもであれば流すことのできるそんなの癖を、昨日はなぜか見ない振りできなかった。そうですかと言って、また来ますと手を振ることができなかった。

『なんでもないって顔をしていませんが』
『どんな顔よ、なんでもないってば』
『…いつもはそればかりですね』
『なにそれ、私が悪いの?』
『別に責めたつもりはありません』
『嘘、目が笑ってない』
『じゃあそうだって言ったらは謝ってくれるんですか』
『やっぱり私が悪いんじゃない…』

 まさに売り言葉に買い言葉だ。あんなことを言うつもりはなかった。にあんな悲しそうな顔をさせるつもりもなかった。SS本戦が近くてピリピリしていたことは否定できない。それでも、故意にを傷付けるようなことを言った自分に非があることも否めない。
 いつだっては“言わないで”いてくれたのだ。約束をしたって守れなくて、その度に自分に謝らせたくないから、何か彼女に希望があってもそれを口に出すことはほとんどしなかった。それがきっと彼女の中で決めたルールなのだろうし、最大限の気遣いで優しさだった。分かっているのに、そんなを傷付けたのは自分だ。

「女の人を泣かせたら花束持って謝ったらええて燐音はんが言うてたで」
「いつの時代の話ですか。あまり天城の言うことを鵜呑みにしないで下さい」
「それでも、はんお花好きやろ」
「なんで知ってるんですか」
はんのプロデュースしたっちコスメ、全部お花の名前やって。せやから好きなんちゃうかって」

 それは確かにそうだが、そこまで桜河が考察していることがなんとなく気に食わなかった。ただでさえ、桜河とは仲が良いというのに。

「…まあ、好きですけど」
はんが?」
「桜河」

 言うようになったな、と顔が引き攣る。
 天城も椎名も恐らくまだ来ない。スマートフォンを片手に席を立つと、桜河がにやにやとしながらこちらを見上げて来る。すぐに戻ると念押しをして会議室を出た。
 は今日は休みだと言っていたが、この時間ならもう起きているはずだ。の連絡先を探し出して、通話ボタンをタップした。数回呼び出す音が鳴る。こんなに緊張して彼女が出るのを待つなんて、まるで最後の審判を待っている気分だ。
 二回、三回、四回、が出るまで待つ。やがて、ぷつりとその呼び出し音が切れた。

「…はい」

 まだ起きたばかりなのか、かすれた声でそのたった一言の返事が聞こえ、自分でも驚くほどに安堵した。


「なに?」

「だから、なにって」
「怒ってますか」
「…ちょっとね」

 素直に感情を伝えてくれるその声が愛しい。スマートフォンの向こうから、ごそごそと何か物音がしたかと思えば、テレビをつけたらしく何か人の喋る音が聞こえて来る。
 言いたいことは、言わなければならないことはたくさんあったはずなのに、どれ一つとして言葉になって出て来ない。謝罪も、次の約束も、今日の約束も、に伝えないといけないのに、この薄っぺらい機械を通して聞こえて来る彼女の生活音に、今すぐあのマンションに駆けつけたくなってしまった。

、あの」
「ごめん」
「え?」
「昨日は、ごめん」
「いえ、あれは自分が……」

 謝る前に謝られてしまった。彼女には何の非もないというのに。
気まずさから、また沈黙してしまう。一体今、どんな顔をしてこの電話に出ているのだろう。また泣きそうな顔をしているのだろうか。昨日の、不用意な自分の言葉のせいで。


「なに」
「今日の夜、行きますから」
「…うん」
「なるべく早く」
「うん」

 廊下の向こうからよく知った二つの声が聞こえて来て、「ではまた」と言って切ろうとする。スマートフォンを耳から離そうとすると、「ひめるくん」と呼び止められる。

「待ってるね」

 そんなの声がしたのと、通話終了を押したのはほぼ同時だったかも知れない。けれど確かにそう聞こえた。
 今日くらいは花でも買って行こうかと、そんなことを思ってしまった。