ゆらぎ

 忙しいと連絡もおざなりになっていた彼が、家に帰るとそこに居た。どうしたの、と訊ねても「いえ、別に」としか返って来ない。彼らの噂は聞いていたし、何度か私もライブ会場には足を運んでいたから、彼の疲弊した様子の理由も察するのは容易だった。
 疲弊と言えばいいのか、憔悴と言えばいいのか。恐らく本意ではないであろう活動ゆえの暗い表情なのだろう。

「疲れてるね」
「まあ、ライブ続きでしたからね」
「知ってるよ」

 好きに使って良いと言ったのに、お茶の一つも淹れていないようだ。代わりにキッチンに立ち、ケトルのスイッチを入れる。程なくしてカチッという音がして、粉末の紅茶をいれたマグカップにその中身を注いだ。
 別に、以前から頻繁にこの部屋に来ていた訳ではない。けれど、なんとなく定期的にここで見ていた姿が遠のいていたのは、微かな寂しさを私の胸の底にも落としていた。尤も、今の彼の姿を見ていると、その突然の訪問を手放しで喜べる訳ではないのだけれど。

「あなた、この間観に来ていたでしょう」

 マグカップを二つ、リビングのローテーブルに置くと、彼は徐に口を開いた。その言葉に、何を今更、と小さく息をついた。

「結構何回か観に行ってるんだけれど」
「まさかチケット買っているんですか」
「買ったり、…たまに融通してもらったり」
「馬鹿ですか、あなたは」

 言えば自分が融通した、とでも言いたげな口ぶりだ。しかし、多忙なことが分かっていてわざわざ連絡できるはずがない。融通してもらうにしても、以前なら私も業界関係者として堂々と入れただろうが、第一線を引いた身としては後ろめたさがある。彼の中では些末な問題なのだとしても、それは彼の杓子定規であって、私とは違うのだ。

「ねえ、私に文句言うために来たわけじゃないでしょう?」
「半分はあなたへの文句ですよ」
「久し振りに会ったかと思えば酷い憎まれ口」
「久し振りに来たのに粉末の紅茶淹れる人に言われたくないですね」

 そんなことを言いつつ、ケチをつけた紅茶に口をつける。その横顔に、思わず見とれた。出会った頃から綺麗な顔立ちをしているとは思っていたけれど、ここ最近はなんというか、特に。抱える憂いが余計にそれを加速させているのか。
 そんな彼から視線を外して、私も隣に腰を下ろす。似たようなマグカップに手を伸ばして緊張で冷えた指先を温めた。

「ねえ」
「何ですか」
「いつでも来て良いんだからね」
「はい?」
「来たい時に、来れば良いんだから」

 返答はなく、何か虚を突かれたような顔をしている。何その顔、と言えば、いえ別に、と最初と同じ言葉を繰り返す。そうしているつもりですよ、と言って小さく笑った彼の横顔は、以前会った時よりやはり痩せたように見えた。