いつか夢見た逃避行

 前にも、こんなことがあった気がする。静かに波が寄せては返す音を聞いて、ぼんやりとそんなことを思い出した。あの時と違うのは、真夏の炎天下ではなく、涼しい風の吹く九月の夜だということ。そして、ここへ連れ出したのはではなくて自分の方だということだ。よくよく考えたら、あの時と同じようなことなんてほとんどなかった。

「りっちゃん、寒い」
「俺も」
「いやなんでよ」

 腕を擦って見せるは、じとりとこちらを見る。これもあの時と立場が逆転している。あの時、恨み言を言ったのはではなく俺だった。
 は頼めばいつだって最終的には折れてくれる。が歌えなくなって退学するまでは、昼休みに姿を消せばいつだてが探しに来てくれたし、木曜に兄者が帰って来る時は割と遅くまでの家に居座ったりもしていた。最初はぶつぶつ文句を言うものの、世話焼きなは結局俺を放ってはおかないのだ。

「りっちゃんって時々ほんと分かんない」
「そう?」
「もうずっと、一緒にいるのに」
「俺は結構の考えてること分かるよ」
「うそでしょ」
「ひどいなあ、今のは傷ついた」

 全く心にもないことを言えば、はますます怪訝そうな顔をする。今日はもうずっと、の表情は険しい。こんな夜遅くに連れ出したのだから仕方ないのだけれど、せっかく引率にの好きな兄者を仕方なく連れて行ったのに。その兄者は、少し離れた所で俺とを見ている。目が合うとひらひらと手を振られたが無視すると、「凛月~!?」という叫び声が聞こえた。
 その時、小さく噴き出すのが聞こえる。今度はこっちが眉を顰める番だった。

「…何笑ってんの」
「相変わらずだなあって。付き合ってくれてるんだからもうちょっと愛想良くしたらいいのに」
「ちょっとでも愛想良くしたらアレ調子乗るでしょ」

 べっと舌を出す。それを見てまたは笑った。
 ようやくの笑った顔が見られたというのに、そこに兄者の存在があると思うとちょっと癪だ。それだけではない、ああ見えてミーハーな所があるし、セッちゃんのファンだってことは隠してるつもりが隠せていないし、その癖どれだけ誘ってもKnightsのライブに来ない。これだけは、どれだけ頼んだって未だ折れてはくれない。
 それは今はいいとして、今日を誘ったのには理由があった。

、何かあったでしょ」
「何か、とは」
「何かは何かだけど」

 途端に、の顔からまた笑顔が消える。やけに波の打ち寄せる音が大きくなった気がした。高く昇った月に薄い雲がかかって、の表情にも影を落としていく。
 同じ学校にいれば、ある程度は分かった。今どんなコンクールを控えているのか、どんな課題曲を練習しているのか、良い評判も悪い噂も、ある程度は耳に入って来たし把握できた。けれど、ESという場所にの活動拠点が移ってからは、ほとんど何も見えなくなってしまった。本人の口から聞かないことには、少しの噂も入って来なくなってしまったのだ。
 最近はごくたまにESビルで見かけることもあるけれど、ただすれ違うだけでは、その表情の奥にあるものを読み取ることができない。それでも、元気がないのは明らかだった。だから、不本意ながら兄者の力を借りてこうして誰もいない海へ連れ出した。

「…夢ノ咲にいた頃はね」

 ゆっくりと間をおいて、が話し始める。

「高校生だった頃はね、できないことってそんなに多くなかったの」
「うん」
「でも、だめだね、社会人ってそうはいかないみたい」

 ちゃんと進級しないとりっちゃんを置いて卒業しちゃうからね、という脅し文句を、はいつも俺に言っていた。けれど実際は、卒業すらできなかった。一緒に卒業するはずだったは、自分より早く夢ノ咲の制服を脱いでしまった。一度も同じ色のネクタイをつけることもなく。

「りっちゃんよく分かったね」
「何年一緒にいると思ってんの」
「確かに、そっか。一番長く一緒にいるんだよね、私たち」

 感慨深そうにそう口にすると、その場にしゃがみ込んだ。

「寒い?」
「寒いのもあるけど…」
「けど?」
「泣きそう」

 少し鼻声になりながら掠れた声で呟く。の隣に、同じようにしゃがむ。その横顔をちらりと見れば、月の光に照らされてその目が潤んでいるのが分かった。
 は我慢強い。ちょっとやそっとじゃこれまで弱音を吐いて来なかった。のいた声楽の世界も競争が激しく、明確に順位としてその結果が出る。だから折れている暇も弱っている暇もなかったのだ。
 いつからこんなに細くなっただろうかと、その線を見て思う。あまりに頼りなく華奢な体には、どうにも見覚えがない。もうずっとこんなだっただろうか。制服を着ていた頃は分からなかっただけなのだろうか。

「泣いたら」
「りっちゃん、すぐそんなこと言う」
「泣きたい時は泣く以外の解決法なんてないよ」
「泣いちゃだめなの、まだ」

 目元を擦るその姿に、いっそ危うささえ覚える。そこまで頑なになられてしまえば、「そう」としか言えなかった。上手く泣かせてやれれば良かったのだろうけど、生憎そういうのは得意ではない。で人に甘えるのが下手だから、俺たちは相性が悪過ぎたのだ。
 そろそろ帰ろう、と兄者が呼びに来る。もうちょっとゆっくりの話を聞きたかったけど、それもできないらしい。先に立ち上がって手を差し出すと、は控えめに右手を乗せる。思い切り引っ張り上げると、驚いた顔でこちらを見上げた。
 びっくりした、とこぼす。それはこちらの台詞だ。あまりの軽さに、引き上げながら驚いてしまった。不安になってぎゅっと手を握ると、は俯いて俺にしか聞こえない声で言った。

「帰りたくないな…」

 もし、互いに何の立場もなかったとしたら。そんな不毛なことを考える。きっとそうすれば、の言葉どおりこのまま帰らず、二人きりでどこかへ消えてしまっていたかも知れない。けれど現実はそうではなくて、ここには二人きりではなくて、戻らなくてはいけない場所がある。
 二人で消えてしまうことのできない歯痒さに悔しさを感じながら、のこぼした言葉に返事ができず、黙って手を握ってあげることしか今はできない。
 もしもいつか、お互いに何もなくなってしまったら、その時は二人でどこか遠くへ行こうと誓った。