曖昧な境目

「あらぁ、またちゃん来てくれないの?」

 ナッちゃんがリハーサル終わりの俺の顔を見て言った。のKnights出演ライブ不参加記録は絶賛更新中である。今年の目玉だったMDMもSSの予選も来なかった。それこそ見に来たのなんて遥か昔、ナッちゃんが加入して直後くらいまでだったのではないだろうか。ス~ちゃんも月ぴ~も見たことがなかったような気がする。ES内で会ったことくらいはあるようだけれど。

「仕方ないですよ、のお姉さまもお忙しいでしょうから」
はス~ちゃんのお姉さまじゃないんだけど~」
「いだだだだだだ凛月先輩痛いです!」

 よく伸びる末っ子のほっぺたを左右に引っ張る。その伸び具合を見て、セッちゃんがとんでもない形相をした。
 スケジュールが合わない、と言われてしまえばそれまでだ。けれど、これだけたくさんのライブをして来ておいて、ピンポイントに全てに予定が入っているとは考えにくい。それとなく理由を聞いてみたり、かまをかけてみたりしたことはあったけれど、いつも上手くかわされている。

「まあ乙女心って複雑だし、仕方ないんじゃないかしら」
「見て来たかのように言う…」
「アタシ、ちゃんとお友達だもの」
「俺は幼馴染みだし」
「そのポジションに胡坐かいてると足元すくわれるわよ~。ねえ、泉ちゃん」

 突然振られたセッちゃんは面倒くさそうに「巻き込まないでくれる」と言って睨んで来た。セッちゃんはそれどころじゃないらしく、ス~ちゃんを捕まえてまだ説教している。
 ナッちゃんが言うことは正論だし、尤もだと思う。頑なにがライブに来ないのはそれなりの理由があるのだろうし、それは多分俺には理解できない。けれど、はぐらかされたままスルーばかりされるのはやっぱり納得がいかないのだ。…まさか、俺が在学中のの舞台を一度も観に行けなかったことを根に持っているのだろうか。

はそんなことしないし…)

 自分で想像してしまったもしもをかき消すように頭を振るけれど、自信がない。足元をすくわれる、というナッちゃんの一言は意外と効いてしまったらしい。
 胡坐をかいているつもりはなかった。けれど、に甘えている所があったのは確かで、逆にが甘えるようなことはして来たことがない。が頼りにするのはいつだって自分ではなかった。偏に、はま~くんと一緒に保護者みたいなことをさせていたからなんだけれど、因果応報だと言われれば返す言葉もないのかも知れない。

「そういえばのお姉さま、この間瀬名先輩のサイン会に来ていましたね」
「は?」
「司ちゃん余計なこと言わないの!」
「セッちゃん」
「…………」
「セッちゃん、来たの?」
「あーもー来たよ! 来たって! すっごいマシンガントークかまして行ったけどぉ!?」
「あいつリッツの幼馴染だったのか? 瀬名に捲し立てるなんて愉快なやつだな~!」

 スマホを取り出して昨日やり取りしたとのメッセージ画面を開く。その手を掴んだのはナッちゃんだった。

「り、凛月ちゃん落ち着いて、ちゃんは悪くないわ、踏みとどまって」
「みんな知ってて俺に黙ってたんだよねえ…」
「別に隠していたわけじゃないのよ~…」
「俺だけ知らなかったみたいだけど」

 失言した張本人はまたセッちゃんに説教をくらっている。
 との間で瀬名泉のせの字も出たことはない。ライブにだってもうずっと来ていないというのに、ちゃっかりセッちゃんのサイン会に行くほどファンだったというのは本人に説明を求めないと気が済まない。ナッちゃんと友達だというのは知っていたけれど、あそこは女友達みたいなものだからいいのだ。そもそもは友達少ないみたいだし。

「今日のライブ、くまくんのパフォーマンス悪かったらかさくんのせいだからねぇ」
「それは理不尽です!」
「俺の方が理不尽なんだけど!」

 そこでパフォーマンス落とすほどいい加減な仕事をしているつもりではない。けれど、もう後ろの小競り合いに口を挟む気にもならない。セッちゃんは怒りながらス~ちゃんと月ぴ~を連れて先に控え室に入ってしまった。中からはまだ口論の声が聞こえて来る。
 会いたいと思った時にすぐに会えない分、仕事で表に出る時はに見ていて欲しいと思う。けれど、はそうじゃないらしい。俺はどんなでも知っていたいし、どんな俺でも知って欲しいと思うのに、は違うのだ。一度が体調を崩して長期休暇を取り、実家に強制的に帰らされていたあの一件以来、前よりはずっと連絡を取る頻度は上がった。けれどが夢ノ咲にいた頃ほど何もかもが分かるわけではなくて、仕事だからとは話せないことも多くなった。に仕事が絶えないことはいいことなのだけれど、手放しで喜べなければいつか罰でも当たってしまうだろうか。
 ダメ元でもう一度にメッセージを送ってみる。今日見に来ないの、と。すると、ものの数分で返事が来た。「多分行けない」という至極短い返事だった。これで兄者のライブに行ったらと思うと俄然腹が立って来た気がする。

「多分ってなんなの」
「あっ、鳴上先輩に凛月先輩、お疲れ様でーす!」
「あら、藍良ちゃんたちもリハ終わったの?」

 先に控え室に入った三人に続いて、控え室のドアを開けようとした時だった。俺たちの後でリハをやっていたALKALOIDが、リハを終えたらしく揃ってやって来た。そういえばは最近、彼らのボイストレーニングを担当しているとかなんとか、聞いたことがある気がする。ここまで手広く仕事をしていると、確かにが忙しいことに間違いはないのかも知れないけれど、どうしても割り切れなくてもやもやしてしまう。

「最近ボイトレの先生にレッスンお願いしてるんですけど、夢ノ咲にいた人らしいんです」
「へえ、そんな仕事してる人いるのねえ」
「鳴上先輩たちと同じ学年だったって言ってたんですけど、先生って知ってます?」
「あー……あー、ええ、まあ」
「今回は断られちゃったんですけど、次のライブなら行くねって先生から連絡が来て」
シメる」
「え?」
「凛月ちゃん! 藍良ちゃん、その話はまた今度ね!」

 背中をぐいぐい押してナッちゃんは俺を控え室に押し込んだ。
 は、意図的にKnightsのライブを避けている。きっとトリスタのライブにも行っているだろうし、兄者たちのライブにも行っているだろう。これはほとんど確信だった。

「もう誰でもいいから連れて来れないわけ!?」
「それができたら苦労しないのよ~!」
「レイにでも頼んでみるか?」
「それは火に油なのでは…」

 四人がこそこそと何やら話し合ってるの背中に聞きながら、「多分行けない」というからのメッセージで止まった画面を見る。多分行けないと言うのなら、もしかしたら行けるかもという意味ではないのか。この「多分行けない」に“多分”なんて本当は要らないのに、が変に気を遣っただけだ。断られると分かっていて誘う俺もしつこいかも知れないけれど、これだけ誘われても一度も顔を出さないだって頑固も良い所だ。
 控え室の空気がますます重くなったその時、コンコンと軽いノックの音が部屋に響く。助け舟と言わんばかりに「私が出ます!」と元気に末っ子が対応しに行く。それを横目で見ながらメッセージ画面を消した。がちゃりとドアの開く音が聞こえた次の瞬間、素っ頓狂な声を上げたス~ちゃんに一斉に視線が集まった。突然の訪問者は、スタッフや他のユニットのメンバーなどではなく、思いもよらぬ人物だった。

のお姉さま!」
「いや、朱桜くんの姉では、」
「やだーっ! 待ってたのよちゃんっ!」
「ゆっくりして行け!」
「くまくん連れてさっさと出て行ってくれない!?」
「ひえっ」

 ここにいるはずのないがそこにはいた。一連の流れをずっとそばで見て来た四人はに詰め寄る。月ぴ~とセッちゃんの意見が割れているけれど、とりあえずは引っ張り込まれた上に、四人が控え室を出て行ってしまった。気が利くというよりは、いい加減この空気に耐えかねたというところだろうけど。
 突然控え室に入れられたは、居心地が悪そうにきょろきょろしている。俺の機嫌がよろしくないことももちろん察していて、声を掛けにくそうにしている。俺だってもちろんの登場に少なからず驚いているし、今と話して解決できるようなことは何もない。だからと言って追い返すようなことはできないし、驚きと、苛立ちと、ほんの少しの嬉しい気持ちでとても複雑だ。

「あ、あの、りっちゃん、顔だけ見たくて」
「なんで」
「え?」
「顔見るだけならライブの後でもいいじゃん」
「…ごめん」

 思いのほか冷たい声が出てしまった。完全に八つ当たりだ。「女の子に酷いこと言わないの!」というナッちゃんの声が聞こえるようだった。しゅんとしたを見て、罪悪感にちくりと少しだけ胸が痛んだ。

「謝るなら俺の機嫌損ねた責任取ってよね」
「せ、責任とは」
「俺たちみたいにファンサービスするとか」
「お、お姫様ぁ~ってやつ?」
「馬鹿にしてる?」
「しっしてないよ!」

 セッちゃんを真似たつもりなのだろうが、あまりの出来に思わず笑ってしまう。どうやらとしては真剣にやったつもりだったらしい。みるみる内に真っ赤になったは「笑い過ぎ!」と声を上げた。相変わらずどこかずれているというか、この空気でそんなことができるなんて度胸がある。なんだかさっきまでのことが全部どうでもよくなってしまった。
 今でこそ元気そうにしているけれど、少し前のは元気がなかった。体調が戻らなかったらどうしよう、と、そんな弱音を吐くほどに。ずっとすぐそばで見て来た幼馴染みが、思ったよりも弱くて小さいのだと知ったのはあの時だった。我儘を言って振り回したことはあったけれど、あの時決めたのだ。何があってもを責めたりしないと。

「そんなにお手本を見せてあげよう」
「はい?」

 少しでもを責めたことに心の内で謝りながら、手首を掴んでを引き寄せる。そして、小さい頃よく内緒話をした距離で囁いた。

「楽屋へようこそ、お姫様」
「ひ……っ!」

 ばちんと音を立てながらは思い切り自分の耳を塞いだ。さっきよりも真っ赤になって、ぱくぱくと魚のように口を開閉させている。声にならない声で叫びながら、信じられないとでも言いたげな顔で見上げて来る。

「も…っ、もう帰るからっ!」
「うん」
「そ、それと、」
「うん」
「…がんばって、ライブ」
「うん、も」

 口を尖らせてぼそっとそれだけ言うと、はばたんと大きな音を立ててドアを閉めて出て行った。
 今日はいつもよりがんばれそうな気がする。明日、ライブの最終日を迎えたら、一番にに会いに行こうと思った。