夜の隙間

 八月の夜は、まだ空気が昼の名残を引いている。じとりと肌を撫でる微かな風を鬱陶しく思いながら、冷房の効いた我が家へと帰路を急いだ。夕飯を食べたら昨日買って来たアイスを食べよう―――そんな小さな楽しみの算段を阻んだのは、今は事務所の寮で暮らしているはずのりっちゃんだった。
 長らく顔を見ていなかった幼馴染との遭遇に、思わず息が詰まる。なんで、とか、どうして、とか、それ以前に久しぶり、とか、何か言うことはあるはずなのだろうが、何も言葉が出て来ない。そんな私とは正反対に、目の前の幼馴染は以前と変わらない様子で「おい~っす」と言って手を振る。なぜこのタイミングで現れたのかも、なぜそんな軽い調子で私に声をかけられたのかも、何もかも分からない。ぎこちない笑顔すら作れず、表情も体も固まった。

「どうしたの?幼馴染の登場だよ?」
「そ……そう、だね」
「もしかして俺の顔忘れちゃった?」
「まさか、そんな……」
「だよね」

 あんなことした俺の顔、忘れる訳ないよね。悪びれもせず彼―――りっちゃんは口にした。その言葉に、私の体はますます固まる。今やアイドル事務所の看板をも背負う彼が、軽率な行動は避けるべきだ。それがたとえ、実家の家の前だとしても。そんな私の危惧など他所に、私に近付いて訊ねる。怒ってるの、と。
 怒っていないといえば嘘になる。けれど、今の私の感情を適切に表すのであれば、怒っているというよりも困惑していた。

(しらじらしい…)

 あの日も、今日と同じ満月の夜だった。まだ春の兆しが全く見えないような時期だ。何がきっかけだったか、私はりっちゃんの家に足を運んだ。学年末テストの勉強だったかも知れない。彼らは私たちと違い、さほど一般科目は重要視されないものの、最低限の点数を取らなければもちろん再試も有り得る。面倒臭がりなりっちゃんの為にも一発合格させてやらねばと、ヤマをはりに行ったのだと思う。
 ある程度私の役目を終えた時には外はもう真っ暗になっていた。疲れたのかいつしかうたた寝してしまっていた私が、ふと視線を巡らせた先は、カーテンも閉め忘れた部屋の窓。そこからは、大きな満月が覗いていた。ベッドに座るりっちゃんは私を見下ろしていて、何か、含んだような笑みを浮かべている。寒気のようなものを感じた私は、思わず後ずさろうとした。けれど、逃げようとする私の手首を捉えてそのまま床に押し倒したりっちゃんは、あろうことかそのまま首筋に噛み付いたのだ。

 ―――痛い?

 あの時も、りっちゃんはそう私に聞いた。別に、思い切り噛みつかれた訳じゃない、血が流れた訳でもない。でも確かに、ぞっとした。それまで幼馴染みに抱いたことのない、恐怖と言う感情が生まれたのだ。意図が少しも分からなくて。
今また、その赤い眼が光る。その視線から逃れるように、門を開いて自分の家の敷地に入ろうとした。そんな私の腕をりっちゃんが掴んで止める。その手の力に、あの日の光景がフラッシュバックする。どくん、と一際大きく心臓が鳴った。

「無視しないでよ」
「…別に、無視してない」
「じゃ、なんでこっち見ないの」
「…………」

 なかったことになんてできない、けれどできればなかったことにしたほどに、強烈な出来事だった。手首を捉えた手の温度も、首筋に触れた歯の感触も吐息の熱さも鮮明に覚えている。けれど、あの行為にりっちゃんは何の意味も持たすことはなかった。体を押し返すこともできず怯える私を見下ろして、自らを嘲笑するような表情をした。まるで、拒んだ私が悪かったみたいな気持ちになった。
 幼い頃からずっと付かず離れずでいた私たちだけれど、あの時にはもう立場が違った。ESの設立でそれはより明確になったし、あの時にはもうりっちゃんのニューディへの所属も、星奏館への入寮も聞いていたのだ。だから、ごく微妙な関係だったけれど、決して名前の付くある一定の線を越えた関係にはなれないと、私も悟っていた。その矢先の出来事に、私の中で何かが揺らぎかけたのも事実。ただ、あまりにも前触れがなさ過ぎた。

「ごめん」
「…………」
「ごめん、

 謝って欲しかった訳じゃない。きっとあんなことがなくても、遅かれ早かれりっちゃんとは疎遠なっていたのだろうと思う。同性の幼馴染みならいざ知らず、男女の幼馴染みなんて、きっとそんなものなのだ。私の周りでも大概そうだから。ただ、それなら尚更最後にあんなことをしないで欲しかったと思う。足が半分ラインから出たような、微妙な踏み込み方をして来ないで欲しかった。どうせ、私たちにこれから先なんてものはないのに。欲しいのは、ごめんなんて言葉じゃなかった。

「酷いよね」
「ごめん」
「全部分かってて、あんなことしたんでしょ?」
「……うん」

 私がそれを許してしまうことも、全て見越して。りっちゃんのことで、許せないことなんてこれまで一つもなかった。一度は腹が立ったって、結局いつも許してしまっていた。許せてしまっていたのだ。決定的な一言をくれないと分かっていても、それでも私は何度だってりっちゃんを許してしまう。歯を立てられたあの日のことだって。
 掴まれた腕を緩く振りほどいて、りっちゃんに向き直る。何度目か分からない「ごめん」を口にして、私の頭を抱き寄せる。肩の向こうには、あの日と同じ満月が浮かんで、滲む。りっちゃんは耳元で私の名前を囁き、そしてまた、ごめんと言った。夜の中に溶けて行く声で。