アンダースタンド 後編

 帰りながら話そうよ、と言われたものの、二人で学校から出るわけにはいかない。他の生徒の目もなくなる場所まで来て、私はりっちゃんと落ち合った。体育祭の片付けが終わってからの下校はもう薄暗く、これなら多分誰も私とりっちゃんだとは気付かないだろう。

「足、痛む?」

 顔を見るなりそう言って、私の荷物を何も言わずに取り上げた。いつもはむしろ、私がりっちゃんの荷物を持っているくらいだ。さすがにりっちゃんを負ぶった真緒にりっちゃんの鞄まで持たせることはできないからである。驚いて思わずじっと見てしまうと、りっちゃんが不思議そうな顔をした。

「なに?」
「…いやに優しいなと思って」
にはいつでも優しいつもりだったけど」
「それは嘘でしょ……」

 ファンの女の子たちに手厚いファンサービスをしておきながらどの口が言う。説得力がないんだよなあと、ひねた気持ちと呆れる気持ちで肩を落とした。ステージに立つりっちゃんはいつもとはまるで別人で、自身の中でプロとして明確に線引きをしているのは私にも分かる。けれど、私にとってはどっちもりっちゃんだ。ステージを降りたりっちゃんも、ステージの上のりっちゃんも。普段のりっちゃんの延長線上にKnightsのりっちゃんがいる。だから、私はいつだって直視することはできない。
 ゆっくりと家への道を辿りながら、なかなか本題には触れずに当たり障りのない会話を続ける。最近の授業のこと、レッスンのこと、教室での出来事や友達のこと。うん、うん、とりっちゃんはただ頷いて私の話を聞いている。末っ子の癖に、こういう時は聴き上手なんだよなあと感心してしまう。

「それから……」

 顔を上げて、りっちゃんの方を見上げる。りっちゃんも私を見下ろしていた。
 ずっと昔、小さい頃は同じくらいだった背もいつの間にか抜かされてしまっていた。高くて可愛らしかった声も、いつの間にか声変わりしてしまっていた。手を繋いで走り回っていた幼い頃が、もう幻のようにも思える。いつだって隣にいたりっちゃんを遠く感じるようになったのはいつからだっただろう。形を変えずにいた思いを伝えてはいけないものだと確信したのは、一体いつだっただろう。

「うん、それから?」

 心の内を全て見透かしてしまうかのような目で私を見る。
 幼馴染みだからと言って好きになるわけではないと、いつだったか友達が言っていたことがある。小さい頃からずっと一緒で、それでも好きになることは奇跡みたいなものなんだよと。けれど、その奇跡が辛いとは言えなかった。

?」
「…なんでもない」

 言いたいことに蓋をするみたいに、「なんでもない」を繰り返した。りっちゃんもそれには気付いていて、だから「最近はそればっかり」と苦言を呈したのだ。忙しくてりっちゃんと顔を合わせる暇がないのは私には好都合だったし、その内に忘れて、消してしまえる思いならそれでよかったのに。他でもないりっちゃんがそれをさせてくれない。
 また「なんでもない」を繰り返す私に、りっちゃんは足を止めた。私の頬を両手で挟んで、私の目をまっすぐに見下ろした。

「今日は“なんでもない”はなし」
「それは、」
、言いたいこと全部言ってよ」
「それは……」
「俺、になら何言われてもいいよ」

 振り回されることもあるけれど、りっちゃんは優しかった。私に無理を言うことなんてこれまでなかったし、私がどれだけりっちゃんに怒ったってりっちゃんが怒り返すことはなかった。多分、りっちゃんの言うとおり、私が何を言ってもきっと怒るようなことはしない。りっちゃんなんか嫌いだって言っても、きっと怒ったりしない。そっか、て言えてしまうような人だと私は知っている。
 けれど反して、りっちゃんも私がそんなことを言わないって分かっている。体育祭の最中に言われたとおり、私はりっちゃんは好きで、りっちゃんもそれを確信している。だから何を言われても、なんて大それたことが言えるのだ。
 じゃあ、その自信を砕いて嫌いだって言ったらりっちゃんはどんな顔をするのだろうか。

(言えるはずがないのに)

 嘘でも嫌いだなんて言えるはずがない。でも、好きだなんてもっと言えない。

「私は」
「うん」
「私は、このままがいい」
「このまま?」
「ずっと、このままがいい」

 私に言えるのはここまでだった。今のまま、このままなら終わりは来ない。今のまま、ずっと仲の良い幼馴染みのままでいれば、疎遠になることもないし別れる日が来ることもない。都合が良くたってなんだっていい。いつか終わりが来てしまうなら、今のままがいい。好きだと言えなくても、特別な位置にいることができなくても、ここが最善なのだ。
 こつんと額がぶつかった。昔、りっちゃんが熱を出した時に私がよくやっていたように。りっちゃんは目を閉じて、私だけに聞こえるように静かに言った。

「俺はが好き」
「…………」
「だから、がこのままがいいならそれでいいよ」

 そう言ってゆっくりと私から離れる。りっちゃんはいつもどおりだった。いつもどおり、穏やかな表情で私を見下ろしている。まるで、私がこのままがいいと言うことさえも分かっていたかのように。
 私は何を期待していたんだろう。自分の言ったことを覆してくれるとでも思っていたのだろうか。そんな都合のいいことあるはずがないのに。このままがいいと思ったのは本当で、だけどいつまでもこのままだなんて嫌だと思ったのも本当だ。終わりが来るのが怖い一方で、終わりが来てもいいから一度でいいから特別な一人にして欲しいと思う。こんなちぐはぐな気持ちを言えるはずがなくて、口から出た最良の選択肢だった。最低限、何も起こらずこのままでいられる、変わらないでいられると思って。

「…このままがいい」
「うん、わかった」
「このままがいいよ」
「わかった、わかったから」

 小さい子どもを宥めるようにりっちゃんは返事をする。

「泣かないで、

 私の目元をそっと拭う。それはよく知っていた形の手ではなくなっても、間違いなくよく知っているりっちゃんの温度だ。
 このままでなんていられなくなる時が来るのかも知れない。りっちゃんの気持ちが私が離れる日が来るかも知れない。私がりっちゃんを好きなままで、りっちゃんも私を好きなままでずっとなんて、そんなこと無理なのかも知れない。このままでいいなんて、私の勝手な都合だから。いくらりっちゃんが優しくて、私の我儘を聞いてくれたのだとしても。
 それでもせめて、あと少しだけ。ずっとだなんて言わないから、せめて卒業するまで。

「ごめんなさい、ごめんなさいりっちゃん」
が謝る必要はないよ」

 大丈夫だから、とりっちゃんは言う。だから泣かないで、と。けれど、ずきりずきりと痛む胸の奥が、泣き止ませてはくれない。
 いっそ好きだとこの手を取ってしまえれば楽なのかも知れないのに、それだけは駄目だと許さない自分がいる。でも好きでいたい。誰よりも私がりっちゃんを好きでいたい。どんな熱心なファンの女の子より、私がりっちゃんを一番好きでいたい。ずっと好きでいたいのだ。
 こんな歪んだ気持ちを伝えるわけにはいかなくて、私はそっと目を閉じた。いつか忘れた頃に―――りっちゃんを忘れた頃にでも、笑って言えたらそれでいいと思いながら。