アンダースタンド 前編

 体育祭が嫌いだ。もっと言えば運動と呼べるものは全て嫌いだ。昔から運動神経がなくて、当然体も硬い。音楽をやる上でも褒められたことではないのだが、嫌いなものは嫌いだ。体育の授業でやるような運動と、舞台で一曲歌いきるだけの体力とは関係がない気がする。…というのは、運動嫌いな私の勝手な憶測ではあるけれど。

の運動音痴はいっそ清々しいよねぇ」
「うるさいなあ……」

 体育祭の練習で捻挫をして全種目欠場となった私は、一日救護室のパイプ椅子を温める羽目になってしまった。こんな足では何の手伝いもできない。そんな私を真っ先に笑いに来たのはりっちゃんだった。だけこんな日陰で狡いよね、なんて言われたけれど、誰が何と言おうとりっちゃんだってこのテントの下で出番まで過ごす気満々ではないか。人のことを貶す筋合いはないぞ、と睨んだ。が、りっちゃんは私の視線なんて綺麗に無視をして欠伸をして見せる。
 私だってしたくてした捻挫ではない。確かに体育祭は嫌だけど、こんな不便な生活はもっと嫌だ。おまけに、りっちゃんは心配の一つもしてはくれない。昔から運動会や体育祭絡みで碌な経験のない私をよく知っているからだろうけど、ちょっと薄情だと思う。仮にも幼馴染みなのに。

「ここいいなあ、もう応援合戦なんて出ずにずっとここでいたいかも」
「じゃありっちゃんも怪我でもすれば」
「なんで、そんな不機嫌なわけ」
「…別に」

 別に、これと言って大きな理由はない。ただ一つ何か言い訳をするなら、視線が痛い、だろうか。片や声楽科在籍とはいえ一般生徒、片やアイドル科在籍で人気ユニットの生徒。一般の生徒の間で「あの女子生徒馴れ馴れしくない?」と囁かれていてもおかしくはない。そんな刺さって来る視線が痛くないのか、気付いていないのか、気にならないのか、ギャラリーをちらりとも見ない。私はりっちゃんと目を合わせることすらしないというのに。りっちゃんのクラスメートたちは私たちの関係を知っているから、「ああまた朔間凛月の幼馴染みか」で済ましているけれど、ややアイドル科の生徒からの好奇の目もある。こんなことなら学校自体欠席してしまえばよかった。
 人目のあるところではこうして線を引いて接しているのに、私の努力なんて我知らずとでも言いたげにりっちゃんは“いつも通り”だ。りっちゃんらしくはあるけれど、やっぱりここまでりっちゃんに人気が出てしまったなら、多少気にして欲しいと思う。何も、学校でいつも通りでなくていいのに。

「最近の、変だよね」
「変で結構」
「俺に冷たい」
「そんなことないけど」
「ほら、そういうとこ」
「……りっちゃんはさあ…」

 私は頭を抱えた。私こそ、りっちゃんのそういうとこに困っているのだけれど。妙な所で鋭くて、肝心な所に鈍感なのだ。そこまで察しているなら、わざと突き放していることまで察して欲しい。スクールカーストなんてものを気にしないのもりっちゃんらしいけど、とかく女子はこういうことには敏感だ。すぐに私が何科のなんて言う名前の生徒かということも突き止められてしまうのだろう。あまりここでりっちゃんと親しくしていて目を付けられたくない。アイドルは等しく“みんなのもの”でなければならないのだから。私だって、アイドルの朔間凛月と親しくしていようとは思っていない。私が好きなのは、昔から知っている幼馴染みのりっちゃんなのだから。ステージ上ではないにしろ、学校にいる限りはアイドルとして振る舞っていなければならないのに、そういう自覚がこの人にはあるのだろうか。いや、前にも同じようなことを言ったことがある。けれど、頑なに「は別でしょ」と言って聞かなかった。そういう特別扱いを受けたいわけではないのに、どう言い聞かせればいいのか、もう策も尽きて来た。苦肉の策が突き放す、だったのだ。

「なに?」
「…なんでもない」
はさあ、なんでもない、が増えたよね」
「そんなことない」
「なんでもない、そんなことない、ってそればっかり」
「…………」

 普段の授業やプレッシャーから解放されて競技に参加する生徒たちはみんな笑顔だ。賑やかで軽快な音楽が終始流れていて、体育祭に相応しく晴天。このテントの下は、それらとはまるで真逆のどんよりとした空気が流れる。
 こんな、誰が聞いているかも分からないような所でりっちゃんと真面目な話なんてできるはずがない。尤も、最近は忙しくて学校以外で顔を合わせることも難しかった。りっちゃんはKnightsの活動であちこち引っ張り凧だし、私も校内発表会やコンクールの練習でほぼ休みなし。ここが、ようやく私を捕まえられる場所だったのだろうけど。

「昔も今も、俺にとってなんだけどなあ」
「…………」
「俺はに隠し事なんてしたことないし」
「昔と今じゃ、違うでしょ…」
「違わない、が一方的に壁を作ってるだけ」
「だって、」
「だって?」

 何これ、誘導尋問みたいだ。それに気付いて、口を噤む。すると、りっちゃんは私の顔を覗き込んで来た。探るように私の目を見て来るけれど、居た堪れなくなって私は顔を逸らした。
 りっちゃんは何も分かっていない。私がアイドルとしての朔間凛月と関わりたくない理由も、プライベートでだけりっちゃんと付き合っていたい理由も。単に、純粋に幼馴染みであればここまで周りの目なんて気にしない。疚しい気持ちがなければりっちゃんとこうして喋っていても堂々としていられる。けれどそうじゃないから、どこかでボロが出るといけないから避けたいのに、りっちゃんは何も分かっていない。

にそんな態度取られて、俺がなんとも思わないと思う?」
「なんでこんな態度なのか考えたことあるの?」
「あるけどさあ…」

 そこでようやくりっちゃんは顔を引いて、思案の表情を浮かべた。顎に手を当てて「うーん」なんてわざとらしく声を漏らしている。横目でそれを眺めながら、分かるはずがない、と高を括っていた。りっちゃんに好きだなんて言ったことはないし、それらしい素振りを見せたこともない。至ってただの幼馴染みとして接して来たつもりだ。恋愛感情なんてないかのように振る舞っていた。けれど、私の必死さを嘲笑うかのように隣にいる人物は全て暴いて行くのだ。

が俺を好き以外思いつかないんだよね」

 途端に、全ての音が止まる。体育祭の騒がしさも、アナウンスも、声援も、何もかもが聞こえなくなる。りっちゃんの目はまた私を見ていて、今度は私もりっちゃんを見つめ返していた。すっと、心臓から冷えて行くような気がした。
 ああもうなんで、そういうことばかり当てちゃうかなあ―――呆気なく明かされてしまった私の本心に、それでも頭ばかりが冷静でいたと思う。取り乱したり、あまつさえ真っ赤にならなかった自分を褒めてやりたい。何年も上書きして来た分厚い壁は、今更そんな当人の一言くらいでは崩れないみたいだ。可愛くないな、と我ながら思った。多少頬でも染められる乙女なら今頃りっちゃんと幼馴染みの垣根を超えられていたかも知れないのに。

「ばかじゃないの、りっちゃん」
「俺もそう思う」
「ほんと、ばか」
「でも、もばかだよ」

 もしもの話は不毛だ。けれど、一つだけもしもの話をしたい。私はアイドルのりっちゃんを好きになった訳じゃないから、もしもりっちゃんがアイドルになっていなかったら、ここまで待たずに好きだと言えた。何の躊躇いもなく言えた。私が好きなのは昔から知っているりっちゃんだ。だから、アイドルのりっちゃんなんて知らなくて良かった。知らない女の子たちに騒がれている姿も、ファンの子たちに笑って手を振る姿も見なくて良かった。見なくて良かったのに、反面、どんなりっちゃんでも知っていたいと思う。でもそれはとてもとても怖いことで、きっと今以上に汚い気持ちになってしまうから、故意にKnightsの情報は耳に入れないようにしていた。
 見つめ合っている世界が、もう何時間も経過したように感じた。りっちゃんは何か私に言葉を求めている風ではなかったし、何か続きを言おうともしていなかった。ふと頭の片隅を、不格好でもこのまま本当に時間が止まってしまえばいいのに、という思いが掠めた。りっちゃんだけを視界に入れたまま止まるなら。現実ではそんなことは無理で、何か遮るものは必ず現れる。止まっている私たちの間に割って入って来たのは、りっちゃんの参加する競技に関するアナウンスだった。

「あーあ、行かないと」
「…………」
、俺はどんなとこもに見ていて欲しいと思ってるよ」
「私は……」
「ちなみに、の返事は聞いてないから」
「なにそれ」
「ほんとはちゃんと時間取って話したいんだけど、お互い難しいしさ」
「だから私は、」
「体育祭が終わったら話しようよ、帰りながら」

 いろいろ、と言って小指を出して来た。小さい頃よくやった指切りでもするつもりか。ますますあちこちからの視線が痛い。りっちゃんはりっちゃんで指切りするまで梃子でも動かないつもりだし、その後ろで早く来るようにとりっちゃんを呼ぶ声が聞こえる。
 こういう時、いつも折れるのは私の方だ。りっちゃんもなかなか頑固なところがあるから、こうなってしまえば私が譲歩してしまう方が早い。私は、なるべく周りに見えないように、膝の上で同じように小指を出した。りっちゃんも満足したようで、指切りをするとのろのろといつものマイペースで呼ばれた方へ歩いて行った。じゃあね、と言ってひらひらと手を振りながら。