木曜日は誰のもの

 “あれ”は自分のものだ、と錯覚し始めたのはいつからだっただろうか。そこにいるのが当たり前、という感覚は実に恐ろしい。ふと手元を離れた時に、ようやく自分のものではないことを実感する。
 最近、“あれ”がこの学科で交友関係を広めているのはじわじわと察していた。その一番の原因は紛れもなく自分ではあるのだけれど、面白くないと思うのはまた別の話で。俺に忘れ物のノートを届けに来たはずの“あれ”は、寝ている俺の机にノートだけぽんと置くと、すぐに離れて行ってしまった。元々は人の好き嫌いはしない方だし、近付かれれば拒まない性質だ、溶け込むのは早かった。俺が後悔するのが遅かった。

「…で、なんで凛月ちゃんのノートがちゃんの家にあるのよ」
「りっちゃん、木曜は家に近寄りたくないって」
「だからってそろそろ年頃の女の子の家に転がり込むのは頂けないわぁ」
「うちのお母さんもりっちゃんお気に入りで、むしろ歓迎してるというか…うち、男の子いないから」
「お母様もお母様ね……」

 別に盗み聞きしようとか、聴こうと思って聞いてる訳じゃない。でも、“あれ”の声は何より耳に入って来るのだ。例えば、全校集会でどんなごった返した人混みの中にいたとしても。それは、決して“あれ”が夢ノ咲の声楽科に現れた十何年かに一度の逸材だとか、十何年ぶりの歌姫と言われているからだとか、そんな壁のある理由ではなくて。

(あれ……じゃあなんだっけ……)

 の声は嫌いじゃないし、名前を呼ばれるのも嫌じゃない。そうでなければこんなにも聞こえて来るはずがない。目を閉じてシャットアウトしようとしても無理なのだ。自動的にあの声を拾おうとしている。誰と、何を話しているのかを。

「…で、りっちゃん本当に起きないね、いつもながら」
「ある種の才能よねぇ」

 全部聞こえている。それと共にもやっとする。そんな遠巻きから誰かと俺の話なんてしなくていいのに。“あれ”はいつもここで俺の話をしたがるのだ。バレていないとでも思っているのか、そのやり口はまるで情報収集のよう。直接聞いて来ればいいようなことも、このクラスで親しくなった相手に聞く。俺が寝ていなければいいって、それはそうだけれど。でも、話しかけて来なくてもこの教室にいるなら俺の近くにいればいいのに。どうせこの昼休み、各々が席を移動して俺の前の席だって空いている。そこにただ座っていればいいのに。

「りっちゃん」

 別に呼びかけて来なくても、そこに居ることは知っている。

「りっちゃん、私、声楽科に帰るからね」
「…………」
「午後の授業、寝てちゃだめだよ。せっかくノート届けに来たんだから」
「…………ん」
「じゃ、またね」

 小さい子どもにするみたいに、頭を撫でてその手は離れて行く。物理的な距離は仕方がない。学科が違えば同じクラスになることなんてない。中学までと違って、今では一日の大半をとは別々に過ごす。もうそれも三年目だけれど、このどうしようもなく物理的な距離も近くに置いておきたい気持ちのやり場はどうすればいいのだろうか。いや、無理な話だ。と共有する時間なんて減るばかり。今も、が一番近くにいたのは俺じゃない。

「凛月ちゃんってば」
「……あとちょっとだけ」

 歌姫なんて称されるは、もう俺の知ってる幼馴染みの顔をしていない。そしてその内、もっと遠くへ旅立って行ってしまう。だったらいいではないか、あと少しくらい。一週間の内に一日だけ一番近くにいる日があったって。まだ、“あれ”の木曜日は自分のものだ。