この残響が消えるまで

 放課後の小さな第三音楽室の放課後、秋の風が吹くようになった最近は、差し込む西日を暖かいとさえ思う。普段は主に声楽科や音楽科の授業で使われるこの教室は、それぞれの教室からやや離れた所に位置しているため、自主練習に使う生徒は少ない。今日も誰も自主練習の予約を入れていなかったため、飛び込みでここの鍵を借りたのだが、どういうわけか先ほどりっちゃんが乱入して来たのであった。どうやらKnightsの練習から逃げ回り、ここに辿り着いたらしい。よくもまあ、あんな遠くからここまで来ようと思ったものである。それなら練習に出た方が余程体力も消耗しないだろうに。
 とにもかくにも、りっちゃんが現れたことにより自主練習を妨げられた私は、楽譜を片付けることにした。あまり、人前で歌いたい気分ではない。

「私、来学期から普通科に変わろうかな…」
「…そんなことできたっけ」

 ぽつりと、りっちゃんに聞こえないように言ったつもりの言葉は、しっかり拾われてしまっていた。

「じゃあ来年」
「声楽科からってあんまり聞いたことないんだけど」

 むくりと、机に突っ伏していたはずのりっちゃんが顔を上げる。大きな欠伸をして眠そうな目をこすると、「なんかあったの」なんて言った。まあ、確かに普通はあんなひとり言を聞かれてしまえば、そう言わざるを得ないだろう。ただ、りっちゃんがそうやって言及して来たのが珍しいだけだ。

「りっちゃんはさ、今でも真緒と仲良いよね」
「…なに、いきなり」
「私、アイドル科のことは今でもあんまりよく分からないけど、その、なんか闘ったりするんでしょ?」
「あー……まあねえ、たまに」
「でも、仲良いの?」
「それとこれとは別でしょ」
「そっか」

 例外もいるみたいだけど、と付け足したりっちゃんはやっぱり眠そうだ。男子と女子とではやはり違うものなのか、うちの声楽科がそうなだけなのか。私は今、とても声楽科の中で居心地が悪い。アイドル科のように大々的に行われる訳ではないけれど、声楽科にも代々行われている発表会があり、その最後の出演者が現時点で最も評価が高く成績の良い生徒とされている。まず出演するだけでも先生の推薦や普段の成績も影響し、出演が決まれば次に出演順だ。最後になればなるほどレベルは高くなる。ここはきっと、アイドル科のドリフェスと違う所だろう。声楽科発表会の中でも最も大きいものが秋に行われる秋季発表会で、そこを目指し春から調整する生徒も多い。声楽科の生徒であれば在学中に誰もが憧れる舞台である。
 その秋の声楽科発表会における私の出演順が最後から三番目だということが、先日発表された。それ以降、声楽科での居心地がとても悪い。例年、最後の三人は三年生が占める。それは長年揺るいだことがなかったと過去のプログラムや資料を見て誰もが知っていることだ。そこに、異例の二年生である私が組み込まれ、声楽科ではちょっとした事件のようになっているのだ。一年生からも好奇の目で見られ、同級生たちからはありもしない噂を囁かれ、三年生からは冷たい目で見られる。友人まで、最近どこかよそよそしい。

は、歌うのやめたいの?」
「…今は歌いたくないだけ」
「秋の発表会もうすぐじゃなかったっけ」
「そのための練習に堂々と邪魔しに来てるのりっちゃんなんだけどね」
「俺がいてもいなくても、は歌わないといけない時は歌うよ」
「たまに正論言うのがほんとむかつくんだけど」

 ピアノの蓋を絞めてりっちゃんの方を見ると、まるで「そうでしょ」とでも言いたげににこにこと笑っている。褒めたつもりはないのだけれど、どこかずれている。そんな様子を見て、どこか力が抜けてしまった。

「あれ、歌わないの」
「よくもまあしゃあしゃあと……」
「じゃあ俺が弾こうっと」

 また珍しく、何やらやる気を出したらしいりっちゃんは立ち上がり、こちらへ近寄って来た。私が鍵盤を拭いて蓋も占めたピアノを、もう一度開ける。最近弾いてないんだよねえ、なんて言いながら、さすが特技と称しているだけあってその指使いは鮮やかなもので。声楽のために必要最低限の技術しか持ち合わせていない私には真似なんてできない。できないのに、りっちゃんはいつだって簡単に「これくらいもできるでしょ」と言ってくれるのだ。
 ピアノに凭れてその旋律を聴いていると、自然と旋律を口ずさんでいた。ああ、そうだ、私は歌うのが好きだったんだ。だから無理を言って普通科じゃなく声楽科を受験させてもらった。必ずプロになるから、と頭を下げて。うちは経済的に余裕のある方じゃないし、受けられる個人レッスンだって限られている。周りから見ればそれは真面目にやっていないように見えたのかも知れない。だから、「なんでが秋季発表会のラスト三人に入っているの」と言われるのだ。決して、不正を働いたわけでもないのに。

「やっぱり好きじゃん、歌うの」
「うん……」
「だったら多分、普通科は面白くないよ、には」
「……うん、そうだね」

 りっちゃんのピアノに合わせて歌う。昔からこんなことをしていた。りっちゃんがピアノを弾いて、私が歌って、そんなことをしてよく遊んだものだ。昔からどこかぼうっとしているりっちゃんは、私や真緒が面倒さえ見ているというのに、どうしてか、私が参っている時に限ってタイミングよくふらりと現れる。そうして、別に大層なことを言って行く訳でもないのに、私はそれに救われるのだ。りっちゃんの癖に。留年しちゃってる癖に。私も真緒も、そろそろ自立しなよ、と何度も何度も言い聞かせているのに、多分、幼馴染離れできないのは私の方だ。

「りっちゃん、次、古典歌曲がいい」
「なにそれ」
「これ。秋季発表会で歌うの」
「ふーん」
「弾いてよ、特別に発表会前に聴かせてあげる」
「弾いて下さい聴いて下さいの間違いじゃないの」

 でも、もうちょっとだけ。ここを卒業してしまえば今みたいにはできないから。今でさえ昔よりも少し距離ができたっていうのに、大人になってしまえば、なお。だから卒業するまででいいのだ。それまでにちょっとずつ距離を開けて行けばいい。そうすれば、卒業して急に寂しくなるなんてことはないから。こうして過ごしている今が、「大事な時間だった」と思うようになる日が来るまでは、まだもう少しだけ。
 西日が傾く。少し肌寒さを感じるようになる。それでも薄暗くなり始めた第三音楽室には、りっちゃんのピアノと私の歌声だけが響いていた。